春べを手折れば

晴れ間は滲んで薄曇り

雨が降っていた。濡れたアスファルトの上を駆けると、バシャバシャと足元で水が跳ねていった。履いていた靴に雨水が染みて体温を奪っていく。――……立ち止まってしまいそうになる私の手を引いているのは誰?

灰色の空、雨、寒い。

ひび割れたアスファルト、崩れた建物、何かの鳴き声。

全てをかき消すように、見ないふりするみたいに私は目一杯声を出した。

『トリガーオン!』





「っは、!」

ベッドに横になったまま肩で息をしていることに気が付いた。夢を見てたみたい。何の夢だったのか思い出そうとする度にモヤモヤとした気分になる。つまり、ちゃんと思い出せない。サイドテーブルに置いてある水差しを手に取って、乱暴にコップに注いで水を飲み干した。ぬるい水を飲んだからといって落ち着けるもんでもない。ただ、このモヤモヤを取り除きたい。息が詰まるような苦しさは夢の中の出来事だけだって思いたい。まるですぐそこにあるように思えてしまうような恐怖を拭い去りたかった。もう終わったことだよ、たぶん。私には関係のないこと、きっとね。……そう思っておかないと、そうじゃないと困る。何がどう怖いのかがわからないんだもん。漠然とした恐怖なんて、小さな子供がお化けに怯えるみたいな話だ。私はもうそんな子供じゃない。だったら、この不安な心にも理由があるはず。

朝というにはまだちょっとだけ早いけど、遠い向こうでは日が昇り始めてる。そんなぼんやりとした明るさの中、そろりとベッドを抜け出した。汗でべっしょり濡れたパジャマを脱いで、適当なTシャツに着替える。いっそのことシャワーを浴びたいくらい。この時間なら皆を起こさずに入れるかなあ。視界に入るのは壁に張られた1週間の入浴予定の書いてあるスケジュール表。欄外には、『予定以外の浴室利用は許可が必要です』と小さな赤文字で書いてある。

……あれ?

「……皆って、誰だっけ」

*

定期健診の日を迎えた。いつも通り、覚えていることの確認をするのかと思えば今回はそうじゃなかった。

「今考えていることを話してごらん」

今なら何でも聞いてあげるから。なんて冗談ぽく話すおじいちゃん先生はカルテをデスクに置いてこちらに微笑んだ。

今、考えてること。ぐるぐると色んな言葉が浮かんでは流れてく。この前見た夢のモヤモヤを思い出して嫌な気分になった。最近夢を見ること、何か思い出せそうな気がするのに思い出せていないこと。それが日々の生活の端々に見られるようになってきたことを話してみた。
……そういえば、最初はただただぼんやりしていたな。ぽっかりと穴の空いた感覚が大きくて、そこに何かが入っていたとは自分でも到底思えなかったから。忘れているという自覚はある。だってあまりにも何も知らない。無知かと言えばそうでもない、それなのに何にも覚えてない。

「私がここにいることに理由はちゃんとあると思うんです」

でなければこんな辺鄙なところに閉じこもっているのはおかしいよね。会話もできて
、ご飯も食べて、運動して、ただただ部屋にいる。適当に借りた本を読んで、お風呂に入って眠る。それらは普通の生活かもしれないけれど、私にとっては普通じゃないはずだった。

「その理由を林道さんたちに訊ねることはきっと酷いことなんでしょうね」

現実はきっとやさしくないけれど、彼らはやさしい人たちだから。私が傷つかない答えを探してくれようとする。きっと"皆"そうだ。覚えてないけれど、忘れてしまっているけれど、やさしい人たちが私を待っている。
ゆりさんが来るときは、彼女の知り合いの手料理を持って来てくれる。私はそれが好きだけど、たぶん忘れちゃう前も好きだった。それを知ってるから持って来てくれてるんだよね。毎回ではないけれど、手作りのクッキーとかお菓子を持って来てくれる時がある。可愛い形と、小さな子供が作ったようなちょっと不格好なそれはゆりさんの親戚の子が作ってくれてるらしい。上手じゃん、なんて軽口が思い浮かぶくらいには犬だか猫だかわからないクッキーを楽しく眺めてしまえた。たぶん、私が知ってる子なんだろう。時にはミサンガを編んでくれた子がいるからと、綺麗なそれを数本もらった。何本もつけるものじゃないけれど、たくさん編んでしまったからとゆりさんからまとめて受け取った。可愛らしい色の組み合わせの私好みのデザインで、流石だなあ、なんて口から零れた。ああ、やっぱり私知ってるんだ。

「先生、私、忘れたままでいいんでしょうか」

林道さんもゆりさんも思い出せたわけじゃない。料理を作ってくれるあの人も、クッキーを焼いてくれる子たちも、ミサンガを編んでくれたどこかの子も皆覚えていない。私は忘れた方が都合の良いことがあるんだろう。だからすっかり忘れてこんなところにいる。皆は覚えていてくれているのに私だけ忘れている。

不意に、浜辺に見た知らない誰かの後ろ姿を思い出す。振り向きもせず何かをじっと見つめている背中。その背中はまるで、

「……寂しい」

寂しそうだった。海をまっすぐ見ている背中は寂しい。……私と一緒だ。忘れているのはこっちの癖して、皆が覚えていることに寂しさを感じてる。受け取るだけじゃ寂しくて、申し訳ない気持ちさえした。誰かと何かを共有したい。きっとすこし前の私は見知らぬ誰かでよかった。それでも今は、私が知っている誰かと私が忘れてしまった記憶を共有したい。こんなことがあったね、よかったねって話すの。それだけでいいの。一緒に頑張ろうって励まし合うの。頑張ってねって一方的な励ましじゃ足りないの。

「辛いことや悲しいことは誰かと分け合って、軽くしていくんだよ」

いつものおじいちゃん先生がにこにこと微笑んでいる。

分け合えたなら、あの背中の寂しさは少しでも和らいでくれるんだろうか。

晴れ間は滲んで薄曇り


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