春べを手折れば

わたしとあなた

「記憶を思い出してもいい頃合いだそうだ」
「へ〜、そんなのわかんだね」

嫌味ったらしく聞こえるだろうというのはわかっていた。そういうつもりがないことはボスもきっとわかってくれてる。医者が本当にそんなことわかるのかっていうシンプルな疑問と、紗希乃のことを分かった風に言われて勝手に嫉妬しているわけだった。カッコ悪いにも程があるね、おれ。

紗希乃の体調は問題なし。自然に思い出せるようにできるわけではないからどこかで記憶を思い出す工程が必要になる。勝手に蓋をして、勝手に開こうとしている。前だったら、一刻でも早く思い出してくれたらと思ってた。だけど、今は……。スマホの中には笑顔で歩く紗希乃の姿がある。おれがボスとゆりさんに頼んで無理やりプレゼントした靴と服と日傘を持って画面の紗希乃は楽しそうにしていた。こんな姿、最後に見たのはいつだったっけ。

「思い出さない方がいいんじゃないか、って思ってる顔してるな」
「まあ、こんだけいい表情できるくらい回復したんなら三門にいるよりいいんじゃないかとは思うよ」
「ちなみにそれはプレゼントが全部似合ってるって話をした後の紗希乃」
「……そりゃ、紗希乃が前に欲しいって言ってた服に似てるの探したわけだし、喜んでてもおかしくないでしょ」
「よく覚えてたな〜」
「雑誌見せられてあーだこーだ言われたら嫌でも覚えるって」
「ほ〜」

なるほどね、と言いながらコーヒーの入ったカップに口をつけたボスは何か考えているようで眼鏡の奥から遠くを眺めていた。

「迅、明日会いに行くか」
「え?急じゃない?」
「不意打ちも戦略のひとつってわけだよ。いつ戻すかどうかは追々考えたらいい」

*

まずはひと目だけでいいから会っておきな。そう言われた。おれのことを忘れている紗希乃にひと目だけでも会うって言うのは、わりと、いやかなり勇気がいる。少し前にゆりさんの誘いを断り切れずに紗希乃のいる療養所の近くまで行ったことがあったけど、あの時はよく行けたもんだなと自分のことながらしみじみ思った。

真夏のぎらついた日差しが段々と落ち着いていくのをバスの窓越しに眺めながら、紗希乃の元に向かう。「いつもの白いシャツで来い」なんて、先に向かっているボスから謎の服装指定をされた。まあ、いつも着ているから問題ないけど。紗希乃に会って、どうしよう。名前を呼んでしまったら驚かせてしまうかもしれないな。じゃあ、吉川って呼ぶ?呼んだことなくて咄嗟に呼べない気しかしない。最初は苗字呼びだったのに会話の途中で名前呼びになるなんて馴れ馴れしいにも程がある。ボスは林道さんって呼ばれてるって言ってたっけ。まあ、昔はそう呼んでたから違和感ないかも。ぐるぐると、一人じゃ答えの出せない問いをひたすら捏ね繰り回している。長距離バスから降りて、街中を走る市営のバスに乗り換えた。学校帰りの中高生が乗っていて、なんとも懐かしい気持ちになる。彼らの未来は至って平和で、よくある未来だった。悪いことも多かれ少なかれある。多くは己の力で、あるいは誰かに手伝ってもらって乗り越えられる程度のものだ。紗希乃もおれも、乗り越えられるだろうか。





波のざわめきと潮の香りは2度目でも慣れなかった。バスから降りて、ぐるりと辺りを見渡した。自然の多いこの場所は人なんて基本的に歩いてない。動物の方がいるんだろうけど、今のところ出会ってはない。紗希乃の療養所の方に向かって歩きだす。17時30分までしか外出できないことになっているらしいから、どっかに出かけてたとしてもそろそろ戻ってくるでしょ。そんなことを思って、何もない周りを見ながら歩いていた。夏はまだまだ終わらなくて、日差しは穏やかにはなってきたんだろうけど海からの照り返しが眩しい。あいつ、日傘ちゃんと差してるかな。照り返しで日焼けしてそうな気もするけど。

