1周年リク
青い小鳥の秘め事
私に特定の名前は存在しない。必要かと言われれば必要ない。だって、私は名前を呼ばれることがそもそもないし、誰も呼ぼうとしない。一方的にみんなの話を聞いて、聞いてるんだか聞いていないんだか微妙な態度をとったまま、私はだんまりし続ける。それでも怒られたりなんかしない。私はそのままそこに佇んでいればいいんだ。初めてここへやって来た時のことは今でも覚えている。

「お部屋じゃなくていいの、紗希乃」
「いいの!」
「お部屋の勉強机の隣りにでも置いとけばいいのに。そうしたら、毎日顔を合わせられるわよ」
「ここでいいの!だって、ここにおけばただいまって言えるし、いってきますも言えるし、それと、えっとね…」
「まあ、紗希乃がそれでいいならいいけど」

そうしてわたしの根城が決まった。ふくふくと丸い頬をした少女の嬉しそうな笑顔に私は身動きがとれないでいた。…元々動くこと自体できないのだが。私の目線よりもいくらか下から見上げられる熱視線に胸焼けがするような気分だった。左から、右から。時には母親らしい女性に脇から持ち上げられて真正面から。きらきら輝く眼で私を舐めまわすように見るのだった。そんなに熱心に見つめないでおくれよお嬢さん。そう零してみたら、目の前の少女はにかっと笑った。聞こえてないはずなんだけどなぁ。まあ、いいか。これからお嬢さんと呼ぼう。そう決めた私は自分の中でその少女をお嬢さんと呼び、この十数年間の成長を見守ってきたのだ。

「ねー、ことりさん。今日はあついね。」

色鉛筆が入った箱と何かの冊子を持ったお嬢さんが私の目の前にぺたんと座った。私が暮らしているこの場所は人が行き交う、いわゆる廊下というとこにも関わらずお嬢さんはこうして時々、地べたに座って話しかけてくる。

「おばあちゃんがね、まいにち日記をかきなさいっていうけど、紗希乃はぬり絵がしたいの。」

ぬりえが何なのか私には不明だが、お嬢さんは床に広げた冊子に色とりどりの鉛筆を熱心にこすりつけていた。

「一日のできごとをことばにしたら、ものおぼえがよくなるんだってー。だけどね、紗希乃はぬり絵がしたい。」

何がどうしてそこまでぬり絵をしたいのかわからないが、お嬢さんは取り出した色鉛筆がコロコロと転がっていくのを気にも留めずに次々と色を変えて、よくわからない絵を塗り潰していく。

「日記とぬり絵をいっしょにできたらいいなっておもったけど、右手はひとつだけだから。日記のかわりに ことりさんに今日のことをおはなししちゃえばいいかなーっておもった。」

7時に起きたとか、いつも読んでる絵本を今日も読んだとか、朝ごはんは何だったかとか。お嬢さんは私には全く関係のない話をつらつらと話していった。その小さな口からよくもまあペラペラと出てくるものだな。そんなことを思うくらいお嬢さんの一人しゃべりは止まらなかった。こうして、私の目の前に座って私を見上げながら一日の出来事を報告したり、時にはもたれかかって相談してきたり。私はお嬢さんの話相手となった。私は言葉を返すことはないけれど、ちゃんとお嬢さんの言葉を聞いているし、お嬢さんも何故だかそれをちゃんとわかっているようだった。

「ことりさんきいて!紗希乃ね、よーとーぶにいくの!そこにね、けんじくんもいるんだって!」

お嬢さんは、すごいねえ、すてきだねえ。と嬉しそうに足踏みを繰り返して飛び跳ねた。"けんじくん"。見たことはないけど知っている。お嬢さんの口から少し前に出てくるようになった。やたらとめかしこんで出かけて行った日からお嬢さんはその名前を口にするようになった。お嬢さんいわく、"けんじくん"はかっこよくて頭がいいらしい。こんな作り物の私に毎日声を掛けるようなお嬢さんから見たかっこいい奴がどんな人物なのか気になるな。今度連れてきてくださいよ、本人にそう言うまでもなくしばらくしてから噂の彼は私の目の前にやって来た。

