辻風

16.彗星に馴染んで溶ける

掌の柔らかさも、抱きしめた時の温かさも、すべて確実に俺の手元にあったものだった。

「畜生!やられた!」

吉川の奴ら、俺と長男が繋がってることを知っていたのか。1か月前に死んだのだとしたら、この1か月間俺はずっと騙されてたっていうのかよ。

「待つんだ悟!」
「傑、はなせ!」
「どこに行くんだ」
「吉川の家に決まってる!紗希乃がどうなっているかこの目で確かめんだよ」
「待ちなさい。吉川の娘の件が本当なら、呪術界に影響が確実にあるのを故意に隠匿していたことになる。五条家も当然だが、他の御三家もまとめて話を―……」
「そんな悠長なことしてられるか。紗希乃をただの呪力の塊としか見てねぇあいつらは後ろ盾が続けて亡くなった今、都合のいいように扱わないわけがないだろ!」

高専から吉川家までは少し離れてる。タクシーの拾えるところまで走って、それから、ああクソ、時間が足りない。今すぐにでも……!いつまで経っても俺を離さない傑を殴ってやろうと拳を握りしめた時だった。窓の人間が息を切らしながら教室に現れた。

「夜蛾先生っ……緊急事態です!動員可能な術師すべてに召集がかかっています!」
「傑、意地でも悟を離すな」
「わかりました」
「あ?やれるもんならやってみろよ」

「召集先は吉川家。突如出現した謎の呪力の塊に誰も近づけず、呪霊が集まり始めているとの事。早急に呪力の塊の抹消と周囲の呪霊の処理の指示が出ています」





「もっと車のスピード出せよ!」
「到着前に警察に捕まったら元も子もないだろ、悟」
「落ち着きなよ。べつに五条の彼女が原因とは誰も言ってないじゃん」
「言ってねぇけど、誰も近づけなくなるような呪力を持ってるとしたらあの家に紗希乃以外いない。つーか近づけずって何だよ。呪力が暴走したことなんて出会ってから一度も……」
「報告では、大きな呪力の塊に近付こうとしたところで持っていた呪具が破損したケースが数件上がっています」
「呪具が破損…?その塊に何か攻撃をしたわけじゃなく、持っていたものが破損したというわけかい」
「そうです。破損事例の上がっているケースの場合は近接タイプの呪具を持っている術師の報告のみでして、攻撃の為に距離を詰めたところ呪具が崩壊したとのことでした」
「吉川の術式は自分の呪力を圧縮した核を譲渡するものだ。圧縮されてない呪力が注ぎ込まれてキャパ越えしたからそいつらの呪具が崩壊したんだろ」

紗希乃の呪力を均す目的だった呪具はどうなった?あれがあるからアイツの呪力を均等にできてたはずだ。回転が速くなってはいけないと爺さんから言われているのを見たことがあった。俺が高専に来る直前のあの輪っかは―……

『ちょっとだけ、前より早く回っていくの』

困ったように手首を見つめる紗希乃の顔が浮かぶ。今でもこんなにはっきり思い出せるのに、どうして気にかけてなかったんだろうか。一番上の兄貴が死んだことは高専に報告されている。ただ、周囲に広められないような死の迎え方をしたらしい。お家騒動の果てだったのか、手癖の悪い呪霊に当たったか。……死ぬまで俺に紗希乃の無事を知らせる為に会いに行っていたのだから彼女が兄の死を知らないわけがない。さっさと自分を置いて、それなりに仲良くしていた兄の死にも駆けつけない俺はさぞかし薄情に見えるんだろうな。実際その通りで弁明する気は全くない。また会おうぜ、なんて軽口叩いてさっさと先に高専に出てきたのは確かに俺だ。ただ、兄貴を騙り、普段通りと思わせようとした人物が裏にいる。俺と紗希乃が離れている方が都合のいい奴ら。深く考えなくても分かりやすすぎて笑えてくるくらいだ。

「絶対に許さねぇ」

何年も通い続けた吉川の家に真っ黒い帳が下りている。帳に腕を押し付ければ簡単に、どぷん、と飲み込まれていく。その先で腕に感じたのは温かさだった。生温い空気の中でバタバタと走り回る大人たちの視線が俺に集まる。離れは全てまるで無かったかのようになっていて、本邸も抉れたらしく尖った木材がむき出しになっている。怪我人らしい奴らが一か所に横になっているけど、どれも軽症にしか見えなかった。その中で、一番擦り傷の多い女が目に留まる。いつもの、あの女。紗希乃を疎ましく思いながら、家からの縛りに逆らえずにいた。立会人なんて尤もらしい立場にいて、紗希乃を扱き下ろすだけの人間。

「紗希乃に何したわけ」
「ご、五条様……!私は指示されただけでして……!」
「あいつ、一人じゃ何もしないだろ」
「言われた通りのことをしただけで、」
「だから、」

誰が指示したかどうかなんて聞いてない。女は泡を食って逃げ出そうとしても力が入らないのか震えて、動くことすらままならない。

「テメェが何をしたかって聞いてんだよ」
「悟!お前まで威圧してどうする」
「私こんな中にずっといるのキツいんだけど」
「もうすぐ夜蛾先生が到着するから硝子はそれまで怪我をした人の治療を…って、おい、待つんだ悟!悟!」
「夏油も行っていいよ。私、あんな塊のとこ行けない」

