夏虫の身をいたづらに 前


貴族の身とは甚だ煩わしいものだ。四楓院ひいづるとして生まれて八年、そう思ってしまうのは、四大貴族などという大層な身分に生まれたが故の傲慢だろうか。己の為にしつらえられたという、庭も調度品も女中達も美しくはあっても、何一つ心を慰めてはくれないのに。

「二の姫様、」

ひいづるの、伸ばすにはあまり適さないだろう髪をくしけずる女中や傍らに控えた女中達、遊び相手にと寄越された女童達までもが、決してひいづるの名を呼ばないのも、寂しいものがあった。以前、それを雲雀(朽木紫苑という綺麗な名前があるのだから本当はそちらで呼ぶのがよろしいのだろうけれど、当人がいたくお気に召していないようだったので、呼ぶのをやめてしまった)に溢したら、「貴族なんだから仕方ないんじゃない」と笑われたが、そうなると、己を名前で呼ぶのは自然、父か雲雀だけになってしまう。静かに生きていく為には仕様のないこととは言え、心を許せるひとの、何と少ないことか。せめて雲雀の傍にいられたらよいのに、彼は多忙な護廷の隊長という重役に就いていて、とても望めそうにない。いや、きっとひいづるが縋れば何なく叶うのだろうけれども。雲雀に我儘を口にするのは、幾つになっても、どんな関係になっても躊躇われるのだ。
おずおずとした様子で控えている、うら若い女中は、それに気づいていたのだろうか。だとしたら、とても気のつくよい女性であるなあと、ひいづるは微笑みかけた。

「何ですか?」
「その、誠に申し上げにくいのですが…朽木様から、本日のお約束はなかったことに、と…。」

朽木様。その姓を持ち、そう呼ばれる人間は何人もいるが、四楓院家に足しげく通うひとはたったひとりしかいない。
ひいづるの髪をくしけずっていた女中の手が止まる。少し離れて、真新しい紅梅の衣に薫を焚き染めていた女中らも、こちらをそれとなく伺っている。彼女達は、今夜、雲雀が訪れる予定だったのは勿論のこと、それをひいづるが心待ちにしていたのも知っていた。だから、幼くも女性である(ということになっている)ひいづるの為に、今の今まで殿方を迎えるに相応しい心遣いをしていたのだ。
雲雀は、四楓院家、ひいてはひいづるにとって、只の客人ではない。ひいづるが成人し次第、夫となるひとである。だが、悲しいかな、ここ最近雲雀の訪れはとんと少なくなっており、本日の約束も無下になったのなら、丁度三週間顔を合わせていないことになるのだ。

「そうですか。」

表情を変えずに頷いたひいづるは、実のところその理由を知っている。護廷十三隊を率いる総隊長、山本が貴族に恩を売る為に寄越してきた、見合いに出席しているのだそうだ。最後に会った時、不機嫌極まりない様子の雲雀は、ひいづるの小さな身体を抱き込みながら、ひたすら悪態を吐くばかりだった。何でも、今の隊長職を辞して一番隊副隊長となるか、人身御供に捧げられるかの二択を迫られ、後者を取ったらしい。雲雀が怒りに任せて咬み殺そうとすれば、咬み殺した瞬間に傍らの雀部を証人として総隊長に成り代わらせようとしていたと言うのだから、山本は雲雀の人と成りをよく理解している。
彼自身にこそ自覚がない、というか無関心なのだが、雲雀は貴族の女性に人気が高く、率直に言えばモテる。許嫁と公言している四楓院家の娘(言わずもがなひいづるのことだ)が幼いこともあってか、虎視眈々と正室の座を狙う姫君方が後を絶たないのだ。それを山本は利用しようという魂胆なのだろう。
彼の愛弟子である京楽も引き摺り出されたようで、ひいづるから離れようとしない雲雀を辟易しながら連れ帰った彼の背中も、雲雀の不機嫌さに負けず劣らず哀愁が存分に漂っていた。見合いと言えど、貴族に支援を仰ぐ為の付き合いのようなもので、山本も本気で結婚させるつもりではないのが救いだが、そのぶん数が多いらしく、性状こそ正反対でありながら同じく自由を好むふたりには厳しいものがあるのだろう。
恒例となっていた、雲雀の夜毎の訪問にまでそれが及ぶまでは、仕方ないことと思えていたのだけれど。

「…朽木様もお人の悪い。幼い姫様を奥方に望まれたのはあちらからだと言うのに…」
「…成人されたご立派な方よ、他に女性をつくるのが普通なのよ…」
「…それは杞憂でしょう、傾国の妃もかくやとばかりのご寵愛ぶりですもの。…」
「…けれど、お可哀想だわ。ただでさえ妾腹でいらして、後ろ楯のないお方でいらっしゃる…」

女中達のひそやかな声さえ、耳に障るのは、少なからず自覚しているからだ。めかし込んで、いつまでもいつまでも雲雀を待ってしまう己と、雲雀と席を共にしているだろう見知らぬ女性らに対する妬み嫉みを。
注がれる愛情を、信じていないのではない。ただ、己がその隣にいないのが悔しくて苦しくて腹立たしい。見知らぬ見合い相手が、もしかしたら雲雀に触れているかもしれないと想像するだけで、胸が鬱ぐ。あの美しい獣が自分のものだと主張できないことの、何ともどかしいことか。それこそマフィアなんてやっていた頃は、その性状や守護者であることを理由に下手な人間は一切近付かせなかったのに。
いっそ幼さを言い訳に飛び出して行ってしまおうかとも思うが、ひいづるがそれをするにはあまりにも難しかった。着付けられた単や衣は重く、走るには不向きだ。駆り出された刑軍に捕獲されて終わりだろう。
小さく溜め息を吐く。と、ひいづるの髪を調えた年嵩の女中が、柔らかく声をかけてきた。

「畏れながら、姫様。朽木様に文を出されては如何でしょうか。」
「ふみ…ですか?」
「はい。離れた恋人というものは、文を交わして駆け引きするもので御座いますから。」

ひいづるがぱちくりと目を瞬かせたのも構わず、彼女はいそいそと墨やら硯やらを引っ張り出してくる。他の女中達も話すのを止めたと思えば、それを見て、あちらこちらから各々美しい紙を持ち寄ってくる。

「やはり、薄墨で書くのがよろしいわよ。」
「紙は、この薄紅藤が相応しいのではなくて。」
「お名前にかけてもよいけれど、紫苑のお色では深すぎるものね。」
「え?え?ええ…?」

女中達は楽しげに話を進めているが、何が何やらさっぱり分からない。言い出した女中を見上げても、「朽木様へどのようにお恨み申し上げましょうか」とにこにこしながら、戸惑うひいづるに筆を持たせるばかり。
見合い相手に嫉妬こそしているけれど、別に雲雀を恨んでいる訳ではないのに。
そう口にしようとして、ああでも、とやめた。昔、彼に伝えてみたい言葉があったのを、思い出したのだ。お世辞にも上手とは言えない字であるのは自負しているが、この機会に書いてみるのもいいかもしれない。

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