春べを手折れば

有象無象に飲み込まれるな

2週間寝たきりに近い状態だったわけで、たったそれだけの期間で筋肉はストンと落ちていた。いやね、元からムキムキというわけでもなかったけどね?あまりにもこれはひどくないかな?酸素が外せるようになってからは、箱の中でストレッチを始めとして運動をしてはいたものの、前の感覚とはまた違ってなかなかに捗らない。あんなに寝ている必要があったのかと問い詰めたいが、無ければ無駄に閉じ込めたりするわけなかった。

「つ、つかれた……」

私、バランスボールと仲良くなれない。派手なピンクの球体にだらしなく身体を預けて身体を伸ばす。せいぜいこのくらいがちょうどいい距離感だった。これ以上こいつを活用するとなると私はこのボールを恨まずにいられないだろうね!

「あけおめ〜」
「ことよろ〜」
「はい、お腹しまう」
「ぎゃっ」

ふらりと現れた悠一に思いっきりTシャツの裾を引っ張られて、そのまま床へと転がった。お腹どころの騒ぎじゃなくって背中がべろん、と出たものだからあわてて裾を直す。

「もう裾全部しまっちゃいなよ」
「何それダサい無理」

高校時代にすべてのTシャツをパンツインしていた生駒がよぎって、全力で否定してしまった。あれはダサい。なにがダサいって全てがダサい。身体を起こして、今度は座るようにバランスボールの上に乗る。足を着いたところから両足を離してみればそりゃもう盛大に転げ落ちた。

「ねえ!こんなにバランス感覚って崩れるもん?!」
「お願いだから服直して」

べろりと捲れたシャツは惜しげもなくお腹を晒していて、頭を抱えている悠一はまたしてもシャツの裾を全力で下ろしてきた。なにこの人、こんなにお母さん気質だったっけ。昔は一緒にお風呂も入ったしプールも行ったよ……わたしのお腹なんか見慣れてるじゃん……。そんな反応されると恥ずかしくなっちゃうじゃんか……!床に転がって、Tシャツの裾に手をかけられたまま数秒停止していた時だった。ピクリ、と悠一の指が跳ねた。

「うわ、」

悠一がマジックミラーの方に勢いよく視線を向けて、私の裾から手を離した。内側からじゃ何も見えない。ていうかこの仕組み本気で必要ないと思う。

「えっ、なに?誰かそこに、」

バーン!と勢いよく扉を開いて現れたのは太刀川さんだった。それを追いかけるように怒った顔で入ってきたのは風間さんにレイジさん。

「新年早々楽しそうじゃねーかお前ら!」
「すまん、迅、吉川。太刀川にバレた」
「俺は元から迅に呼ばれてここに来る予定だった」

つーん、とそっぽを向く悠一を延々と突いている太刀川さんは何やら耳打ちしては殴り掛かられている。どうせ余計なことを言ってるに違いない。

「あけましておめでとう。太刀川さんは置いといて、二人に新年早々会えてうれしい〜!」
「この場所を知ってしまったからには報告せずにはいられなくてな、迅に報告したら顔を出してやってくれと言われたんだ」
「風間さんは真面目だなぁ。レイジさんも悠一に?」
「そろそろ居場所を吐けとせっついて吐かせたところだ。小南たちには心配するからまだ伝えてない」
「ありがとう。心配かけてごめんね。体力はまだまだだけど、大分よくなってきたんだよ〜」
「すこし痩せたんじゃないか?」
「おそらく筋肉が落ちた分かと思われる……」
「レイジに飯でも作ってもらうと良い」
「それ最高だね。今度ご飯作って来てよレイジさん!」
「玉狛に顔を出せばいい話だろう?」
「あ、うん。……そうだね、確かにそうだ」

いつ行けるかなあ。体調がよくなってもすぐには行けないね。分岐点からどれくらい進めば、私は玉狛に行けるんだろう。というか、この先行けるのかな。

「よう、吉川。思ったより元気そうでよかった」
「ありがと太刀川さん。なんかそのヒゲいつもよりモジャってない?」
「聞いてよ紗希乃。太刀川さんさ、この前好きでもない煙草ふかして髭焦がしたらしいよ」
「ぷ。それで調整中なわけ?」
「お前ら人を馬鹿にしやがって〜〜!」