風の音、土を踏む音、波の音。三門にいる時には意識することなんてあんまりないそれらに耳を傾けながら進んでいけば、何かそういう音とはちがうものが聞こえる。どちらかと言うと、そっちの方が日常的に聞いた音のような気がして耳を澄ますと、誰かが息を切らしているような音がした。……前方に、白い丸がある。いや、あれは―……

『夏だったら、こういうちょっとふりふりしたワンピースを着てもいいと思わない?』
『いつでも着ればよくない?』
『いやいや無理。キャラじゃないじゃん』
『まー、紗希乃があんまり着ないタイプではある』
『でしょ〜。夏にこういうの着てさ、おっきな帽子かぶったり、日傘差したりして、可愛いミュール履くの』
『フーン。来年?』
『そう!来年!だから、暗躍一旦おやすみして一緒に海に行こう!』
『暇だったらね〜』

不意にいつかの紗希乃が思い浮かんで、目の前でしゃがみこんでる誰かと重なった。

「紗希乃!」

体調は悪くないって医者もボスも言ってただろ!なんで、こんなところでひとりで、

「紗希乃!」

息を切らして蹲っている紗希乃に駆け寄ると、しゃがんだままストップをかけるように手をスッと差し出された。顔を上げないまま、肩で息をしているけど、呼吸音とかは異常な感じはしなかった。

「いや、あのっ、はしり、すぎただけでっ……!」
「なんでこんなんなるまで走ったわけ?!」

病み上がりだし、トリオン体じゃないんだから何を無理してんだと思ってつい大きな声を出してしまった。具合が悪いわけじゃないとわかったら気が抜けて、しゃがみ込んでる紗希乃の隣りに腰を下ろす。まだ肩が揺れてる紗希乃はまだ顔を上げない。

「だっ、て……だって、あなたが来たから、」
「……は?」
「この前は、後ろ姿しか、見えなくて」
「あなた、って……」

しゃがんだまま、おれのTシャツの裾を紗希乃の前よりほっそりした手が掴んだ。震えている手が、もう一度、しっかりと存在を確かめるように握り直した。

「あなたは誰なんだろう。わかんないの。私、わかんないのに絶対知ってるの」

顔を上げた紗希乃は溢れた涙で顔じゅうがぐしゃぐしゃだった。

「わかんないけど、絶対話したことがあるよね」
「……」
「わかんないんだけど、私の手を引いてくれてたよね」
「……っ」
「わかんなくてごめん。ずっとずっと一緒にいてくれたのは、あなただったでしょ?」
「っ紗希乃、」

無意識だった。泣きじゃくる紗希乃の手を引いて、自分の腕の中に閉じ込めていた。おれの胸に顔を押し付けて尚も泣く紗希乃の背中をあやすようにトントンとたたく。そういえば、小さい頃に同じようにしたことがあった気がする。あの時も紗希乃は泣いてた。あの時とは状況が何もかも違うけれど。おれの、紗希乃に対する感情も違うけれど。……いや、ずっとそうだったのかもしれない。さすがに10年前の自分が紗希乃のことをどう思ってたかなんて確証はどこにもないんだけど。

「紗希乃、お前が無理せずに楽に生きれるなら、おれのこと忘れたまんまでいいよ」

腕の中で嫌々と頭を振る紗希乃を持ち上げるようにして抱き直す。鼻が潰れて苦しかったのか、変な声を出してから紗希乃が顔を上げた。

「はは、おれのこと思い出したら、嫌なこととか辛いこととか余計なことも思い出すよ?」
「それでも、思い出せるなら思い出したい」
「思い出したら後悔するかもよ」
「しない!とは言い切れないけど、それでも……」

「今の私がごめんねとありがとうを言うんじゃなくて、ちゃんと全部覚えてる私に言わせてほしい」

わたしとあなた


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