春べを手折れば

見知らぬ誰かを待っている

「今日はいいもん持ってきたんだ」

月に何度か施設の外に出られる日がある。ひとりではだめ。必ず付き添いの誰かが側にいる。

「ほい。快気祝いだ」

面会に来てくれた林道さんから突然棒状のものを投げられて慌てて手で受け止める。……傘?白いレースがストラップでひとまとめにされているそれは、雨傘というよりは日傘だった。

「今日はそれ差して外を歩こう」

*

記憶が曖昧な私が知っている人は限られてる。療養所の人たちと、林道さんとゆりさん。2人は私の両親の知り合いで、2人の代わりに私の様子を見に来てくれる人たちだった。療養所の先生からそう説明を受けて、すこし引っかかりを覚えたけれども2人が悪い人たちではなさそうだったので何も言わずに受け入れることにした。

「林道さん、センスいいですね」
「そうか〜?ちなみにどの辺?」
「日傘って、白っぽいのは可愛くて綺麗だけど案外日を通すから。これみたく裏地が黒いのは機能的にいいと思う」
「成程ね」

自分で選んだのにまるで他人事みたいな返事だった。可もなく不可もない、私が話せる程度の雑談をしながら療養所の周りをゆっくり歩く。林道さんはちょっとだけ前を歩いてるから、それを追うようにして進んだ。

「……あ、」

療養所を囲むように生えた木々の隙間から見えるのは青い海。ふと立ち止まった私を林道さんが不思議そうに振り返った。

「……あっちに何かあるのか?」
「ううん。たぶん"今は"何もないけど……」
「……」

行ってみるか、と笑う林道さんに誘われて今まで出た事のない砂浜へと足を繰り出した。想像以上に砂に足を取られてびっくり。この前ゆりさんがくれたヒールの低いミュールに砂が入り込んでじゃりじゃりいってる。それでも足は止まらなかった。目指すのはあそこ。あの日、後ろ姿しか知らないあの人が立っていたあそこだ。耳慣れた波の音が心地よいのに、胸の奥がいつもと違うざわめき方をしてる。こんな細かい砂地じゃ、足跡なんて残らない。ましてやあれから何日経ったと思ってるの。白いTシャツのあの人がいたところに私も同じように立ってみた。……何もあるわけがなかった。ただひたすら風に揺らされた海水が波になって打ち付けるだけ。どこまで続いているのかわからない水平線が見えるだけ。

「……あの人、何を見てたんだろう」
「あの人?」
「あ、いや。私の頭の中の話なので聞いてもたぶんわかんないですよ」
「いいよ。おじさんそういう話けっこう興味あるんだよね」
「頭おかしい人の話が好きなんですか?」
「自分でおかしいとか言わないの。そういうんじゃなくて生命の神秘的な話だよ」
「はあ、神秘……」
「理屈じゃどうにも証明できない何かがあるって興味深いだろ?」
「うーん、どうなんだろう」
「昔は宇宙人の話とか好きだったのになあ」
「それ本当に?まったくピンと来ないです」

宇宙人なんて本当にいるわけない。けど、他の人は見えてなさそうな何かが見えて私が否定するのもおかしい話か。あぁ、それなら

「あの人が例えば宇宙人で、私の頭の中を侵略してるとかそういう展開なら頷ける……かな?」
「待って待っておじさん置いてかないで」
「……ときどき、目の前じゃない何かが見えるの知ってますよね」
「誰かが何かしてるのが見えるんだったっけ」
「そう。知らない人の映像を見てるみたいになる」
「じゃあここで誰かが何かをしてるのを見たわけだ」
「……ここに立ってずっと海を眺めてました」
「それだけ?」
「それだけです。顔も見えなかったし、ただ後ろ姿が見えるだけ」

それなのに、いつもと違った。知らない人なはずなのに知っている気がしたし、実在している人物なのか確証なんてないものを見ていたはずなのに、あの人は本当にこの世界のどこかにいる気がしている。

「……どんな人だった?」

どんな……ちょっと明るめの茶色い髪で、白いTシャツに、少ししか情報はないけれど、思いつく限りの特徴を指折り数えて伝えたら林道さんはおかしそうに笑い始めた。

「えっ、どこに面白い要素ありました?」
「いや、ねえ、ほんとにお前たちはさぁ……」
「たち?」
「もしそいつと会えるとしたらどうする?」

まるで実在する人物だと知っているように話すんだなあ。なんて思いながら、あの人に会ったらどうするか、その問いかけを頭の中で繰り返す。何かを一緒にしたいとか、そういうんじゃない気がする。顔を見てみたいとかそういうものでもなくって……あ、

「何を見ているのか知りたいです」

この海をただひたすらに眺めて、何を見ていたのかが知りたい。

見知らぬ誰かを待っている


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