大きな塊がこの先にある。温かさがだんだんと上がっていって、帳に入った頃よりもふわふわと体中を包み込んだ。バラけたらしい呪具の破片を手にした術師たちが点々と座り込んでいるのを横目に走る。あっちは2級。そっちも2級。2級すら脱せない雑魚たちは、紗希乃の呪力の塊に近づくことさえできなくて、そいつらの呪力程度しか抱え込めない呪具たちは己の形を保つことすらできなかったわけだ。項垂れたように座り込んでるのもきっと自分の意志じゃない。"弱いから"、力に翻弄されてどうしようもなくなっているだけだ。

紗希乃の呪力が周囲に満ちている。呪力譲渡を得意とする術式なだけあって馴染みが良い。良すぎるあまりに力のない奴らは貰いすぎて、扱いきれずに自滅してる。大きな呪力を操れないんだ。とどめておくことも、己の呪力で塞ぐこともできてない。黒い和服を着た男が地面に這いつくばっている。肩で息をしている男は、必死に腕を前に伸ばしていた。

「気分はどうだよクソ野郎」

身体すら起こせないのに、前に進もうとしている紗希乃の親父の前にしゃがんで顔を覗き込んでやった。涎を垂れ流しながら俺を睨みつける姿が非常に滑稽で、紗希乃に何をしたのか問い詰めようかと思ったけど今はどうでもよくなった。どうせ話せない。伸ばした腕だって、意地になって動かしているだけだ。筋張った手の甲を軽く突いてみればいとも簡単に地を撫でてる。ほれみろ、呆気ない。

「アンタ、よくも騙してくれたね。お礼はいつかきっちりするよ。兄貴の分ももちろん纏めてな。なに?兄貴は殺してないとか言うつもり?いいよ、ちゃんと調べてやる。たとえ事故死だったとしてもな、死者を騙ることの愚かさってものが許されるものではないと思わないか?」

思わないか。思っていたらやんねぇもん。背中が、体が、ふわふわする。あぶねー、調子に乗るとただただ気持ちよくなってく。雑魚みたいにあてられたりはしないけど、気分が良くなりすぎるのも考えもんだ。

「俺の推測が正しければ吉川は同じようなことを何百年も繰り返してきたんだろ。何が嫁だよ。どうせ、紗希乃みたく暴走させて亡くしてきたんだろ。あわよくば御三家の力として使えますようにって育てて、最後は暴走して手が付けられなくなる。呪力が底をついた当人は命を落とす。そもそもがおかしかったんだよな。嫁だなんだって言うならさ、その力の恩恵を受けた人間の情報がもっとあっても良くない?全然ないっておかしいだろうが」

吉川現当主の襟を掴んで、無理やり持ち上げた。立たせようとしても足首がだらしなく動くだけで立つことすらできてない。

「悟!」
「お〜傑。いいとこに来たじゃん。お前も平気だな。ちょっとこのオッサン持ってて」
「誰なんだ?」
「紗希乃の親父。この状況の元凶だよ」
「フーン。頂戴。いや、いらないけど、持っててやろう」
「サンキュ。お前の手持ち出してもいいけど、この先進むと潰れるかもしれねぇわ」
「成程。腕が疲れるね」
「疲れたらボコって運動していいよ。ただ目の周りだけはそのまんまにしといて」

自分がいかに無能で無力なのかを思い知らせてやるよ。俺が力を持っているからと紗希乃を渡すことに渋っていたけども、実際のところどうだ。お前も、吉川の人間も、立会人も、力がないから紗希乃を前にすることすらできてないじゃねぇか。六眼と無下限を持つ俺よりも禪院や加茂に嫁がせるべきだとごねていたが、この事態に陥ってもそう思えるか?禪院が血眼で探している子供と加茂の妾腹の子供は俺のように動けるか?

「俺じゃねぇと無理だろ」

紗希乃との関係の中では、俺が力を持っていることで常にもどかしさを抱えて過ごしてきた。ここにきてそれが覆ることになろうとは思ってもみなくて気分がいい。なぁ、紗希乃。俺は力を持ってていいし、お前ももう悩まなくていいよ。ようやく誰にも文句を言わせずに一緒にいれる理由を明確にできる。弱い奴らはお前といれない。強い俺だからお前といれる。俺より強い奴なんか禪院にも加茂にもいないだろ。だから俺だけだ!

直径2メートルほどの真っ白な塊を見つけた。そこは本当なら紗希乃の部屋があった場所。後ろで気絶寸前のオッサンを引きずってた傑が、オッサンの顔をこちらに向けたけど、もうすでに白目をむきかけてる。ダメだこいつ、と傑が肩をすくめてる。クソだな、まじで。

「さーて、どうすっか」

掛けていたサングラスを外してポケットにしまう。紗希乃が塊の中心にいるのは分かる。呪力の層が何重にも重なっているのだとして、暴走の末に層の形を保てなくなった外側が周囲に影響を与えているわけだ。誰かを故意に傷つけるような効果はなくて、ただただ耐えきれない奴らが自滅してるだけの現状だ。この塊が紗希乃を守るための核だとするなら中にもまだまだ層がある可能性が強い。出ておいでと声をかけたって紗希乃に届くかは分からん。試しに塊の表面に掌を当ててみた。何の抵抗もなく、掌は吸い込まれていく。

「傑」
「何だい」
「ちょっくら迎え行ってくるわ」
「……時間は?」
「1分、かな」
「了解。気を付けて」
「ハハ、誰に言ってるわけ」
 

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