「なにこれ」
「ことりさん!」
「みえねーよ」
「せのびしたら、ちょっとみえるよ」
「そんなんしなくてもオレみえるし」
「みえないって言ったのけんじくんだよ!」

何だコイツ。第一印象はまさしくそれだった。お嬢さんと手を繋いでやって来たかと思えば、私をじろじろと眺めてきた。お嬢さんが時々使っている椅子の上にのぼって、私の目の前までその顔をもってきた。かっこいいと言われていた少年の顔は疑問に満ちていて、無意識なのか首が傾いでいた。

「あおいとりだっていってたのにあおくないじゃん。しろいじゃん。」
「だって、ちょーこくだもん。けんじくん、ちょーこくしらないの?」
「し、しってるよ!ちょーこくくらい!」

椅子からぴょんっと飛び降りて、小さな手はお嬢さんの手をかっさらっていく。

「あっちでおやつたべるぞ」
「なんのおやつかなあ」
「かーさんがプリンかってるのみた」
「ほんとに?!」
「このオレがウソつくわけねーだろ」
「うーん、そうかなあ」

お嬢さんはそれからよく出かけるようになっていったし、前のようにわたしに報告という名の一人語りをすることは少なくなっていった。時々やってきては、最近ねこんなことあったんだよーと近況をかいつまんで教えてくれる。それでも毎日忘れないのは、いってきますとただいまだった。"けんじくん"と、そっくりな女の子がよく来るようになって、私に挨拶をする人が増えた。"けんじくん"はちらりと目線をくれるだけだが、女の子はちゃんとあいさつをしてくれた。話しかけられることが少なくなって何となく寂しかった私にはとても嬉しかった。ただ、それもある時からごっそり減って"けんじくん"は見なくなったし、女の子はたまに来るだけになった。私の知らない女の子たちがお嬢さんを訪ねて遊びにはやってくるけれど、誰も私に見向きもしない。

時々の近況報告すらなくなって、毎日のいってきますとただいまだけのやりとりをするようになった今。なぜだか知らないがお嬢さんは、いってきますと行ってから長いこと帰って来なかった時もあったり。毎日忙しそうに走って出かけていくようになった。ああ、私は忘れられていくんだな。お嬢さんの思い出に溶けていくだけの、未来のないただの置物だった。忘れていたのは自分の立場だったのか。寂しいなどと考えていられる立場じゃなかったんだ。

「ただいまー」

家の鍵を開ける音がした。お嬢さんは家に入る時と、わたしの前とで必ず二回ただいまと言う。今日は忘れられないだろうか。そう考えていると、何やら別な声も聞こえてきた。

「先に上に上がっててー」
「上のどこだよ」
「つき当りの右!すぐ行くからゆっくり上がっててよ」
「聞けばわかるっつーの」

たまにやってくる、お嬢さんを慕う女の子かと思ったがあの子よりも背は高いし声が低い。私の前を素通りしたかと思えば、向きを変えることなく数歩下がって戻ってきた。

「……青い鳥、だっけか?」

じっと見下ろされたかと思うと、ぽつりと男は呟いた。それから、私の背を何度か撫ぜる。何なんだお前は。

「お前は変わってないんだな」

まるで私を知っているかのような口振りで男はうすく口を開けて笑った。

「あれ、上がってって言ったのに。わかんなかった?」
「ちげーよ。待ってたんだよ」
「あはは、ごめんね!」
「貸せ、カバンとペットボトル持つ」
「ありがとう、賢二くん」

"けんじくん"。ああ、そうか。白いとぼやいていたのにちゃんと青い鳥と覚えてくれてたんだな。ここから動くことのできない私には彼らに何があったのかなんてわからない。長い間やってこなかったことも、名前すら出て来ないことも何かしらあったんだろうとは思っても聞くすべも持たない。ただの置物ではあるけれど、自分のどこかにあると信じている心が温かくなったような気がした。ああ、やっぱり。あの時かっさらって行ったままだったんだなあ、"けんじくん"よ。



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あとがき
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