春べを手折れば

あなたの顔ならよく視える

新生児はほとんど目が見えていないという。視力は身体の成長に合わせて上がっていき、だんだんとハッキリものが見えるようになる。……らしい。聞きかじった豆知識がいまいち信用しきれてないのは手の内に収まっている写真のせいだった。皺くちゃになって、うっすらと落としきれない汚れの残る写真。その写真の中央には両親の腕の中でバッチリとカメラ目線を決めている乳幼児だった頃の自分がいた。

「絶対この時から視えてたんだろうな」

キャスター付きのイスに座ったままぐるぐると回ってみた。大きな意味はない。小さな意味はちょっぴりあったりするけども。イスの回転によって生身の目じゃ部屋の景色が視認できないくらい歪んでいく。顔に近づけた、その古ぼけた写真だけが私の視線を縫い留める。目の前の情報だけしか入ってこないこの瞬間がほんの少しだけ心を休めてくれた。ゆっくりと回転が緩んでいくのに身を任せてぼーっとしてみる。カラカラ……と間抜けな音と共に耳に入ってきたのは叫び声にも似た雄たけびだった。敵襲でもなければ、非常事態でもない。きっとあの叫び声はわたしの名前を呼んでいる。ボス、今日は皆を外に出しといてくれるって言ってたのになあ。やれやれ、と立ち上がってベッドの上に置いたボストンバッグを持ち上げた。写真はバッグのポケットに突っ込んで、ドアまで進む。ドアノブに触れようと手を伸ばしたその時、ガツンとした衝撃が目を通して脳を揺さぶった。見せてほしいと頼んだ覚えもない映像が瞼を閉じても流れ込んでくる。近所を歩く学生や、隣の地区の公園で遊ぶ子供。知らない人。知らない子。もしかしたら今後知り合うかも知れない子。瞼をきつく閉じて息を深く吸う。落ち着け、わたし。息を吸って吐くこと。生きている上で当然の行為に意識を集中すれば、流れてくる映像はだんだんと靄がかかって薄くなっていった。丸いドアノブが、ひとりでにガチャリと回転する。

「落ち着いた?」
「……なんだか視えてたみたいなタイミング」
「小南と陽太郎があれだけ叫んでんのにうんともすんともないからね」

来てみたら案の定深呼吸してるの聞こえたから、と何でもないかのように言うのは昔馴染み。幼いころに出会った仲間で、家族のような人。

「"視えなくなっても、知ってることがゼロになるわけじゃない"」
「あー……ウン」
「前に、お前が言ったことだよ」
「確かに言ったわ」
「言った本人が忘れてどうすんの」
「滅相もございません」

荷物持つから貸して、と簡単にバッグは掻っ攫われていく。ちらりと部屋の中を覗く視線にジロリと睨めばわざとらしく笑って誤魔化された。

「家具とか置いてっていいんでしょ」
「うん、いいよ」
「掃除は時々来るし、できないようならその内業者でも入れて処分するよ」
「それはいらないかな。小南が出入りしてる未来が視えるし」
「……あっそ」
「……」
「……」

住み慣れた玉狛支部の決して長くはない廊下をふたり無言で歩くことなんて初めてじゃないだろうか。互いに無言のまま階段に差し掛かる。わたしだけ数段降りたところで、奴が足を止めていたことに気づいた。振り向いて見上げると、いつもの飄々とした顔はどこかに忘れたのか、落ち込んだように薄暗い影を落とす様を隠そうともしてないこの男。閉ざされていた口がうすく開いた。

「……なあ、紗希乃。ご、」
「ゆるさないよ」
「……」
「謝ったら、絶対ゆるしてやんない。前に言ったじゃん。そっちこそ忘れた?わたしは自分でこの道を選んだの。悠一の邪魔はしないって言った」
「忘れてないよ。ただ、寂しくなっただけだ」
「……寂しいのは当然でしょ。わたしも寂しいし、下で今も騒いでる皆もきっと寂しがってくれてるんだし」

