30万打リクエスト小説

後れ咲きにはほど遠い



トイレの鏡の前に立つ。目の下に鎮座した連日の激務の証を塗り潰していると、廊下の方から「おーい、吉川いるんだろー」と局長の間の抜けた声が狭いトイレに響いて来た。ここの男どもはこのフロアの女子トイレを使うのがわたしだけなのを良いことに度々こうやって話しかけてくる。上司と言えども全くデリカシーないんだから!

「なんですかぁー」
「降谷が来てるぞー」
「……えっ」
「だから、降谷が」
「なぜ!」

急いでメイクポーチを漁り、目的のものを探すが見つからない。簡単なメイク直し用の道具しかトイレに持って来てなかった。少し隠れればいいか程度だったのに、奴がくるとなれば話は別だ。ちゃんとがっつり隠さなければうるさく問い詰められるのなんて想像に難くなかった。あああもうなんでこのタイミングなの。局長は気をきかせて早めに教えてくれたみたいだけれど、道具がなくてはやれることなんてたかが知れてた。諦めよ、今さら取り繕ったってどうしようもない。そろり、とトイレから顔をだす。誰もいないらしい。まあ、さすがにここまで追っかけて来たりしないよね。喫煙所寄ってから戻ろう。

うまいこと遭遇しないものだから完全に気が緩んでいた。あとひとつ角を曲がれば喫煙所に辿り着く。ジャケットのポケットに入ってる煙草の箱に手を伸ばしたところで、視界に入って来たのはまさしくあの色素の薄い髪のアイツだった。

「うわ、」
「酷いですねぇ。わざわざこうしてやって来たっていうのに」
「頼んでないわ」
「まあ、それもそうだ」

どうぞ?と喫煙所のドアを開けてニッコリ笑うこの男はわたしの後輩。とある組織に潜っている潜入捜査官のひとりなんだけど、

「今日は登庁日じゃなかったよね」
「気になることがありまして。それと、どうしても今日来たかったんですよ」

窓際にあるパイプ椅子を差し出されるままに受け取った。彼は少し離れたところにあったもう一脚を手に取って、わざとらしいくらい満面の笑みでわたしの隣りに腰かける。古ぼけた椅子がギシギシと音を鳴らした。……近い。自分の椅子と一緒にちょっとだけ横にずれると、降谷はきょとんとしてから同じくらい詰めてきた。

「しつっこい!」
「いいじゃないですか少しくらい、ね?」

ね?じゃないんだよコイツめ。どうぞ吸ってください、と言われ煙草に火をつける。ゆっくり煙を吐き出すまで隣りからの視線がうざったいくらい纏わりついていた。じいっとこちらを見つめてくる青い目は、観察されているようで居心地が悪い。本当こいつを潜入向きだと判断した数年前の自分を褒めたたえたい限りだわ。

「吉川さん、最後に帰宅したのいつですか」
「昨日」
「へえ。帰る前にゴミ箱の中を片づける吉川さんが半日であそこまでゴミを溜めるだなんて珍しいこともあったものですね」
「……」

いつどこで何を見ているのかわかったもんじゃない。裏の顔で探偵をやっているのはもちろん知っている。でもこれじゃ何が本業かわかったもんじゃない。

「その頭、もっと有意義なことに使いなさいよ」
「そう思うなら部下に心配かけさせるような言動は控えて頂きたいものだ……。ねえ吉川さん、本当はどれくらい帰ってないんです?」
「ひみつ」
「ホォー、どこまでも隠そうって魂胆ですか。でもね、」

隠しきれていませんよ、と降谷の人差し指がわたしの左目の下をやんわりとなぞっていく。いつも思うけど、コイツはわたしが年上だということを忘れてるでしょ。ムッときたものだから下瞼に触れたままの降谷の手を掴んで、ちょっとだけ下に引いてみた。それから舌を思いっきり出してやる。

「あなたに毎回説教されるほど自分の体調管理に困ってないわよっ」

まるで子供だ。あっかんべえ、と突然ガキ臭いことをしはじめた上司に驚いたのか降谷の青い目はパチパチと何度も繰り返し瞬いている。そしてそれから顔を覆ってわざとらしく、ハアアと溜息をついた。椅子の背もたれに首を預けて、ブツブツと呟く降谷の方が疲れていそうだと思った。

「そっちこそ無理してない?あの喫茶店で働き始めてからそんなに経ってないでしょう?」
「はは…、本当にあなたはいつもいつも」
「定時連絡以外に登庁する前にちゃんと休んで。頭を休めることは大事よ」
「ですね。でも今日は来たくて寄ってみたんですよ」
「何か気になる情報でもあった?」
「いえ。明日連絡しようとは思ってましたけど、時間ができたので吉川さんに会いに行きたくってしょうがなくなっちゃって」
「……」
「あっ、信じてないですねその顔」
「明日連絡ってことはあれでしょう、わたしの誕生日」
「その通り。お祝いしたくて前祝いに来たって言ったら、信じてくれます?」
「……はあ。信じるも何も事実なんでしょ」
「そういう信じてくれるところ、好きですよ」
「軽々しく好きとか言わないのっ」

降谷はいっつもそうだ。わたしが信じてるとわかった上でわざと試すように「信じてくれます?」って確認する。信じてないって言っても信じてるって言っても満足そうに笑うから、この確認作業がどんな意味を持ってるのかはわからないけど。

「ケーキ持ってきたんです。ポアロ特製のショートケーキです。ポアロ特製というより俺のレシピなんですよ。吉川さんに食べて欲しくって安室透がよりをかけて作りました」
「へえ〜安室透がねえ」
「そうなんです。いつになっても吉川紗希乃さんは安室透に会いに来てくれないので」

喫煙所を後にして廊下を二人で並んで歩く。ニコニコと笑う降谷は、その笑顔のまま安室透として潜入してる。そこへ会いに行かないのはその必要がないからだと本人には言っているけれど、実際はそうじゃない。こんな風にわたしに尻尾をふる犬みたいな降谷が知らない顔をしているだけで、得体の知れないものに見えて怖かったりするだけの話。怖い、とかどれだけわたしは降谷に心許してるんだと内心焦る。男女の差でわたしよりも身体の大きな降谷を横目で見る。満足そうに笑うその姿に安堵していることは絶対に教えてやらない。会いに来たかったって言われて嬉しかったなんて絶対言ってなんかやらないんだから。

「ロウソクもいるかと思って年の数分持ってきたんですよ」
「年の数はケーキが燃えるからやめなさい」

end

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