憧憬/降谷零


あなたのみょうじ


「お前の旧姓の印鑑すべて焼き捨ててやろうか」
「ほんっと申し訳ありません。焼き捨ては後々面倒なので不可です!!」

風見さんが鬼の形相でクリアファイルに収められた書類をわたしの元に持って来た。中身を見てついやってしまったと溜息。自分のサイン欄に堂々と書いてある吉川紗希乃。これは実際何回目だというんだ自分。新しい住居申請の書類を出してもらわねば……と依頼のメールの作成に入る。

「実のところですね、結婚したつもりはあっても苗字が降谷になった自覚が湧かないといいますか」

同じ職場で降谷が二人になった。しかも片方は上司でもう一方は下っ端。下っ端を呼ぶのに上司に反応されても困るし、上を呼びたいのに下っ端が来ても困ってしまう。そんな現状で手っ取り早いのはわたしの呼び名を旧姓に戻すことだった。やっぱり呼び慣れてる方がいいよね。

「結婚したことを報告する相手も限られてますし。言える相手って身内くらいなもので、身内だったらわたしのこと苗字で呼ばないでしょう?家と職場の往復する生活で降谷を名乗る機会が壊滅的に少ないんですよね」

組織の件は今も少しずつ尾を引いていて、当時行っていた違法捜査のあれこれの辻褄合わせを現在に至っても行っている。その時に使うのは当時の苗字である吉川の印鑑だった。となると簡単に処分もできないわけで。未だに旧姓から抜けられずにいるけれど、こちとら生まれて来てからずっとこの苗字で生きてきたのだから抜けきれなくてもしょうがない。

「はっ、むしろ降谷が偽名だと思えばスムーズに……?!」
「ホォー……?なにが、誰の、偽名だって?」

吉川、うしろうしろ。と雑に指をさす何徹目かわからない同僚と、あからさまに目をそらす風見さんに、味方はもういなかった。ねえなんで!しばらく外出るって言ってたのに!

「お、おかえりなさい……?」

ただいま、と浮かべる安室透ばりの笑顔は久しぶりに見たかもしれない。お久しぶりです安室透……なんて言ってる場合じゃなかった。零さんが持つ紙袋をわたしの目の前に差し出す。受け取ろうとすると、ひょいっと手をすり抜けていく紙袋。それからまた差し出されて、もう一度取ろうとすると紙袋が戻っていく。明らかに遊ばれてる……!

「か、ざ、み、さんんんん!!!」
「何でこっちに来る!」

しっしっと追い払われてもわたしはめげない。椅子に腰かけたままくるりと回って、零さんに背を向けたまま風見さんの方を向く。

「風見、やる」
「いやいや貴方もなぜこっちに来るんです?!」

わたしの隣りで零さんが真顔で風見さんに紙袋を押し付けている。決して羨ましくなんかない。隣町のショコラトリーの紙袋だと気付いてるって、季節の新作が昨日から発売してるんですよって話をしたのを忘れてなんかないって言ってやらない。……いや、待って?もしかしなくとも今回は確実にわたしが悪いよね。だって、仮にも……いや仮じゃないけど。好きな人と一緒になれてさ、ちゃんと嬉しい気持ちがあるのに酷い事言ってる。結婚できるのが当たり前じゃないのに。この人の苗字を名乗れることは簡単なことじゃないのに、わたし何だかないがしろにしてない?ちゃんと謝らなくては!気持ちが急いて、勢いだけで降谷さんを見る。ちゃんと謝ろうと思ったのに、うまく言葉にできなくて、ぱくぱくと間抜けな金魚みたいに口を動かして、ただ謝る事しかできなかった。

「……ごめん、なさい……!」

苦し紛れに謝罪して、自分のデスクに突っ伏して項垂れる。あー、ちがうの。もっとちゃんと謝りたい。口先だけで謝ってるわけじゃないのを伝えたい、けど、今は罪悪感でいっぱいで上手いこと伝えきれない。まず、そもそもの発端をどーにかせねば。対策……対策立てなきゃ改善はされない……意識改善を心がけるだけではダメだ。現にこうして徹夜明けにサインした書類にやらかしている。気が緩んでいる時にでもちゃんと忘れずにできるようにするためには……

「フルネームをデスクに飾る……?」
「プッ」
「なんで笑うの!」

これだ!と閃いたわたしの案はなぜか周囲に大笑いされた。零さんだけに留まらず他の同僚たちも皆お腹を抱えて笑っている。真面目に考えた結果なのに!

「っハハ。まさかそうくるとはな……。別にそこまで怒ってないよ。少しは気になったけど」
「すこし……!」
「そりゃそうだろ?まあ、でもお前が何を思って謝ろうとしたのか想像はつくから。いいさ、別に。この先ゆっくり馴染んでいけばいい。急いだって急がなくったって、ずっと付き合っていく苗字になるんだからさ」
「ふるやさん……!」
「それだ!!」
「えっ、なんです風見さん?」
「吉川、お前はプライベートじゃ降谷さんのことちゃんと名前で呼んでるだろう?」
「ええまあ。互いに降谷ですし」
「だが仕事になると降谷さん呼びになる」
「……だって仕事ですから」
「降谷さんはどうしてます?」
「時によりけりだが……まあここでは名前で呼んでるな」
「ちなみに理由は」
「畏まった場以外なら旧姓で呼ぶ必要もないし、ともすれば降谷呼びはおかしいし、順当に名前呼びに落ち着いただけだな」
「だ、そうだが?」
「いやあ、だって……」
「だって?」
「今まで職場じゃ降谷さん呼びだったのに、零さん呼びに変えたらなんかイチャついてるように思われません……?!」
「……」
「……」

一瞬の間。みんながポカーンと間抜け面を披露して突然静寂が訪れた。いや、だって恥ずかしいでしょ??

「っお前なあ〜〜〜」
「うわ、まっ、やめて頭ぐしゃぐしゃしないで〜!」

季節限定のチョコレートをわたしのデスクに投げ捨てるように置いた零さんに頭をわしゃわしゃと撫でまくられる。後で覚えてろ、というセリフに背筋が冷えた。いやいや、後っていつ!後ってどこ!それから、手伝って損したとばかりに生ぬるい視線を送る風見さんは紙袋からごそごそとチョコレートを半分奪っていった。それ!わたしのチョコレート!

「イチャつくとか今さらだから気にして変なやりとりされる方が面倒くさいだろうが」




あなたのみょうじ

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