ぎゃはは、と品も何もなく笑っている今この時が一番腹筋を使っているような気がする。お腹痛い。頬っぺたも最近使うことが少なかったからなのかピリピリ痛いけど、辛くもなんともなくって、すごく楽しかった。全員分の椅子は無いから、地べたに座って、ボスの差し入れで溜まりに溜まった良いお値段の果物ジュースを配った。

「みんな初詣行ってきたんでしょ。おみくじひいた?」
「じゃじゃーん。中吉〜」
「太刀川さん微妙すぎ〜。他の皆は?」
「俺はひいてないよ」
「俺は吉だった。木崎は大吉だったな」
「大吉の割には中身の文章があまりよくなかったけどな」
「ふーん」
「お前も引きに行くか?」
「その内ね〜」

遠征から帰ってきてから一歩も外に出てない。悠一以外はそれを知らないと思う。だって、こんなにへらへら笑って、ぺちゃくちゃ喋ってたらわからないよ。そう見せようと必死になっている部分もないわけじゃなかった。

「これからボーダー関係者に新年の挨拶周りに行くんだが、お前らもどうだ?」
「えっ」
「太刀川、無理に誘うのは良くないぞ」
「見た感じ体調良さげじゃん。無理なら無理すんなよー俺の勝手な見立てだから」
「……いま、ジャージだし」
「同じフロアに吉川の部屋あるじゃん」
「無理はする必要ないが、トリオン体になればいくらかマシになるだろうが…」
「紗希乃のトリガーは今、鬼怒田さんが持ってるよ」
「そっち貰ってくる方が早いか?」
「吉川、どうする?」
「……ちょっとだけ、出てみようかな」

どのみち年が明けたら少しずつ出る予定だったし。悠一が心配そうな顔をしてることに気づいたのか、レイジさんが悠一の肩を軽く叩いていた。

「少しでもきつそうだったら、すぐに引き返そう」

まずは外を歩けるだけの服装にならなくては。この部屋にはちょっとした着替えしかないし、外出を目的としていないからどう頑張っても部屋着程度だった。念のため、私のトリガーを鬼怒田さんから受け取りに行くという太刀川さんたちを追いかけるように、意を決して廊下に出た。確かに視えるけど、思ったより視えない。ああ、なんだ。箱の中に居たから臆病になっていただけなのかもしれない。案外平気かも。そんなこと思って、みんなの後ろをついていく。廊下ってそんなに高トリオンじゃなさそうだし、この調子ならいけそう。足取りは軽く、後ろからついてくる悠一も安心したようだった。

廊下は途中で二股に分かれていて、開発室のある方へ曲がっていく。普通についてくる私に安心しているのは悠一だけじゃなかったらしく、時折振り向く三人にニコリと笑って見せればそれぞれ前を向いて歩きだした。廊下は意外と長い。そして、進むにつれて、だんだんと視える量が増えてきた。それでも、まだ大丈夫。平気。捌ける。まるで念じているようなそれに自分で自分がおかしく見えた。どれだけ怯えてるんだろうか。開発室の扉を前にする。情報量が増えてきた。視ない。視る。視ない。流れてくる情報を受け流す。

「大丈夫か?」
「ああ、うん。平気。慣れてる」

ピッ、とトリガー認証で先陣を切って進む太刀川さんの後に続いて、開発室内に足を踏み入れた。

「っ……?!」

久しぶりの感覚だった。ガツン、と衝撃が脳を揺さぶる。警戒区域でトリオン兵と戦う隊員や、人ごみの中に紛れているボーダー関係者。本部の中で新年早々ランク戦をしてる奴ら。いろんな映像が一気に混ざり合って流れてくる。おいおいいくらなんでもかっ飛ばしすぎやしないか私のサイドエフェクト。選ばせてよ、少しくらい!

「紗希乃」

呼ばれてるのに、どこから呼ばれてるのかわからない。襲い掛かってくる映像を捌くのに必死になりすぎなことはわかってる。でも、捌けさえすればこれまで一緒にやってこれた。選んで、捌いて、視なかったことにして。そうしないと"外"にはいられない。近界にもいられない。どこにもいられない。

「目瞑って、唇噛まないで、深呼吸しよう」

目元に温かい手が添えられた。ゆっくり閉じた瞼越しにも色んなものが視えるけど、さっきよりも落ち着いて視えている。離れた手のひらが名残惜しくて、閉じられた瞼が自然に開く。待って、行かないで。置いてかないで。離れてくのは誰?お父さん、お母さん、最上さん、それとも―……

「紗希乃、やっぱりもう帰ろう」

帰るって、

「どこに……?」

有象無象に飲み込まれるな


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