浜辺になんて行くつもりはなかったのに。
大きな白い塊が波打ち際にひとつ。
私はそれがしゃがみ込んだ人のように見えて、思わずバスを降りた。
下校途中にこんなところでバスを降りてしまったことをすぐに後悔した。なぜなら次のバスは一時間も後だったから。
この季節、海風は冷たいし陽が落ちるのも早い。あと一時間もしたら辺りはきっと真っ暗だろう。携帯をぱかりと開けるとまだ17時前だった。
とりあえず目的を果たそうと、浜辺の方に歩を進める。砂浜に降りる階段のところまで来ても尚、白い塊はそこにいた。
やはり人だったらしい。バスの中で見た時から、場所も体勢も変わっていないように思う。
こんな季節にこんなところにしゃがみ込んで動かない理由が私には見つからない。不思議に思って後ろからそっと近付くと、あと数メートルの所でその人は急に立ち上がった。
「きゃっ!」
「…ん?」
「…あ、すみません…」
なんだかすごい威圧感で思わず謝ってしまう。なにこの人、でかい。
そしてなんか、誰か似た人を知っているような気がする。
「こんなところでどうしたんだ。」
彼は足元のバケツを拾い上げると、私を上から下まで遠慮なく眺めた。
「人みたいだったから、何かと思って…その…」
しどろもどろになりながらもそう答えると、彼は驚いた様子で「見えるのか?」と呟いた。なんのことか分からずぽかんとしていると、彼は暫く私を見つめて安堵したように溜息をついた。
「すまない、俺の早とちりだったようだ。」
「いえ、こちらこそ…?」
なんだかよくわからないけれど、彼は何か納得したらしい。けれど私は全くもってなんだかわからない。
「…それで、君は…?」
「え?…だから、バスに乗ってたらあなたが見えて、なんでこんなところに人がいるのかと気になって…」
さっきの答え以外に何もないのに再度問われて困ってしまう。だって冬の波打ち際に人がしゃがみ込んでいたら誰だって気になるだろう。真っ白なコートに帽子なら尚更だ。
「…あぁ、俺は…ヒトデを見ていた。」
彼はそう言うと、バケツの中を見せてくれた。
「…ひとで?…」
冬の海で暗くなるまでヒトデ?と、ぽかんと見つめると、彼は「研究をしている。」と続けた。
「ヒトデの研究…」
繰り返してもあまり現実味はない。いやそもそも現実味だけで言えばこの人のこの格好も大分現実離れしているな、と思う。
「あぁ。…それで、納得したか?」
「…はい。」
それならば確かに、波打ち際にしゃがみ込んでいてもそこから動かなくてもおかしくないのだろう。人を見た目で判断してはいけないと言うけど、なんだか私の持つ研究者のイメージとは程遠いなと思う。どちらかといえば格闘家とかそういう肉体派な感じだ。
「…君は、ぶどうが丘高校の生徒か。」
「…そう、ですけど、どうして…」
「親戚が通っていてな。…東方と言うんだが。」
ひがしかた、と言われてハッとする。確かにこの人は東方くんに良く似ている。
「知ってます。彼はかっこいいって有名ですもんね。」
人懐っこい笑みを浮かべるリーゼントヘアの少年を思い描く。私は話したことがないけれど、彼はきっとこの人相手でもあの屈託のない笑顔でいるんだろうと思った。
「…そうなのか。」
納得したように頷く彼は、少しばかり嬉しそうに見えた。
会話が途切れてしまったので、この辺りでお暇しなければ、と居住まいを正す。
「…急に呼び止めてしまってすみませんでした。」
「気にしなくていい、そろそろ帰ろうと思っていたところだ。」
私がぺこりと頭を下げると、彼は暗くなった空と時計を見比べるようにしてそう言った。
「…バス、と言ったな。」
「はい。」
こくりと頷くと、彼は時計をもう一度確認して眉を寄せた。
「次のバスまで大分あるが…」
「待つつもりなんで、大丈夫です。」
もう一度頭を下げて踵を返す。今からバス停に戻ってもあと30分は待つだろう。寒いけれど仕方ない。歩き始めると隣に大きな影が並んだ。
