「うわ、すごい風!」
思わず言葉がこぼれる。
自分の声すら一瞬で掻き消され、耳に残るのは雨音の残響。傘はバタバタと心許なく震え、金属の柄がつるりと滑った。慌てて両手で細い銀色をぎゅっと握り直す。
傘がひっくり返らないように、飛ばされないように、必死で風を押し返す。諦めて閉じた方がいいのかもしれない、と挫けそうになった時、空気を割いて「ななこさん、」と私を呼ぶ声がした。
「…え?」
風を押し返す手はそのままに少しだけ視線を向けると、見知った改造学ラン。
「すんげー風っスねー!」
大声で喋っているはずなのに、ちっともそんな気がしない。びしょ濡れになりながらも飄々と歩くその手には骨の折れたビニール傘が握られていた。
「傘、入る?」
「いや、大丈夫っス。もうこんなだし。」
仗助くんはそう言って、壊れた傘を持ち上げた。冬は終わっても、まだまだ夏には遠いのに、そんなに濡れて大丈夫なのだろうか。油断すると飛んでしまいそうな傘を握りしめ、彼に近付くべくひんやりとした風に向かう。
「きゃ、ッ!」
不意の突風によろけた私を仗助くんが慌てた様子で受け止める。そうして自分の上着を脱いで、私を包み込んだ。
「傘、閉じなよ。あぶねーから。」
これなら濡れないっしょ、と言われたけれど、恥ずかしくてそんなことは考えられない。
言われるまま傘を閉じて、声をかける。
「…ありがと。でも、これじゃあ仗助くんが寒いよ。」
「大丈夫っスよ。ななこさんが風邪引く方が困るし。」
有無を言わせず抱え込まれ、私は諦めて彼の好意に甘えることにした。
「それにしてもすごい風だねー。」
「…ホントに。俺のカッピョイイ髪型が台無しっスよー。」
「それ、ちょっと見てみたい!」
雨に気を取られ、傘やら学ランやらで、未だちゃんと見られていない仗助くんの崩れたリーゼント。
私が顔を上げようとすると、彼はダメっス!と被せた学ランを押さえ込む。前すら見えなくなって、私は非難の声を上げた。
「前が見えないよ!」
「…俺に掴まってりゃ大丈夫だから。」
ポンポンと頭を撫でられて、もう私はなにも返せずに、ただ促されるままに足を前に出す。風は強いけれど、仗助くんがいるから平気だ。
*****
「…着きましたよ。」
「ありがと。…仗助くんも上がって?」
玄関先でやっと人心地つく。雨を吸った学ランはずっしりと重く、明日までに乾くのかと心配になる。
「…え?いいんスか?」
仗助くんは考えてもいませんでしたといった風に目を丸くしている。私が頷くと、彼は無邪気に笑った。
「…風邪ひいちゃうから早く。」
「へーい。あ、でもななこさんち濡れちまうぜ?」
玄関先で戸惑う彼は確かに全身びしょ濡れで。けれどまさかここで服を脱がすわけにはいかないと一瞬で判断した私は彼の手を引いた。
「そんなの掃除すればいいから。まずお風呂場まで行こ。」
「え、マジっスか…。すんません、お邪魔します。」
仗助くんは申し訳無さそうに身体を縮こまらせながら、私に手を引かれるまま浴室へと向かう。彼を脱衣所に置いてお湯を張りに行くと、仗助くんはさっきまでの遠慮は何処へやら、楽しげな笑顔で言葉を紡いだ。
「ねー、ななこさんも一緒に入ってくれんの?」
「…ッ!そんなわけないでしょ!」
慌てて逃げようとしたけれど、「アンタも濡れてんでしょ?」と腕を引かれて抱き込まれる方が先だった。
「…冷たいよ、仗助くん。」
濡れた衣服も、仗助くんも冷たい。私を助けなければ、こんなに冷えなくて済んだはずだ。学ランは意外に厚手で、私はさほど濡れていないのだから。
「ななこさんを濡らさないように頑張ったんスよ。」
そう言われてしまうと、ワガママを聞いてあげなきゃいけないような気がする。少しばかり気持ちが揺らいだところに、仗助くんの可愛らしい声が追い討ちをかける。
