血の匂い、爆ぜる空気の匂い。目覚めない友人、破壊された家屋。サイレンの音。
……嫌な夢だ。嫌な、過去だ。
今の、何もかも終わった平和な日々は、あの殺人鬼を倒した(誰も殺してなんかない。断じて。)お陰で訪れたんだ。心の中でそう何度も繰り返し、緩慢な動作でベッドを出る。
傷は少し前に綺麗に塞がったから痛みはないはずなのに、腹に木片が刺さっているような気がして何度も脇腹を撫でた。時計を見ると、普段起きる時間より幾分遅かった。目覚ましは寝惚けて止めてしまったんだろうか。伸びをしながら窓の外をちらと眺め、それから着替えを始める。急がないと億泰が来ちまう、と口に出し、アイツがいなかったらどうしようなんて不安を押し込めた。
夢見が悪かったせいか、髪型が決まらない。
何度も櫛を動かしているうちに、視界の端の時計は普段の登校時間を過ぎていた。普段なら「オイ仗助ェ、早くしろよォ〜」なんて呑気な声が聞こえてくるはずだ。聞き慣れた声がないせいで、まさかさっきの夢が、なんて押し込めたはずの不安が頭をもたげ、俺はブンブンと頭を振る。そうしてまた、髪が乱れた。
少ししてドタドタと大きな足音と共に「何やってんだよ、遅刻しちまうぞ?」と飛び込んで来た億泰を見て、思わず安堵の溜息を吐く。億泰は「めずらしーなァ、」と目を丸くした。おれの髪型のことに言及しないのは、億泰が優しいからかそれともバカだからか。
「……何がだよ」
「別に。たまには遅刻もいーかってな」
兄貴に怒られそうだけどよォー、と続いた言葉は呑気なものだったけれど、おれの心をずしりと重くした。億泰はそれを知ってか知らずか、「今日くらいサボっても怒らんねーかなァ」と笑った。
「何悪ィこと考えてんだよ」
「オレら不良だろォ? そりゃあ悪いコトのひとつやふたつ考えんだろ」
まったくしょーがねーなぁ、なんて言葉が勝手に口をついた。億泰の言う『悪いコト』を察したおれが学校に行かない選択肢を取ったのは、きっとあの夢のせいだ。
「サボってどーすんだよ」
「んー……オレぁ墓参りでも行くかなァ」
なーんか思い出しちまったしよォ、とチコッとだけ寂しげに笑った億泰は、「オメーも行くか?」とすぐにいつもの人懐っこい表情にで小首を傾げた。俺がゆるゆると首を振るのを見るとその笑顔のまま、じゃあなと軽く手を振り部屋を出て行く。中途半端な髪のまま一人残された俺は、とりあえずまた鏡に向かった。
*****
学校をサボると決めたら気が楽になったのか、それとも億泰の顔を見たせいか、さっきまでが嘘のように髪型が整った。最後に両手でぴしりと撫で付け、なんとなく家を出る。別に行く当てもなくふらふらと歩いていると、不意に声を掛けられた。
「あれ、仗助くん」
「……ななこさん」
嫌な人に会った。近所に住むななこさんは気のいいお姉さんだけれど、ちょっぴりお節介だ。こんな時間に彼女に会ったら、次のセリフは「学校はどうしたの?」であろうことは容易に想像がつく。
「学校はどうしたの?」
「アンタこそ、会社はいーんスか」
やっぱり、と妙な納得をしつつ質問を返せば、ななこさんは「今日はちょっと、お休みなんだ」と笑った。
「奇遇っスね。俺もちょっと、」
「サボりは良くないよ? 高校生くん」
からかうようにそう言ったななこさんは、俺の顔を見てふと視線を止め、訝しむみたいに瞬きをした。なんだか少し気まずくなって目を逸らせば、彼女は「ねぇ、暇ならちょっと付き合ってよ」と言って俺の答えも聞かずに歩き出した。
「……どーしたんスか、急に」
「なんとなく」
首を傾げる俺をよそにななこさんはどんどん歩き、億泰がよくストロベリー&チョコチップを買うアイス屋「レインボー」の前まで来るとようやく俺に振り返った。
「仗助くん、何がいい?」
「……へ?」
俺がぽかんとしていると、彼女はメニューをぐいと突き出し、「嫌いじゃないよね?」と笑った。その勢いに押されて目の前の写真を適当に指差すと、あっという間に俺の目の前にアイスクリームがひとつ、差し出される。
