「なぁななこさん、プール行こうぜー。」
「…え、やだ。」
夏休みの仗助くんは、日に日に肌をこんがりとさせて、毎日楽しくて仕方ありませんみたいな顔で、うちに入り浸っている。
私は別に休みでもなんでもないんだから少しくらい気遣って欲しいと思うんだけど、彼は暇を持て余しているようで、毎日私の帰りをこの部屋で待っている。
「あのさぁ、俺欲しいもんがあるんだけどォ…」なんて可愛らしいおねだりに負けて合鍵を渡してしまったことを少しばかり後悔する。
たまには一人でゆっくりしたいんだけどな。
「次の土曜日過ぎたらさぁー、もうプールも終わりじゃん?」
「そうなの?…え、もう8月終わり!?」
うわ、早いなぁ。プロジェクトの締めが9月だからそろそろ今の仕事を仕上げなきゃマズい…なんて考えていたのに、仗助くんの声は容赦なく私を誘う。
「だからさぁ、行こうぜ。」
「だからやだって。」
この暑いのにお日様の下だなんてあり得ないし、一回しか着ない水着を買うのもバカバカしい。
「…俺、ななこさんと夏っぽい思い出が欲しいのに…花火も祭りも、行けなかったじゃん…」
寂しげに俯かれると、心が痛む。
花火もお祭りも、行けなかったのは私のせいだから。
「それは、ごめん…」
「…だからさ、お願い。」
上目遣いに視線だけこちらに向ける殊勝な姿を見ると、もう嫌だなんて言えなくて。
「…プールじゃなきゃダメなの…?」
「…海でもいいっス!」
そういう意味じゃあないんだけど、と苦笑いする私を見て、陥落したと分かったのか、満面の笑みの仗助くん。
毎日彼がうちにいるというのに、水着を買いに行く暇なんかあったかな…と、大きく溜息をついた。
*****
「うわー、なぁんか夏って感じっすねー!」
青い空、光る水飛沫、色とりどりの浮き輪に水着。まさに夏!って景色。こんなの何年ぶりに見ただろうか。もう景色すらテンション高くて混ざれる気がしない。目が痛い。
「…日焼け止め、塗ってね。」
「りょーかいっス。任せてくださいよー。」
仗助くんは夏のお日様みたいに瞳をキラキラと輝かせて、それはもう楽しそうにカバンから日焼け止めを探し出した。
「ななこさん、背中向けて。」
「お願いします。」
濡れた仗助くんの手が、背中を滑っていく。
塗りムラができないか心配で、背中に意識を集中する。思いの外丁寧に、肌を撫でる手。
「…焼けちゃったら大変ですもんね、せっかく肌綺麗なのに。」
その手が普段の愛撫と同じだと気付いたのが、後ろから胸を鷲掴みにされてからだった。だってまさかこんなところでなんて思わないから。
「ひゃ、馬鹿ッ!」
「誰も見てないから大丈夫っスよぉ〜。」
振り払おうともがくけれど、敵うはずもなく。だけどこんなところでされるままになっているわけにはいかない。
「やだやだっ、い!や!」
後ろにいる仗助くんに力を込めて肘鉄を喰らわすと、流石の彼もびっくりしたのか私から手を離す。
「…ごめん、ななこさん…怒った…?」
恐る恐るといった様子の声が背中に掛かる。
近くにあった熱が消えて、仗助くんが離れたのがわかる。
「やめてって言ったのに。」
「すんません…俺、ななこさんと一緒にプールとか…マジ嬉しくって…つい…。康一と由花子がさー、プール行ったって聞いてめっちゃ羨ましかったし…」
仗助くんの声は本当に寂しそうで、例えば学生同士だったら夏休みはずっと一緒にいられるだろうし、康一くんと由花子ちゃんが近くにいたら、そりゃあ羨ましくもなるだろうな…と思ったら、なんだか私がいけないような気がしてくる。
「仗助くん、…」
私が困った顔で振り向けば、彼は「よかった!怒ってないんスね!」と嬉しそうに笑って私の手を取った。
「っつーことで!泳ぎましょ!」
あぁもう、私はこの子に踊らされてるだけなんじゃあないだろうか。悔しくて繋がれた熱い手をぎゅうと握ってみたけれど、仗助くんは気にせず水に向かっていく。
飛び込みはダメだって、と言う前に手を引かれて水に落っこちた。
「きゃあ!」
ドボンと音がして、喧騒も光も消える。
ぎゅっと目を閉じてパニックになりそうな思考を必死で立て直す。繋いだ手は仗助くんのものだから、たとえ私が泳げなくたって大丈夫。もがいているうちに足が地面を捉えて、ホッとする。
「大丈夫?…ななこさん?」
ぺち、と頬を軽く叩かれて目を開けると、心配そうな仗助くんの顔。よかった、溺れてない。
「…私、泳げないの。」
申し訳ないけど、海もプールも嫌い。今だって髪も顔も濡れてしまって、格好悪いったらない。
「…じゃあ、ちゃあんと仗助くんに捕まってて。」
そう言うと、仗助くんは私を抱きしめるみたいにして水を掻き分けていく。
なんだかいつにも増して頼もしくて、首筋にぎゅっと抱き着いた。
仗助くんにくっついて、泳いでるみたいな気分になるのは意外と楽しいかも。
「…仗助くん。」
「…なんスか?」
「…意外と…楽しい、かも…」
耳元でそう呟けば、彼は嬉しそうに笑って「でしょ?」なんて。まるで子供みたいなその仕草がおかしくて思わず笑みが零れる。
そうやって私たちは、人目も憚らずに恋人らしく肌を触れあわせながらプールを楽しんだ。
「喉乾いたっスねー。」
「上がろっか?」
仗助くんは軽やかに水から上がると、私の手を引いてくれた。
濡れた首筋に張り付く髪が色っぽい。
手をつないでプールサイドを歩く。
仗助くんの歩く速度が心なしか速くて、小走りに着いていくと、不意に抱き寄せられた。
「…わ!…どしたの、急に。」
「なんでもないっス。…ななこさん、荷物んとこ行こ。」
肩を抱かれたまま、荷物のある場所まで戻る。そっか、お財布出さないと自販機に行けないから…と気付いてカバンを探っていると、視界が突然暗転した。
「っ!?…え、なに急に。」
暗転は一瞬。どうやら頭から布を被せられたらしい。タオルじゃなくて、パーカー?
「…着てて。」
「?なんで?」
いささかムスッとした顔なのも、突然服を被せられたのも意味が解らなくて、ぽかんとしてしまう。
私が見つめていると、仗助くんは少しばかり決まり悪そうに頭を掻いた。
「なんか…突然他の奴に見せたくなくなった…っつーかさぁ…」
「…え…?」
そんなことを言われたら、こっちまで恥ずかしくなってしまう。仗助くんが行こうって言った癖に、なんてワガママな。
でも、ヤキモチ妬くくらい好かれていると思うと、悪い気はしない。
「…そうだ!家で二人の時に着てくれたらいいんスね!」
いいコト思いついた!みたいに言っているけど、そんなの嫌だ。部屋で着たらそもそも水着である意味がないじゃない。
「なにそれ、嫌だよ。」
「え…だめなんスか…?」
仗助くんのその表情を見て、「あぁ、私はこの子に敵いはしないのだ」と悟った。
そうして何だって、仗助くんの思う通りに。
私は心の中で、白旗を上げた。
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bkm