フェラガモのハイヒールはヴァラリボンのついたスタンダードなタイプ。ヒールは8センチ。フェラガモの靴は歩きやすいと言われているけど、どうしてこれが歩きやすいのか私には理解できない。身長プラス8センチの視界はなんだかオトナになったようで嬉しいけれど、普段ぺたんこの靴ばかり履いている私にはこの不安定な足元がどうにも心細い。
恐る恐る歩く姿は滑稽かもしれないと思うと尚更うまく歩けなくて、なんでもありませんみたいな顔で真っ直ぐ進むのが精一杯だった。
「…やぁ、ななこ。」
「ブチャラティ!」
目の前に、私が会いたかった人。いつもの調子で駆け寄ろうと一歩踏み出したけれど、足元がぐらついて我に帰る。私がハイヒールを履いた理由は、彼にいつもみたいな子供扱いをされないためなのだ。
「…珍しいな、こんなところで。」
「…ブチャラティに会いたくて。」
歩くたびにカツカツと鳴るヒールに鼓舞されるように、私は精一杯シニョリーナを演じる。近づいて見上げたブチャラティは普段より近くて、手が届きそうな錯覚を覚えた。
「それは嬉しいな、ありがとう。」
花が咲くような、って比喩がぴったりの笑顔を向けられて心臓がどきりと鳴る。
「…ねぇブチャラティ、」
シニョリーナに見える!?と聞いてしまいたい気持ちをぐっと抑え込む。
いつもの調子で聞いたらきっと彼は私を素敵なシニョリーナだと、幼子にするように髪を撫でながら褒めてくれるのだろう。けれどそれじゃあ、せっかく履いたフェラガモの靴も、赤いルージュも浮かばれない。
「…わたしと、イイコトしない?」
いつか見た映画のワンシーンのように色っぽく誘ったつもりだったのだけれど、ブチャラティは少し驚いて私の姿を上から下まで眺め、合点がいったように頷いた。
「…それは素敵な申し出だな、ななこ。…それで、なんの映画を見たんだ?」
まるで近所の子供のヒーローごっこを眺めるような優しい目でそう問う。確かに「大人ぶって」みたけれど、私は断じて恋愛ごっこをしているわけではない。
「…ブチャラティ!私は本気なの!」
ヒールの存在を忘れて詰め寄ろうとした私は、石畳に躓いて前のめりに倒れこむ。
衝撃を覚悟して瞳をぎゅっと閉じてもそれは一向に訪れることはなく、うっすらと目を開ければ見慣れた柄が目の前に。どうやらブチャラティの腕で受け止められたらしい。
「…大丈夫か?」
「ごめ、んなさ…ありがとうブチャラティ。」
離れようとした身体は、ブチャラティの手によって拘束される。逃げ出そうとしても無理な程の力で抱き締められて、息が苦しい。
「…自分の身に危険が及ぶようなイタズラは、あまり勧められないな。」
そんな格好じゃあ、襲われても知らないぞ。と彼は大袈裟に溜息を吐きながら言った。
「…イタズラなんかじゃあないし、ブチャラティになら襲われたっていいの。」
「…そんなこと言って、怖いくせに。」
ぎゅう、と更に力が込められて、私はいよいよ首から下を動かせなくなる。見上げたブチャラティの顔が、少しずつ近づく。
「こ、わくなんか…ないもん。」
このままキスされてしまうのかと身構え、きつく瞳を閉じる。けれどブチャラティはそんな姿を嘲笑うように私の耳元にその形の良い唇を寄せて優しく告げた。
「…嘘はよくないな。」
「…え、?」
そっと瞼を持ち上げると、彼はいつもと変わらない凪いだ海みたいな瞳で私を見ていた。抱き締められた腕は、いつの間にか緩んでいる。
「顔の皮膚を見ればわかるんだ。『怖くない』なんて嘘。」
「…嘘じゃない。」
怖いわけない。だって相手はブチャラティだし、私は覚悟してここに来ているはず。
彼はギャングに似つかわしくない綺麗な指先で、私の頬を撫でた。
「汗の味をなめればもっと確実にわかるかな。」
「やっ!」
思わずブチャラティを突き飛ばすと、ほらやっぱり怖いんだろう?なんて笑うから、彼にくっつきそうなくらい近くに歩み寄って、そのまま口付けた。
ヒールを履いたお陰で、ギリギリ届いたブチャラティの唇。
「…こら、」
「…私が怖いのはブチャラティ、あなたに嫌われること。…『覚悟』なら、とっくにできてる。」
はしたない女だとは思われたくないけれど、街のみんなに向ける優しい瞳と同じレベルで私を見て欲しくない。