「…一人では物騒だから。」
そう言って隣を歩き始める。数歩そうして彼は私に合わせてペースを落とし、いささか困惑したようにこちらを向いた。
「…知らない男といる方が物騒だと思うか?」
あまりに真剣な面持ちに思わず吹き出してしまう。確かにバケツを持った白コートの男と女子高生じゃあ組み合わせとしてはよろしくないかもしれない。
「…お名前を教えてくれれば、大丈夫だと思います。」
「…空条承太郎だ。」
「承太郎さん。私はななこです。」
これで知らない男じゃあなくなりましたね、と言うと彼は「やれやれだ」と少しばかり楽しげに溜息を吐いた。
「…やはりまだ暫くあるな。」
バス停に着くと時刻表を確認して、彼は時計を見遣る。バスなんて大抵は時間より遅れてくるからそんなにきっちりと見る必要はないのに、承太郎さんは几帳面なのだろうか。
「…すみません、寒いのに付き合わせてしまって。」
「いや、ななこが俺を見て降りたんだから…」
そんなところに責任を感じる必要はないのに、変な人だ。考えてみれば格好も行動も私の常識からは大きく外れている。
「…承太郎さんって面白い人ですね。」
「…初めて言われたな。」
そう言うと彼は帽子の鍔を下げた。照れてでもいるんだろうか。見たところなかなかに大人ではあるけれど、なんだか可愛らしい。
「もしかして…照れてます?」
「大人をからかうもんじゃあねえ。」
からかってなんかいませんよ、と返すと彼はまた「やれやれだ」と呟いた。
「…承太郎さんは、この辺に住んでいらっしゃるんですか?」
「…今は仕事の都合で近くのホテルにいる。家はアメリカだ。」
「アメリカ!」
じゃあ外人さん?と不躾な台詞を吐いてしまった。けれど彼は嫌な顔一つせずハーフだと教えてくれた。確かに清潭な顔立ちは一般的な日本人とは掛け離れた美しさだった。ということは東方くんも日本人ではないのだろうか。彼もまた、承太郎さんによく似た顔立ちをしているから。
「ななこは、」
話題を探しているであろう承太郎さんはそこで言葉を止め、私の家を聞くなんて失礼だと思ったのかこう続けた。
「…寒くないか?」
「寒いですね。」
思わず即答してしまうくらい寒いです、と言うと彼は何を思ったのか私の手を取った。
海辺にいたはずなのに思いの外温かい手に握り込まれて心臓が飛び跳ねる。
「…冷たいな。…これで少しは暖かいだろう。」
「へ?」
あまりのことに間抜けな声しか出なかった。家を聞くのは躊躇ったのに、手を握るのは躊躇わないなんてこの人はズレている。いやもしかしてわざと…?と混乱した頭で考えるも、彼の瞳に悪気なんてものは一切見えなくて、結局「アメリカ人だから」という結論に落ち着いた。
私がぐちゃぐちゃと考えているうちに手を離すタイミングを逸してしまい、承太郎さんの大きな手から伝わる熱が全身に広がっていくのを感じながら固まることしかできなかった。
「…あ、ったかい…ですね…」
「…そうか。」
それからぽつりぽつりと会話をしたけれど、握られた手が気になって何を話したかよくわからない。心臓がうるさいな、とかどうしてこんな、とか考えても仕方ないことばかりがぐるぐると頭を巡るばかりで。
「…バスが来たようだな。」
そう言うと彼は手を離した。私は慌てて立ち上がると、彼に頭を下げる。
「ありがとうございました。」
「気にすることじゃあない。…またな。」
承太郎さんは軽く手を上げて私にそう言った。さよなら、じゃなくてまたな、だったことに心がまたどきりと鳴った。
背中越しにドアが閉まって、あんなに大きかった承太郎さんがあっという間に小さくなっていく。私はバスのシートに腰掛けると、彼の温もりを逃さないように、手をぎゅっと握った。
20151208
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