辻風

19.晩夏の愛は覚束ない

「すぐに出れるよ」

悟の言う通りあの部屋にいたのはたった1日だけだった。手首を縛る縄が解かれた代わりに、左右の手首に一枚ずつお札が貼られて、悟に手を引かれて部屋を出ていく。あそこはどこだったんだろう。そして、これから行くのは一体どこなんだろう。手を引いてくれてるのは悟で間違いないのに、真っ黒な背中だけを見つめていると何だか不安が押し寄せてくる。手首に貼られたお札がチリチリと端の方から千切れ始めた。

「はい、揺れない揺れない」

くるりと振り向いた悟に頭を撫でられた。緊張してたのが少し緩んだのが伝わったのか、軽く笑われる。息を吐いたら少しだけ楽になった。周囲を見れるようになって辺りを見渡しながら先を進む悟についていく。私の家じゃない。本邸は一部しか入ったことはないけれど、こんな雰囲気の場所はなかったはず……。

「あの輪っかなんだけどさ」

重さも感じず、ただひたすら私の手首で回り続けたあの輪っかは今はもうない。あの騒ぎの時にどこかにいってしまった。ただの輪っかじゃないのだから処分するにもそれなりの対応が必要になる。

「早く見つけて戻さないと放って置いたら大変なことになっちゃうかもしれない」
「え?マジ?気付いてたわけ」
「お祖父様の本にそれっぽいこと書いてあった」
「……あの輪っかの中身とか?」
「うん。中身はね、うちの先祖の骨らしいんだよね」
「知っててつけてたのかよ」
「骨とか呪具によくあるパターンでしょ」
「まあ……」
「嫌がったところで外せる代物でもなかったし」

長い廊下を進んだ先にある分厚い扉を開けると、下に繋がる階段があった。階段は本邸でしか使ったことがない。先に降りていく悟にぶつからないようにゆっくりと足を下ろしていく。小さなランプのぶら下がった扉を開けた悟が何やら文句を言ってる。

「掃除頼んだのにヤニ臭くしてんじゃねーよ」
「埃はもうないじゃん。あと換気扇の下で吸ってる」
「吸ってるのは硝子だけだろ悟」

悟越しに聞こえる声に思わず体が強張る。パタン、と閉じた扉と悟の間で昨日のことが頭を駆け巡った。例え殺していないのだとしても、私は誰かを傷つけた。詳しいことを悟は教えてくれなかったけど。

「紗希乃、人見知り?」

悟の背に隠れるようにしながら首を振って否定した。ちがう。人見知りじゃない。だけど、まだこわい。背中を冷たい何かがぞわりと走っていく。手首のお札が一気に半分に崩れた。

「おっと。傑、へいパス〜」
「ちゃんと受け取れよ」
「ノーコンが何言ってんだよ」
「私はノーコンじゃない!」

こっちに飛んでくる何かを片手で受け止めた悟が私の頭の上にそれを乗せた。「ハイ、ドーゾ」そう言って笑って手を離すから、頭のてっぺんから転げ落ちてく茶色いモフモフしたそれを両手で支えるようにして掴んだ。……掴んだはずだった。きっと丸い塊だったそれが、バフン!と大きな音を立てて飛び散った。

「ブハハハ!すげー!爆殺じゃん!傑もうひとつくれ!」
「ひとつじゃどう見ても足りないな?ふたつ、いや、みっつでどうだ?」
「もうむり。ヤニ摂取しかできないから後はよろしく」
「おいこらサボんな」
「いやいや。その呪力しまってくれたらやる気でる」
「やる気に関しては硝子自身の問題だと思うけどね」

何が何だかわからないまま、悟に押し付けられるように持たされたぬいぐるみが次々に爆散していくし、その度に悟ともう一人の男の人は腹を抱えて笑うし、ずっと煙草を吸ってる女の子はだんだん姿勢がだらしなくなっていく。べりべりと剥がれ去っていく両手首のお札と、吹き飛んでただの屑になってしまったぬいぐるみたち。私はここで何をしてるんだろ。何だか情けなくなってきた。不安で、落ち着く時もなくて、ずっとずっと浮いたり沈んだりしていた気分がまたぐらつき始める。ほらまた、アヒルみたいな奴が手にした途端に吹き飛んだ。

「アッ。ごめん紗希乃、泣かないで」

*

「……野球?」
「そうよ、野球なの」
「野球って野球?」
「野球は野球以外に野球ってないでしょ」
「いやそうなんだけど……野球?」

バッチリと野球のユニフォームに着替えた歌姫先輩はキャップまでしっかり被って、アップしている京都校の生徒たちに「気合入れてけよォ!」と喝を入れている。……交流戦の二日目って個人戦じゃなかったっけ?

