辻風

23.あの夏に塗り足して

つい数日前にぽろりと落とされた悠仁の言葉が頭の中で駆け巡った。

『普通するじゃん、婚約したり結婚する時』

そう、指輪だ。婚約も結婚も普通なら指輪をプレゼントしたり交換し合ったりする。もちろん知識としてそれを持ってはいた。けれども、自分と紗希乃の間にその"普通"を持ち込もうと思い至ったことはない。それにしても宿儺の指をまるごと飲み込むような少年に"普通"を語られて、何よりそれに納得している自分がいるのが何ともおかしくて笑えた。さて、この"普通"にのっかるかどうかで僕らの今後が良くも悪くも変化するわけだ。ただのプレゼントでも良いけど、せっかくならば意味を持たせたい。紗希乃が僕からのプレゼントを嫌がることはないからそこの心配は必要ないとして、問題はただひとつだけ。

「はてさて、紗希乃は僕からの輪っかは貰ってくれるかな」





毎年この日は僕も紗希乃も仕事がない。恋人の誕生日に仕事が休みとくれば、さぞやお楽しみの1日になっただろうと周りは冷やかしてくるもんだけど、その実何も特別なことはしてない。この日は彼女がまだちゃんと生きているという事実を実感するための節目のようなもの。15で終を迎えるはずだった紗希乃が息をして、自分の意思で僕の隣りにいることを再確認する日だ。世間での誕生日はもっとフランクに祝われるものだけどね。僕らはあれから何年経とうとあの時の"もしも"が胸の内をよぎってしまう。あの時助けてもらえなかったら。あの時失ってしまっていたら。互いに胸の底を冷やしてしまうのをやめられない。特に紗希乃は全てが過去になったと理解はしていても、理解していると自分自身に言い聞かせているだけにすぎなかった。もう10年なんか軽く越してるっていうのに、僕らはあの日の恐れと罪悪感を捨てきれないでいる。

「おなか冷えるよ」
「そう言いながら手ぇ入れてくんのやめない?」

ソファの上へなだれ込んで横になっている僕のお腹を枕にするように床へと座っている紗希乃は、捲れたTシャツの裾から冷えた手を突っ込んでそりゃもう自由にぺたぺた触ってる。残暑もいいところの暑さの中でよくもこんなに冷えるもんだと感心してしまうくらいには彼女の指先は血の気が薄い。冷たさに慣れたのか、僕の体温が移ったのか、ぞわぞわしていた感触が次第に和らいできた。別な意味でぞわぞわしそうだけど我慢我慢。ほら僕って紳士だからさ。そんな考えは筒抜けだったらしく、紗希乃の視線がすこし辛辣だった。大きなクッションにもたれてるおかげではっきりと見えている顔は物悲し気でいて、今となっては僕ぐらいにしか見せない表情をしている。作り笑いも覚えたし、誰かに対して隠し立てすることも苦にはならなくなってしまったけれど、僕らは相も変わらず不器用な様を曝け出し合う。

「……話ってなに、」
「成程。それ気にしてたんだ」

酔っぱらってたから聞いてないと思ってた。僕の腹の上に散らばる紗希乃の髪をすくっては、ゆっくり落とす。拗ねた姿を隠しもせずにぐりぐり顔を押し付けてくる彼女の頭を撫でていれば、次第に頭が小刻みに揺れて、じわじわ温かい熱がTシャツに広がり始めた。

「エッ。泣くとこあった?いつの間に酒飲んだの?なに?」
「飲んでない!」

生きていることを確かめる日ではあるけども、泣いて喜ぶような真っすぐに喜びを現す時期はとっくに過ぎた。理由は他にあるはずだから、色々と考えてみたところ全くもって思い当たる節がない。

「ねえ、なんで泣いてるわけ」
「だっ、て、話があるって、」
「ウン?話はあるよ」
「だから、話があるって……!」
「……え?それ泣くとこ?」

紗希乃が泣き虫なのも意地っ張りなのも全部全部知ってる僕だけど、まさかの展開に疑問符が踊りまくってる。

「悟が前もって話があるなんてわざわざ言うの初めてだから、悪い話なんでしょ」
「えぇー?良いことかもしれないって思わなかったの」
「そういうのは前触れ無しに突然言うじゃない」
「……そうかな?」
「そうなの!いつだって急だもん。急にどっか行こうとか、急に何かくれたりとか、全部そうなの」
「それが前フリをしてくるもんだからただ事じゃないと思ったってわけ?」
「……そう。なんか、その反応見たら取り越し苦労だったみたいだけど……」
「ちなみになんだけど悪い話ってのはどんなのを考えてたのかな」
「言わない」
「フーン?ま、大体想像つくけど。別れたりなんてしないよ?」
「そ、そう思ったとは言ってない……」
「僕、別れるとかそういう話一切出したことないじゃん」

