辻風

24.瓶底に張りついた幸福

見えない何かを追いかけて、見えない何かに追われてる。真っ暗でいてそのくせ何がどこにあるか感覚的にわかっているこれは夢に違いない。何があるかわかるのに、欲しいものがどこかわかんない。ねえ、どこなの。どこにいる?彼は、悟はどこに……。息が切れて、視界がぐらりと揺れた。朧気になっていく意識がすこし乱暴に揺り動かされる。耳に馴染む声は夢なんかじゃなくて、私を起こそうと肩を揺らす現実の悟だった。

「誕生日おめでとう、紗希乃!」

顔にふわふわとしたものが押し当てられて目が覚めた。真っ白くて毛足の長い体毛に覆われているクマのぬいぐるみは夜蛾先生がくれる呪骸の何百倍も可愛かった。蒼い目をしたクマと、悟の目がきらきらと私の顔を覗き込む。

「……悟……?」
「はよ。今年のプレゼント、俺がいなくても寂しくないようにって態々似てるぬいぐるみ探したんだぜ?可愛くねー呪骸を先にプレゼントしまくる結果になったけど」

クマと悟の顔を見比べる。ふと周りをぐるりと見渡すと高専にある地下の部屋の中だった。さっきまでみていた夢が邪魔してきて、自分の置かれている状況を理解するのに時間がかかってしまった。

「私、誕生日……」
「ん。15になった。俺の誕生日がくるまで同い年だな?」

15歳になった。禪院でも加茂でもない。悟がすぐそばにいて、笑ってる。ベッドに腰掛けていた悟の頭を抱えるように抱き寄せた。私の腕の中で何か喋ってるけど、耳に入ってこないくらい胸がいっぱいだった。涙はどうしていくら流しても止まることを知らないんだろう。頬を伝うそれは生ぬるい。よかった、とうわ言のように繰り返すことしかできないでいる私の腰のあたりを悟が叩いてくる。つい緩めた私の腕の中から抜け出した悟が勢いよく抱き着いてくる。息苦しいと、もごもご訴えてみるけども完全にさっきの真逆の状況だった。

「おかえし」
「さとる、くるしい」
「俺もさっきマジでヤバかったんだかんな。腰曲げすぎて死ぬかと思った」

苦しくて出てきている涙なのか、何か込み上げてきた上での涙なのかわからなくなってきた。私にクマのぬいぐるみを抱えさせ、私ごと持ち上げた悟はソファに向かった。隣り合って座るのかと思えばそうじゃない。後ろからがっちり抱きしめられている。さっきよりは苦しくない。

「もう泣くなって言ったってしばらく止まんないからね」
「知ってる。前に読んだ本に感動してずっと泣いてたし」
「ずっとは泣いてないもん」
「いーや泣いてたね。バッチバチに泣いてた」
「泣いてない!っ、なっ、舐め……?舐めた?何でいま舐めたの?」
「舐めたら止まるかなって」
「止まんない!」
「ぶは、止まってんじゃん?」

べろりと目尻を舐められた。ぬいぐるみでガードしようと思ったのに、悟の長い手にがっちりとホールドされていて動かせない。また舐めようとしてくるのが恥ずかしくて別な意味で泣きそうだったから、精いっぱい睨みつけるとなんとか止めてくれた。

「まあ、また今度ってことね」
「今度なんかないもん」
「あるよ。これからは、いろんな今度が紗希乃にはたくさんあるんだから」

後ろから抱きしめてくる悟の手に力がこもる。頬ずりをするようにすり寄ってきた悟を静かに受け入れていると、不意に顔を覗き込まれた。

「これからの話をしようぜ」

まだ終わりなんて認識していなかった頃。御三家のどこかに嫁ぐのだとわかっていても、その候補が悟しかいなくって、漠然と悟と一緒になるのだと考えていた。それがいつしか終わりが見えて、その先の事なんか夢想することさえできなかった。

「まずは来年」
「……へ?来年?」
「来年の今日。またこうして抱きしめさせてよ」
「……舐めない?」
「期待されたらそれ以上のことするに決まってんじゃん?」
「ばか!」
「ちょっとくらい良いだろーが」

これから先の未来という漠然としたものに、ひとつ区切りが現れた。1年は長い。それでも早い。私は1年後の自分をそう簡単には思い描けなかった。

「私、1年後にどんな風になってるかなんて思いつかない」
「高専1年じゃね?」
「それが想像できないんだよ」
「……目標でも立てるか?」
「勝手に死なない」
「それは目標じゃなくて約束。ぜってぇ守るヤツ。はき違えてんじゃねーよ」

そもそもここにいたら死にたくても死なねーよ、と悟からデコピンもプレゼントされた。地味に痛くって、やり返そうとしたけれど術式ではじかれてしまう。

「そうだな。来年の今日までにやりたいことを目標にしようぜ」
「やりたいこと……」
「お前山手線乗りたいって言ってなかったっけ」
「乗って良いの?」
「期待してるほどいいもんじゃねーけど、乗れるよ。後は?」
「後は……、海。海見てみたい」
「海の任務とかあるかも」
「ほんと?!」
「海好きだっけ?」
「色んな本でね、海に憧れてる人物がやけに多いの。ということは、海は人が憧れるようなすごく素敵なところなんじゃないかって思わない?」
「あ〜ハイハイ。そういうやつね」

山手線に乗ろう。海に行こう。どこかで買い物をしてみたい。外で何か食べながら歩いてみたい。物語の登場人物が何気ない日常でしていたことを挙げてみる。ふんふん、と聞いていた悟も、あれは?これは?と次々と具体例を出して来た。小さな部屋で本を読んでいただけの私が体験していくには増えすぎた例に、一瞬戸惑う。

「来年の今日までに全部できる気がしない……」
「できるできる。半年もかかんねぇよこれくらい」
「ほんとに言ってる?」
「マジで言ってんの。なんなら今言ったことの倍はできるね」
「本当かなあ」

これからがあることを無自覚に信じていた昔に戻ったようでいて、まるですべて夢の中の出来事のようにも思える。こまごまとした小さな目標に手を付けるために私がやらなくちゃいけないことは明確だった。悟みたいな色をしたクマを抱きしめるんじゃなくって、あの珍妙な呪骸を黙らせながら抱きかかえ続けるのが目下のすべきことだった。それができるようになって初めて、外に出ることが許される。

「来年の今日は外のどこかで互いの顔を見よう」

吉川の家の女の命が15歳で終わってしまうなんて腐った呪いはここで断ち切るべきだ。その先が私達にもあるのだと、ただの夢なんかじゃないのだと証明してみせる絶好の機会だもの。それでも、生き延びてしまったと罪悪感を抱かずにはいられないし、長生きしてやるって先祖に見せつけるのは少し荷が重い。まずは1年。たしかに1年延ばすことができたと報告できたら今の私には上々だ。

「そんで、来年の今日を迎えたらまた来年。それからその来年の今日が来たらそのまた来年だな」
「……ずっと続くんだね」
「当然!20歳も30歳も40も50も60もその先もずぅーっと、勝手に死ぬのは許さないし、ずっと隣りにいてもらうから」

嫌?と首を傾げている悟の顔は、嫌だと私が言わないことをわかってる。

「これから毎年この日は紗希乃と1年いられたなって思うよ。そんで、また1年いられるなって思うんだ」
 

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