「……私が言うことじゃあないかもしれないんだけど、……これ食べて、元気だそ?」
「……え?」
ぽかんとななこさんを見れば、「早く食べないと溶けちゃうよ」なんて言って、それから「なんなら話聞くけど?」と、ウインクなんてしてみせた。なんつーか、大人の計らいみたいなモンを見せつけられた俺は、彼女になんて返せばいいのかと瞬きを繰り返す。
「……いや、あの、」
「勘違いなら、いいんだけどさ」
さらりとそう言ったのは、ななこさんの優しさだって確信している。大人だってとこを見せつけられて悔しい気持ちもあるけど、今はこのさりげなさが素直に嬉しい。おれはアイスクリームを一口食べると、溜息と共に一言零した。
「……怖い夢、見たんス」
ガキみてーだって笑われるだろうか、と思ったけれど、ななこさんは言葉の続きを促すみたいにひとつ返事をしただけだった。それに安堵した唇からは、勝手に言葉が溢れる。
「億泰が、生き返んなくて……おれのせいで、」
「……うん、」
ホント、ガキみてーだし、彼女には言葉の意味なんて全くわからないはずだ。なのに、ななこさんは優しいから、そのまま何も聞かない。
「……それは、悲しかったね」
スタンドのことも吉良のことも隠した、筋の通らない話なのに、ななこさんは柔らかな声でそう言った。
まるで子供みたいに頷いた俺は、なんだかとても恥ずかしくなって、アイスクリームに噛り付いた。唇が、舌が、甘く冷える。
ななこさんも黙ってるから、おれも何にも言えなくて、ただふたりでアイスクリームを食べてた。
「……ありがとな、ななこさん」
甘い味に飽きた頃ポツリと零せば、ななこさんは小さく頷いて、クリームのついた唇をぺろりと舐めた。
「……ううん、私こそ」
誤魔化すように笑う彼女は、なんだかうまく言えないけど、おれと似てるような気が、した。
「なぁ、……アンタこそ、なんかあったりする?」
「……どうして?」
ほんのりと期待を滲ませたような意味深な視線を投げかけながらななこさんはゆっくりと唇を開いた。おれにはその問いかけが肯定に聞こえて、思わず「あったんスね」なんて食い気味に言葉を重ねてしまう。
「……うん、」
「おれでよければ、聞くっス……けど、」
高校生じゃ頼りないかな、なんて不安で尻窄みになったおれの言葉を聞いて、ななこさんは柔らかく笑った。
「……ありがと。」
ちょっとだけお願いしてもいいかな、と恥ずかしげに続けて、おれの隣に躙り寄ると、アイスクリームを持っていない方の手を取った。
「……ちょ、」
「……ちょっとだけ」
柔らかな指先が、おれの手をぎゅっと握る。誰かと手を繋ぐなんて何年ぶりだろう。恋人じゃああるまいし、なんて考えたら余計に心臓が騒いだ。
「あ、の……おれ、こんな……コトされたら、勘違いしちまいそーなんス……けど」
熱い頬を隠そうと俯きながら言えば、ななこさんは「ごめんね、」と手を離し、私なんか相手に勘違いしちゃあダメだよと寂しげに笑った。
「なんでそんなこと言うんスか」
「……っ、」
「勘違い、してもいいくらい、おれ、アンタのコト好きっスよ」
離れた手を捕まえてそう言えば、ななこさんは顔を真っ赤にして俯いた。それを見ておれは自分が言った言葉の重みを理解したわけだけど、なんていうか、「好き」って言葉がやけにしっくりきちまって。
「……じょ、すけ……くん?」
おれが黙ったせいで不安になったのか、ななこさんは戸惑いの視線をおれに向けた。
「ななこさん、今のナシ。……おれ、アンタのこと、好きみたい」
勘違いじゃあなくって、と続けたら、ななこさんはびっくりして、食べかけのアイスを落っことした。
20180201
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bkm