辻風

18.貴方の瞳の空を見た

「紗希乃様は離れの外に出られなくて辛くないのですか」

私の世話係をしてくれる子は1年も経つとみんな決まってそんなことを訊ねてくる。そう言い始めた子はしばらく経つと世話係じゃなくなって、独り立ちしていく。窓の役目を担うのだとお兄さまは言っていたけれど、実際はどうかわからない。その問いかけに心の中で肩を落とす。ああ、この子もそうなのか。よく世話をやいてくれて、悟の外での話も拾ってきてくれるような優しい子だったのに。

「私が外へ出られるときはね、嫁ぎ先が決まった時だから」

納得いかない顔をされても困るの。だって私、ずっとそう言われて育ってきた。そうじゃない生き方を知らないよ。いつか決まる日がやってくる。その日がいつになるかなんて見当もつかなかった頃は、ただ漠然とした大きな道しるべが目の前にあるだけだった。15歳というタイムリミットに気が付いてからはさあ大変。不安ばかりが私の胸の内を食い荒らす。気付いたところでもう遅い。私は無駄に大きな呪力を持っているだけで、今を変える力なんて持ち合わせていなかった。





座り心地の悪さに身を捩れば、両手がやけに重たくなっていることに気が付いた。身体中がだるい。重たい瞼をこじ開けた先に見えたのは両手首を縛る太い縄とぐるぐる巻きつくお札たち。私はお札を張り巡らされた部屋の真ん中に置いた椅子に座っていた。左右に縄の根元を打ち留めている杭が見える。逃げないように縛られているみたい。私の部屋に似ているけれど、ただ似ているだけだった。まるで罪人のような姿だね。……罪人と一緒か。お祖父様の言いつけを守れなかった。私は一体何人の人間を殺したんだろう。ここに囚われているということは、相当な数を……

「ちょ、タンマタンマ!待って、紗希乃落ち着いて」
「悟……!」
「そうそう悟クン。ジジイ共のお説教がやっと今終わってさー」

椅子に座る私の前にしゃがみ込んだ悟が顔を覗き込んでくる。見慣れないサングラスのせいで悟の眼が見えない。背中をぞわりと駆け上がるような感覚が静かに引いていくのがわかった。

「大丈夫だよ」

揺れて滲んだ視界で悟の白とサングラスの黒が歪んで混ざっていく。伸ばされた悟の長い手を払うことなんて、両手を拘束された私には到底できなくて。ゆっくり目尻を拭う彼の指がこれまでにないほどやさしいから余計に涙が出た。

「ねえ、やさしくしないで」
「紗希乃は悪くないよ」
「誰を殺したの?」
「誰も死んでない」
「嘘だ!だって、私、お祖父様の言いつけを守れなかった!」
「その言いつけだっていつから由来のものなのかも最早怪しいじゃん?意味なんてなかったかもしれない」
「でも、輪っかが……止まって……」
「じゃあ意味ないってのは言い過ぎか。あの呪具の確実な効果と、ジイさんの言いつけがどのくらい関連性があるかをこれから調べないとな」

ハンカチなんか持ってないからと、制服の袖で目元をごしごしと拭われる。さっきまでの指はどこ行った。ちょっときつく睨んでみたら、大げさに笑いながら悟が大の字に腕を広げて寝転がり始めた。

「っはー!一時はどうなるかと思った」
「私ね、もう悟に会えないな、って一度諦めちゃったよ」

笑っていた悟が口を噤む。がっかりさせちゃったかな。何が何でも貴方の所へ戻るのだと意思を貫けなかったあの時の自分が恨めしい。ちゃんと持ちこたえられていたら、こんなことにはならなかったのかもしれない。たられば論の答えなんか誰にもわからないことだってわかってる。それでも、死に怯えていた自分と死を受け入れて諦めかけた自分の心を思い出すだけで息が詰まる。あの気持ちの持って行き場が見つからない。飲み下す前に、不安と恐怖が喉を塞ぐ。

「あのさ、」

寝ころんだままの悟が呟いた。相変わらず黒いサングラスに阻まれてあの青が見えない。

「もっとお前が早く来れば、ちゃんと通い続ければこんなことにならなかったって言っていいよ」
「そんなこと思ってない」
「だって事実だろ」
「悟が高専から通ってくれたって同じことになってた」
「何でわかんの」
「わかるよ。だって私の心の問題だもん。15になったらどうにかされてしまう、ずっとそればかり怯えてたから」
「何ソレ。15ってなに」
「お祖父様の本に書いてある、先祖の寿命と日記を照らし合わせたら誰も彼も15歳を迎えたら死んでる」
「お前それに気づいて一人で黙ってたわけ?」
「だって、お兄さまも死んで悟に会う手段もない。あの部屋と外を繋いでくれるのなんて二人ぐらいしかいないの」
「……」

ひくい声で唸りながら頭を掻き乱している悟が、勢いよく上体を起こした。ずり下がったサングラスを手慣れたように畳んで軽く投げ捨てる。ようやく見えた空色の眼は面白くなさそうに歪んでいて、口を尖らせて拗ねてる様子は昔から変わらなかった。地べたに座ってる悟の目線の先にあるのは私の両手を掴む縄。その塊の先でだらりと下がる私の両手を悟はそっと手に取った。いつの間にか見上げることしかできなくなっていた悟を見下ろしていることに気づいて、落ち着かない。