「だからさー、一緒に入ろうぜー?」
頑張った仗助くんに、ちこっとくらいご褒美くれたっていいだろ?なんて、待てのできた犬みたいな顔でこちらを伺う。溜息混じりに「仕方ないなぁ」と零せば、彼は嬉しそうに私の服に手を掛けた。
「うわ、やめてよぅ…」
「濡れた服ってエロいよなー…もっと濡らせばよかったかも。」
くすくすと笑う仗助くんは、私なんかよりずっとびしょ濡れで。言われてみれば確かにひどく色っぽいなぁと思う。雨風を直に浴びた髪は崩れ、乱れた毛先が首筋に張り付いていて。そこから滴る水が鎖骨から襟刳を伝い、シャツに吸い込まれていく。水を吸ったシャツは仗助くんの体の凹凸すべてを現し、そこから覗く肌は、冷えて白く陶器のようだ。
まるで芸術品のような体躯に、思わずごくりと唾を飲み込む。仗助くんは私の視線に気付くと、唇の端を持ち上げた。
「…なに、俺そんなにエロい?」
「…うん、エロい。」
神妙な顔で頷く私を見て、彼は声を上げて笑った。
「…真面目かよ!…かーわいーね、ななこさん。」
可愛いから脱がしちゃお。なんて言いながら仗助くんはするすると私の服を脱がしていく。されるがままに素肌を晒すと、彼は「早くあったまっておいで、」と私の背中を押した。
「…仗助くんは?」
「部屋の床、拭いてから行くっス。」
「…濡れただけだし、ほっときゃ乾くよ。」
「ななこさんって結構テキトーだよなぁ。」
じゃあお言葉に甘えますよ、と彼はさっさと服を脱ぎ、遠慮もせずに入ってくる。
掛け湯をして湯船に浸かれば、安堵の息が漏れる。色を取り戻していく指先が、ぴりぴりとくすぐったい。
「はー…あったけぇー。」
「…季節の割には寒かったもんね。」
それにしても、二人で入る湯船とはこんなにも狭いのか。身体をどこに置いていいかわからずに縮こまっていると、仗助くんの大きな手が私を引き寄せる。そうして浮力でもっていとも簡単に、膝の上に乗せられた。背中にぴたりとくっつく素肌が気持ちいい。
「…ななこさんはさー、キレーな肌っスよねぇ。」
首筋に顔を埋められてくすぐったさに身を捩ると、仗助くんは楽しげに笑って私の肌をぺろりと舐めた。
「…ひゃあんっ!…っふふ、変な声出ちゃった。」
間抜けな声が反響して、思わず吹き出してしまう。仗助くんは笑う私を見つめて不満の声を上げた。
「あー、折角可愛い声だったのに、笑っちまったら雰囲気台無しっスよー。」
そう言うと両腕を脇腹から回りこませ、私の胸を鷲掴みにした。むにむにと揉みしだかれ、水面が波立つ。
「や、ぁんっ。仗助くんっ!」
「そーそー、折角なんだからさぁ、楽しみましょうよ。」
身じろぐ度に水面が揺れる。抱き締められて逃げ出す場所もないままに、彼の手があちこちを這い回る。噛み殺しているはずの声が浴室に響く。濡れた声は湯気が混ざったせいだなんて、言い訳にもならない。
「…じょ、すけ…くん…っあ…」
きゅ、と胸の頂を摘み上げられて、身体が跳ねた。身体の中が沸き立つように熱い。
「…ねぇ、ななこさん。…俺…」
私の身体の下にある仗助くんの欲望は、言葉なんてなくても分かるほどに自己を主張していて。すっかり暖まった身体がぎゅうと私を抱き締める。
「…あつい…から、ベッドいこ…?」
宥めるように言えば彼は勢いよく私を抱き上げ、タオルを一枚ひっ担ぐとドタバタと浴室を出た。滴る水がフローリングに散らばっていく。
「…ちょ、仗助くん!」
「『ほっときゃ乾く』って、ななこさんが言ったんスよ!」
濡れたままベッドに放り投げられて食い尽くされるみたいな口付けを浴びながら、終わったら絶対仗助くんに片付けをしてもらおうと心に誓った。
20160423
prev next
bkm