「僕は審判!」
「なるほど……?」

いつもの黒い上着を脱いで、白いカッターシャツの袖を捲った悟が一人でポーズを決めている。後ろの方で悠仁くんだけが拍手してくれてる。やさしいね、悠仁くん……。悟の腕捲りの高さが左右で違っているから、仕方なしに直しているとバットを持った東京校の2年生たちが寄ってきた。

「オイオイ紗希乃、あんまり悟を甘やかすなよ」
「しゃけしゃけ」
「紗希乃もまだまだだな〜。悟のやつワザとだぜきっと」
「ワザとじゃないしー」
「はいはい」

夜蛾学長から任務がないなら見ていくといいと言われて同伴することになったのはいいけれど、個人戦だと思っていたので完全に拍子抜けだった。悟命名のジジイ専用席では京都校の学長と夜蛾学長が神妙な顔つきで話し込んでいるのが見える。野球観戦をしているとは到底思えない顔つき。目が合ってもいいことはないから、時々視界に入れる程度にしたいけど、すごい形相の歌姫先輩を目で追うと自然に目に入ってしまう。困ったなあ。

「紗希乃は監督ね」
「監督って何するの?」
「それはもう読んで字のごとく」
「私は指示出したりできないけど……?!」
「ダイジョーブ!応援係だから!」
「あっ、そうなんだ」

皆頑張れ〜!と声をかければ、東京校のみんなは親指を立てるジェスチャーをしてかっこよく散らばっていく。どうやら最初はこっちが守りみたい。野球のルールなんてさっぱりなんだけど。歌姫先輩みたいに喉が強くないので悟に貰ったメガホンを使う。投手はうちの強肩ナンバーワン!……と思われる真希ちゃんだった。

「お久しぶりです、紗希乃さん」

守備でみんな出払って、独りぼっちで座る東京校のベンチの前に現れたのは黒いユニフォームを着た京都校の生徒である加茂憲紀くんだった。明らかに治りきってない怪我のまま、バットを持って挨拶してきた。

「……こんにちは憲紀くん。怪我は大丈夫?」
「見かけだけです。何も問題はありません」
「はいそこー!イエローカード!」
「おいコラ何やってんの加茂ォ!うちのネクストバッターサークルは反対だコラァ!それと野球にイエローカードなんかあるか審判!」
「レッドじゃないだけマシでしょ」
「加茂くんどうやら君の待機場所は真反対だったみたいだよ」

悟の笛が鳴り続け、歌姫先輩の怒号が止まらない。聞いているのかいないのか。そのうえ真希ちゃんが明らかにストライクゾーンを丸きり無視してボールの照準を憲紀くんの後頭部に絞って構えているものだから、虎杖くんも首を傾げながらこっちへ来るし、何ならバッターの三輪ちゃんもついてくる。野球って…?

「貴女はやはり我々の方に来るつもりはないんですね」

騒いでいる周りにやれやれと肩を竦めてから憲紀くんは軽くバットを振りつつ歩き出した。それを見た虎杖くんと三輪ちゃんはそのままバックで戻り、真希ちゃんは相変わらず照準を定めている。これなんていうんだろ野球?

「憲紀くん。私はさぁ、"そっち"に行く気はひと欠片もないけど、京都には普通に行けるんだよ」
「……相変わらず貴女はお気楽で、自分のことは大事らしい」
「そりゃそうでしょ。じゃなきゃ、彼の傍になんかいられないよ」

君の一番望むところには行かないけれど、まったく手助けしてやらないこともない。私の言いたいことが分かったのか、歩みを止めた憲紀くんがわずかに振り向いて笑った。怒鳴り続けてる歌姫先輩が駆けつけて憲紀くんの首根っこを掴んで引っ張っていく。……加茂家の妾腹の男の子。彼は生まれたときから私と因縁めいた関係が確かにあった。古い人たちは諦めが悪くって、今でも私の術式にとやかく言ってくる。私はそれこそ悟に救われたお気楽な人間で、憲紀くん本人への救いも助けも家の関係を切ることすら何も与えていない。いわば知らんぷりしてきたようなもの。自由になったのに、自由に浸り切れていない私と、今も家に縛られているこの少年は心のどこかは近くても進む道はずっと交わることはない。
ガキッ!と当たり切ってない音を出して打ち上げた三輪ちゃんの後で綺麗な三振をキメる憲紀くんを眺めた。彼にも誰か助けてくれる人が現れてほしい。……うん。やっぱり私は自分のことが大事な人間みたい。彼を助けてくれる誰かがいれば私ももう少し楽に生きていけるんじゃないか、なんて人任せで思いやりの欠片もないことを思ってしまうから。

生き汚くなってと望まれた通りに生きてみた。思ったよりもそれに近くて、気にしてたほど気分も悪くない。私はいつまでこうしてるのかなんて思っちゃったりはするけれど、

「暑いなぁ……」

ただただ蒸し暑くて息の詰まる、この夏の終わりを愛することができる日はくるのだろうか。
 

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