当然だから、しょうがない。ここで別れを惜しんでいてもいい未来には繋がらないだろう。見上げるのをやめてゆっくりと階段を下りていけば、後ろから悠一もついてくる気配がした。

「寂しい時ちゃんと連絡してくれよ」
「うん、寂しい」
「今言われても困る」
「知ってる」
「会いに行くから」
「城戸さんに会うついでに?」
「逆だよ。紗希乃に会うついでに城戸さんのとこに行く」
「はいウソ〜。でも、まあ期待しないで待ってるね」
「それこそウソ〜。どうせお前は期待してるよ」
「「おれのサイドエフェクトがそう言ってる」」

見事にハモって、さっきまでのうじうじお通夜モードは一掃された。なんだか馬鹿みたいに笑えてきて階段を下りながら二人して大笑いした。うん。これでいい。

「おれのサイドエフェクトが本当にそう言ってくれる日がまた来るといいんだけどなあ」
「……そーだねえ」

そんな日は絶対に来なくていい。簡単に口に出して言えないのは悠一の背負うものがあまりに大きくて、簡単に手放せるものではないことを理解しているからだった。

「いってらっしゃい、紗希乃」
「いってきます、悠一」

*

「なんで大事なこと勝手に決めちゃうの!」
「そうだぞ!こなみと紗希乃ちゃんはふたりでひとつ!はなれてしまってはいみがない!」
「いいこと言うわね陽太郎のくせに!」
「えぇ?実戦の時はわりと別行動じゃない?」

それとこれとは話は別だと締め上げる勢いで抱き着いてくる桐絵と陽太郎。いたい、普通に痛い。特に陽太郎、そこは脛だ。脛にめちゃくちゃダメージきてるから…!ギチギチに締め上げられつつあるわたしと桐絵を引き離してくれたやさしい筋肉ことレイジさん。レイジさんの立派な筋肉に隠れるようにして興奮している桐絵から距離を置く。

「今生の別れでもないし、本部に異動するのはあくまで一時的なものだ。籍は玉狛のままなんだから騒ぐほどでもないだろう」
「何もせっかくとりまるも栞も加わってこれからだって時に行かなくても!」
「むしろバランス整う前の今がちょうどいい気もするけどね」
「っ〜〜それだけじゃなーいっ!あたしたち何年一緒にいたと思ってるのよ!相談もないなんて水臭いのよ!」
「ごめん」
「……なんで迅が謝るの」
「この選択肢出したのおれだから」
「そして選択したのはわたし」

ゆるさないって言ったでしょ、と悠一の脇腹めがけてチョップを繰り出すも、いとも簡単にかわされた。小さくて可愛らしい頬が子供みたいに膨らせて、桐絵はそっぽを向いている。

「迅の暗躍に踊らされてるってわけ?そんなの……そんなの、あたしじゃどうしようもないじゃない……」
「ご飯食べに来るよ」
「"来る"んじゃなくて、"帰って来る"のよ!」
「はは、確かにそうだ。ちゃんと帰って来るよ」

「だから、玉狛をお願いね桐絵」

*

後部座席にボストンバッグを投げ入れて、助手席に乗り込んだ。荷物は少ししかないけれど、レイジさんが送ってくれるならお願いしない手はない。

「本当に迅を乗せなくてよかったのか?」
「うん。お別れはちゃんと済ませたよ〜」
「連れてけば名残惜しくもなるか」
「かもね。奴は今めちゃくちゃ落ち込んだ顔でぼんち揚げの賞味期限をひと袋ずつ調べてる」
「よりにもよってお前が迅のぼんち揚げに悪戯するからだろうが」
「だってアイツ、本当は皆と同じように視えてるんじゃないの、って思っちゃうような素振りばっかりなんだもん」

人の未来が視える悠一をぎゃふんと言わせるためには彼の能力を抑える必要がある。そこで活躍するのがこのわたし。

「わたしの未来だけ視えなくなっちゃうなんてさ、仲間外れもいいとこだわ」

あなたの顔ならよく視える


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