春べを手折れば

まぼろしはどこにあるか

日差しが地面を照りつけている様子を窓から見下ろした。紫外線は目からも入るらしい。だったらずっと外を見下ろしている私の肌もちょっぴり日に焼けたりするんだろうか。

「そんなわけないよね」

病的に白いとは言えないけど日に焼けていく様子はない。そりゃ、日々のほとんどをこの部屋で過ごしているのだからそうもなるか。ベッドに腰掛けてうんと背伸びをした。ぱきぱき音が鳴ってちょっぴり怖い。そんな悪い姿勢してたのかな。私の肌は特別白くないけれど、この部屋は真っ白だった。廊下はそうでもなくて、共有スペースもそうでもない。私が身を置いているこの療養所の、この部屋だけが特別白い部屋だった。

私は気付いたらこの部屋にいた。日付を認識したのは2月頃。たしか、同じくこの療養所に入所しているおばちゃんがバレンタインだよってチョコをくれたから、あぁ、そっか今2月なんだって思った気がする。その前のことはなんだかぼんやりしてて覚えてない。

「幼稚園……なのかな、そういう何かには行ってた気がします。でも、楽しくなかった。お家の方が良かった。……え?お家はどこだったか?えぇと……住所が、思い出せないんですけど。幼稚園と、小学校の帰り道におおきな橋を渡った気がするので川の近くに……あれ?なんか、桜並木もあって、いやでも桜並木の近くには川がなかった気も」

幼い頃のことを教えて、そう言われて答えたけれど、ちゃんとした答えにはならなかった。いつもやさしいおじいちゃん先生がゆっくり首を振る。傍にいる看護師さんが電子カルテに何やら打ち込んでるみたい。どうせいつもと変わらないとかそういう内容だと思う。だって、週に1度のやりとりはいつもたいして変わらないから。

私の部屋の窓ははめ殺し。他の人の部屋はそうじゃないみたい。廊下や共有スペースの窓も普通の窓で開く幅の制限も特にない。どうして私の部屋だけ作りが違うのかはわからないけど、部屋から出ちゃいけないとも言われてないから絶対そうでなくてはならない理由ではないと思ってる。そうだったら都合がいいとか、その程度の理由。どう都合がいいのかはわからないけど。今日はいつもよりしっかりめに運動をする曜日だから、共有スペースに置かれたテレビの横の自販機でスポーツドリンクを買った。開け放たれた窓から入り込む風が気持ちいい。カーテンが大きく揺らいでいる。

『―…市では過去の大規模侵攻と今年の1月に起きた大規模侵攻の被害の比較を界境―……』

誰かがつけっ放しにしていたテレビから聞こえたニュースキャスターの声が不意に途切れた。大きく揺らいでいたカーテンがふわりと落ち着いたところに、見知った人がテレビのリモコンを持って立っていた。

「ゆりさん!」
「こんにちは紗希乃ちゃん」
「あれ?次の面会日は来週だった気がするんですけど……?」
「近くで仕事があったから来てみたの」

たまたま寄っただけみたいに言うけれど、いつも持って来てくれる荷物を今日も持って来てくれてるってことは気を遣わせないようにしてくれてるのかもしれない。

「あっそれ、美味しいやつ」
「うん。先月、紗希乃ちゃんが喜んでたよって私の知り合いに話をしたらね、また作ってくれたの」
「うれしい!」

お肉と野菜のシンプルな野菜炒めだけど、とっても美味しくて先月ゆりさんに貰って食べた時にめちゃくちゃ喜んではしゃいでしまったんだっけ。ちょっと恥ずかしいけど、とっても嬉しい。夕食にでもしてね、と共有冷蔵庫の中にしまってくれるゆりさんを眺めていたら、何だか目の前がチカチカした。……海?なんだか急に、海が見えた。瞬きをしてもしなくても見えるそれに眩暈がした。

「……紗希乃ちゃん?」
「……」

海が見える。すぐ近くにある海の、砂浜。それからそこに立っている―……

「紗希乃ちゃん!」
「……ゆりさん、」
「お部屋に戻ろっか」

逃げたりしないのに子供みたく手を繋がれて部屋に戻る。力強くもなくて細い指に不思議な気分になった。誰かと手を繋いだことはたぶんある。朧気だけど、幼稚園にも行っていたし小学校も中学校も高校も行ってた気がするし。ただ、どこの学校でどんな人と仲が良くてっていうのは思い出せない。それでもきっと私はこんな風に誰かに手を引かれて歩いたことがある。

「落ち着いた?」
「……うん」

私はベッドに腰掛けて、ゆりさんは傍のパイプ椅子に座っている。ときどき、こんな風になってしまう。まるで幽体離脱でもしてどこかをふわふわ眺めに行っているような感覚に襲われて、知らない誰かの様子を眺めてる。実在するかわからないその人の様子を私はただただ見ているだけ。きっと私の頭がおかしいから、そういったものを見てしまうんだ。だから、こんな療養所でポツンと暇を持て余してる。

「……先生は勘が鋭いだけって言ってたけど」
「うん」
「たぶん、そういうのじゃないんだよね」
「……うん」

汗をかききったペットボトルを持ったままだったから、ベッドサイドのテーブルに置いた。濡れた手を拭こうとティッシュに伸ばした手がゆりさんに捕まって、花柄のハンカチにやさしく包まれていく。

「紗希乃ちゃんのそれは悪いものじゃないんだからね」

やさしい声と温かい手。それから瞼に焼き付くようなさっきの映像。青い海を眺めていた知らない人の後ろ姿。あの柔らかな優しい茶色い髪を持つあの姿は私が知っている人なのか、私が作り出した幻なのか。悪いものじゃないのなら一体何なのだろう。何にもわからない日々を、何も変わらない日々を、一変させてくれるような力が欲しい。そんな非現実的なことをこの白い部屋で願わずにはいられなかった。

まぼろしはどこにあるか


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