歌姫が何か言ったかな。たぶん紗希乃の考えすぎだろうけど。泣き虫な紗希乃は諦めるのも得意だったりする。諦めの悪い僕と合わせてトントンになるくらいだと思うね。ようやく涙は引っ込んだようで、目尻に残る涙を拭ってやれば勘違いしてたのが恥ずかしかったのか、また僕の腹に顔を埋めていた。いつもと違うことをしただけでこうも不安がられるとはある意味僕は信頼されている。まあ、普段やらないことをついしてしまうくらいには浮足立っていたと認めよう。

「僕さあ、紗希乃が別れたいって言っても手放してやる気なんて微塵もないよ」

何なら今から輪っかで更に繋ぎ止めようとしてるくらいだし。こういうのはムードが大事だって誰かが言っていたっけ。たぶん悠仁が言うような"普通"の人たちはそうだ。良いホテルのレストランでディナーを食べながら、夜景の綺麗な場所で永遠の愛を誓うとかそういうの。いまいちピンと来ないのは、良いホテルなんか泊まりたい時に泊まればいい話で、夜景なんて仕事で見放題で、永遠の愛なんてとっくに誓ってるようなものだから。我ながら情緒が育ってないのかもしれないとも思うけど、それ以前に紗希乃がそういう情報にめっぽう弱い。思えば紗希乃との全ての初めては全部ムードもへったくれもなかった気がする。僕がそうしてしまったにせよ、紗希乃はやっすいテレビドラマの女のような拗ね方はしなかった。

「紗希乃。床じゃなくてソファに座って」

起き上がって足を降ろした僕の隣りへ紗希乃がのそのそとのぼる。端っこにあったクッションを抱き込む紗希乃に笑ってから立ち上がれば、若干潤んだ目がきょとんと丸くなった。歩き出した僕をじっと眺めていたのに、何故かクッションを抱きかかえたまま付いてくる。随分と信頼されてるじゃん僕。何をする気なのか完全に怪しまれている。何だか悪戯してみたい欲が膨らんできた。いやいや、やめといた方がいいって。そう自分自身に声をかけたくなるくらいにね。用もないのにキッチンに行ってみたり、玄関に行ってみたり。ようやくからかわれていることに気が付いた紗希乃は元いたソファに戻っていった。それを見送って、書斎の一番上の棚に隠していたあれを取りに行く。買いに行ったのは昨日の夜。硝子と歌姫が紗希乃を連れ出すと言うからちょうどよかった。よくなかったのは指のサイズがわかんないくらい。僕と比べたら滅茶苦茶細いってことくらいしか知らない。指輪をつけてるところも見た事ないしね。とりあえずスマホにあった紗希乃と僕の写真で手を比較して、店員に見繕ってもらったのを買ってきた。サイズが合わなかったらまた買えばいい。今度は紗希乃の好きなものを選んでもらえれば尚いいね。まあ、まずはさ、そこに至るまでの間に指輪を拒まれなければの話なんだけど。ドラマみたいな恋愛ごっこじゃ拗ねたりしないくせに、子供みたいに拗ねるのは昔から変わらない。ソファに座って、クッションに顔を埋める紗希乃の隣りに座っても、ぴくりとも動きやしなかった。

「僕が紗希乃とずっと一緒に生きてくってのはこれからも変えるつもりはないんだけどさ、」

あ、ちょっと動いた。ちらりと、横目で僕の様子を伺う紗希乃が小動物のようで面白い。

「僕はきっと紗希乃よりも欲深いから、もっと欲しいんだよね」

僕の、……俺の、弱さと浅はかさが招いた罪悪感は一生抱えていくつもりだった。だけど、ただ抱えていくにはもう時間が経ち過ぎた。重荷の役目なんてとっくに終えて、あの日の罪悪感も独占欲も、僕の胸の中にあって当然の存在になってしまっていた。重たくも邪魔でもなくて、薄まったりしないくせにどんどん肥大化していくそれがなくては今の僕が形作られないような気さえしてしまうくらい。うん、それは別にいい。どうせ大きくなるなら、好きなようにして大きくなってく方がいい。であればまた一層重ねたっていいわけだ。

「僕と籍いれて結婚しよう、紗希乃」

あの家から出れた時に手放さず、諦めが悪い僕に紗希乃は囚われたまま。これからも手放すつもりはなくって、何ならもっと繋いでやろうとしてる。聖人ならば手を離してやれただろうにね。そう思うと罪悪感を覚えないわけでもない。そんな、なけなしの良心が呼び寄せた罪悪感はあの夏の罪悪感と相容れることはできるだろうか。
 

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