嫌われたくない、好かれたい。焦がされるような感情が、何をしてても拭えなくて行動せずにはいられなかった。
「…だったら何も、怖がる必要なんてない。」
「…え?」
そう言うと彼はまるでそうすることが決められていたみたいに私の腰を抱いて歩き出す。
突然のことにされるがままの私を見て彼はくすりと笑い、壁に私を囲い込むように手を付いた。
「…イイコト、するんだろう?」
「…んぅ…ッ!」
背中に付いていた壁がぐらりと揺れる。気付いたら薄暗い場所で唇を奪われていた。
突然のことに思考が付いてこなくて、ブチャラティにしがみつく。彼は私をからかっているんだろうか、冗談でこんなことができる男ではないはずだけれど、でも。
「…このビルは誰も使ってないから大丈夫だ。」
私の不安げな視線にちぐはぐな答えを返すのがなんとも彼らしくて、思わず頬が緩む。
言われてみれば確かに、ここは室内のようだった。私が目を閉じていたのは1分もなく、ドアをくぐった記憶もないのに、まるで魔法みたいだ。
「…そうじゃなくて…ちゃんと好きって聞きたいなって。」
「…それならまずは君からだろう?」
そんな格好をして誘う前に、言わなきゃいけなかったんじゃあないのか?と諌められる。
たしかに正論なのだけど、いくら好きでもそんな賭けには出られない。ここまできたって、その二文字には躊躇いが付き纏う。ブチャラティの視線に後押しされて、やっとの思いで唇を開いた。
「…ブチャラティ…好き。」
「オレもだ、ななこ。」
再度、唇が寄せられる。小さなリップ音を立てて、額から順に耳朶、頬、唇、首筋…と何度も何度も。
「…っん…」
「…可愛い。」
服の裾からブチャラティの手が入ってきて、私の肌を撫でた。指先が少しばかり冷たくて、触れられる度にびくりと反応してしまう。
「…っあ…ブチャラティ…」
身じろぎしても指先は私の肌から離れず、感触を楽しむようにするすると上へ登っていく。
「寒くないか?」
「だ、いじょうぶ…だけど…ッ…」
だけど、これは問題だ。
このまま身を任せてしまいたいけれど、まさかこんなところでなんの準備もなくこんなことになるなんて思っていなかった私は、今日のこのセクシーな衣装に合わせるべく一生懸命胸を盛っているわけで。
見た目はなかなか柔らかそうではあるけれど、触ったら一発で偽物だってわかる。だからちょっと、このままじゃあマズイ。
「…どうした?」
「…あの、…ッん…ちょ、待っ…」
自分の身体を抱き締めるようにぎゅっと縮こまると、ブチャラティは触れていた手をゆっくりと離して、宥めるようにそっと私の髪を撫でた。
「…すまない、怖がらせてしまったか?」
「ちが、あのっ…私、準備が…」
「覚悟はできてる、と言っていたはずだが…」
彼は私を揶揄うように笑って、頬に口付けた。まさか「身体の準備ができていません」とも「パッドが零れるからやめて」とも言えず、蕩けた頭で必死に言い訳を考える。
「そう…なんだけど…、あ!初めてはベッドがいいからッ!」
「…それもそうだな、すまない。…つい。」
納得したように頷くと、ブチャラティは乱した服を手早く元のように整えてくれた。彼は私を抱き上げて立たせると、ポケットから小さな手帳を取り出す。
「…生憎今夜は予定があるんだ…明日の夜でいいか?」
まるで仕事の予定を立てるみたいに涼しい顔で言われて、きょとんとしてしまう。
ブチャラティは私の表情に気付くと、腰を屈めて頬に口付けた。
「…仕切り直しに、どこか部屋でも取ろうと思うんだが。」
「…え、…ぁ、ハイ…」
改めて言われると恥ずかしくて顔が熱くなる。赤くなっているであろう頬を隠すように俯くと、ブチャラティは不思議そうな顔で私を覗き込んだ。
「…今更照れることなんてないだろう?」
戻ろうか、と来た時と同じように腰を抱かれる。スマートな仕草はイタリアーノだからなのかと、バレないように視線だけをちらりと上げてみる。視界に入った首筋が少しばかり赤くなっている気がして、「今更照れることなんてないのに」と心の中で繰り返した。
20151201
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bkm