境界のプリズムへ喝采

 仕事のため、俺は数か月間イタリアに滞在していた。マフィアの年若きボス候補の家庭教師なんぞを手掛けるヒットマン・リボーンから、イタリア最大手のマフィアであるボンゴレファミリーの10代目ボス候補を育てるから手伝えとお呼びがかかった。一応医者で、殺し屋で。そんな俺の経験が果たして何に活かせるのやら。別に受ける義理もないし、ここらでゆっくり休むべくこの話は断ろうかなどと思っていたのだが、その10代目候補が日本人だと聞き二つ返事で承諾してしまった。

 ――彼女に会える。

 たった12歳の少女ひとりに恋い焦がれた男は、商売道具と少しの日用品をさっさとまとめ、連絡をもらったその日にイタリアを出立した。
 そして《裏世界》と呼ばれる非常に物騒なコミュニティに生きる愛しの少女の顔を見るため、これまた物騒極まりない病毒遣い《奇野師団》の拠点へとやってきたのである。

 現れた俺に「また来たのか」と言わんばかりの顔をする野郎共に愛しの彼女の居所を聞く。いつものようにラボにいる。その返事を受け、俺は階段を駆け下りる。地下に作られた真知のための《勉強部屋》には、スチームパンク調の調度品を埋め尽くすように本や紙束、書き込み尽くしのホワイトボードといったお勉強の跡が大量に積み上げられている。兄弟が集めてきたという家具でコーディネイトされた部屋では、資料が乱雑に置かれているだけなのに、どこか異国の魔法使いの作業場といった趣を見せるのだから面白い。

 そんな空間の中央に、少女はいた。
 ――ああ、彼女がいる。こんなに近くに。目の前の光景に胸を躍らせながら声を掛けた。

「よお、元気にしてたかい」
「シャマル先生!また、お仕事ですか?」
「ま、そんなところだ」

 少女・奇野真知は作業の手を止めて振り返る。俺を認識した瞬間、眼鏡の奥の双眸を大きく開き、それからすぐに満面の笑みを浮かべた――可憐だ。小走りにかけよってきた真知に軽く両手を広げると、昔の様に俺にハグを――

「おいおいロリセンセイ、あんまり真知に近付かないでもらえますかー?」

 ハグをしてもらうはず、だったのだが。
 真知の腕が俺の腰に回る前に、青年は彼女の背後から現れてぎゅうと抱きとめた。彼女の兄・奇野頼知であった。

「うるせェぞ頼知。俺はロリコンなんじゃなくて、可能性を早いうちから見出してるだけだっつの」
「ロリコンじゃん!」
「だァから俺は、」
「もう二人とも喧嘩しないの!」
「「……ハイ」」

 真知のお叱りに、お互い口を噤む。とはいえ、目は口ほどにものを言う。お互いに「お前のせいで怒られた」と視線を飛ばしあうのは最早お約束だ。

「とりあえず、あんま此処に来ない方がいいよ。《表》と《裏》、棲み分けはやっぱ結構大事なんだぜ?」
「棲み分け、ねェ」

 今更な話だ。
 ……口に出しては言わないが。

 この世界は4つに分かれている。
 俺の属する……といった時点で胡散臭いが、平和で凡庸な《表》の世界。
 そこに一番近く、それでいて異なる《財力》の世界。
 権謀術数が渦巻く《政治力》の世界。
 そして――彼女たちが属する、化け物揃いの《暴力》の世界だ。

 基本的に4世界の存在を知覚する住人は自分の世界を超えられない、超えてはいけない、という決まりを暗黙の裡に守っている。
 となると、俺と真知が出会ってしまったことは明らかに例外的事象なわけだ。

 その例外的事象が、俺の人生を軽々とひっくり返してしまったのだ。



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