「死をすぐに受け入れるのはもう終わりにして」

温かい手に包まれて冷えた指先がじんわりと感覚を取り戻していく。

「もっと生き汚くなってよ。俺がどれだけ助けたくても紗希乃がすぐに諦めるんじゃ助けようがない」
「助けない方が楽かもしれないよ」
「は?誰に言ってんの?俺は強いんだからさっさと助けた方が楽に決まってんだろ」
「じゃあ、今までは大変だったってことかなぁ」
「そういうこと。元から持ってるモノで戦えないのはすっげぇ面倒なんだよね」
「……これからは楽になる?」
「なる。絶対に誰にも負けない。だから、紗希乃も俺の知らない所で死んだりすんなよ」
「悟と違って弱いから、死なないなんて言えないよ」
「ならさ、紗希乃の"これから"を俺にちょうだい」
「全部?」
「そ。全部。俺が諦めていいよって言ったら、紗希乃は生きるのを諦めていい」
「そんなの絶対言わないじゃない」
「当り前じゃん」

なぁ、約束して。私の自由にできない右手の小指が悟の小指に攫われていく。

「俺の知らない所で勝手に死ぬな」

*

「病み上がりにピザって重くない?」
「そんな気を回せる奴は高専にいないです」
「なんだと伏黒ー!」

硝子先輩の所に顔を出した後に恵くんのところに寄ってみれば、食べかけのピザの箱がベッドの上に取り残されたままになっていた。ベッドに入っている恵くんと、ベッドサイドに座る野薔薇ちゃん。そして向かいにあるのは食べかけピザと、空っぽの椅子。

「悠仁くんトイレにでも行ったの?」

家から持ってきたゼリーをサイドテーブルに置きながら訊ねてみたら、二人は揃って首を左右にブンブン振っていた。……よくわからないな。ふと開け放たれた窓が気になって、なんだか窓の外が賑やかだったから様子を見に行こうとすれば、またしても首を振る二人に引き止められる。

「虎杖のこと知ってたんですね」
「旦那情報ってやつ?」
「あーまあね。最初は死んだって聞いてたよ」

忌庫番に呪力を渡した後に、ちょっとだけ家に寄って冷蔵庫に入ってるゼリーを持ってきた。悟のお気に入りだけど、まあいいでしょ。適当に袋に入れたから個数が多いかと思ったけど野薔薇ちゃんがいたからちょうどよかった。一個は硝子先輩にあげたしね。……味がオレンジとグレープしかない。野薔薇ちゃんの前に二つ並べてみたら、ぐぬぬと悩んでからオレンジを手に取った。残ったグレープを恵くんの手に載せたら、呆れた顔をしている。

「思ったより回復してそうだけど、私の助け要る?」

ゼリーのフタを開けようとしていた恵くんがゼリーを置いて、手をグッパグッパと動かしている。

「家入さんに治療してもらったんで何とか」
「交流戦の続きやるかどうかわからないけど、やるなら手を貸すよ」
「ドーピングして勝ってもしょうがないんで」
「平気ならいいけど」
「ドーピングって何スか?」
「吉川さんは呪力譲渡の術式を持ってるんだ」
「フーン?」
「野薔薇ちゃんは芻霊呪法だっけ?」
「そうだけど……」
「ご依頼いただけたら五寸釘に呪力込めたり金槌に呪力込めたりするよ」
「物にだけ込められる術式?」
「ううん。人体も可能だよ。例えば、呪力がカラカラになって少しずつ回復途中の恵くんに私の呪力の塊を移すことも可能ってこと」
「へ〜伏黒やってもらえばいいじゃん」
「この人、呪具への呪力譲渡はそこまで失敗しないのに対人譲渡となると計測が馬鹿になるからいらん」
「あ?もっと分かりやすく言えよ」
「何でキレてんだよ。つまり、譲渡する呪力が大きすぎて吉川さんの呪力に突き動かされるんだ」
「下手すると動けなくなっちゃう人もいるね」
「……それってすっげー博打じゃね?」
「そうそう。呪具とか物にはさ、長年の感覚があるから油断してる時以外は失敗しないんだけどね。人間相手だとさ、呪力キャパの問題もあれば、使いこなせるかのその人の力量も関係してくるから難しいのよ」
「油断しないでくださいよ」
「もう恵くんは細かいなー」
「じゃあ五条先生には渡し放題ってこと?」
「そんなことないよ」
「先生に呪力あげたことないでしょ、吉川さん」
「うん。だって悟に私の力は必要ないでしょ?」

野薔薇ちゃんは、うーん?と小首を傾げている。悟が彼女を迎えに行ってからそこまで日が経っていないそうだから悟が戦うところなんて目にしたことがないのかもしれない。今回の交流戦で派手に暴れたらしいんだけど、そこのとこ見てなかったのかな。

「呪力譲渡はさ、大なり小なり自分の力を削って譲り渡すものだから」

力に満ち溢れている人に削った力を渡したところで腹の足しにもならないのよ。笑って言ってみたけど、野薔薇ちゃんはあまり納得いっていないみたいだった。
 

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