憧憬/降谷零


宮野志保の思うところ


カラン、と軽い音を立てるグラスの中に注がれたアイスコーヒーは以前よりも苦みを感じない。身体の違いは見た目以外にもやはりあったのだと最近になって思う。嗜好は変わらぬまま縮んで暮らしていたけれども、幼い姿で飲んだアイスコーヒーと元に戻ってから飲むアイスコーヒーはまた別の味がした。

待ち人はいつも遅れてやってくる。それを見越して私も遅めに来ても、彼女より遅れて店に入ったことはない。何度目かの待ち合わせに慣れた私は、長居しても良さそうなカフェでひとりタブレットを操作して論文を読み漁っている。最近のポアロは顔の良いアルバイトが辞めてから落ち着いた。今ならばあそこに入り浸れると思うけれど、あえてそれはしない。あそこよりもひっそりとしたここで私は今日も待っている。

「ほんとにいつもお待たせしてます……」

掌を顔の前で合わせながら走って来たこの人は、いつもいつも申し訳ないと言いながらやって来る。今日は前回よりも比較的早い時間にやってきた。

「今日はスーツじゃないのね」
「仕事ではないんだ、仕事では……」

遠い目をしてるこの人は、組織の壊滅後しばらくたってから私を食事に誘い出した。あの頃はまだ、小さい灰原哀のままだった。

『カウンセリングでーす』
『一体何のよ』
『わたしの』
『……なに、あの男何かやらかしたわけ』

本来は哀ちゃんのカウンセリングが目的だった。と後から彼女の口から耳にした時には何を馬鹿なことをと思った。だって、ほとんど紗希乃さんと降谷零の話ばかりだったもの。私が突っついて、もだもだしてる彼女の話を聞くのが常だった。……まあ、興味が全くないわけでもないし、他に考えることができたおかげかカウンセリングに近いことは成功してたかもしれないけど。

「今日は指輪もちゃんとしてる、ってことは本当に休みだったみたいね」
「そうなのー。外で指輪するの久しぶりだから無くさないかドキドキするよ」
「いつもはどこに置いてるの」
「玄関。家を出る時にケースに仕舞って、家に入ったらつけてる」
「……それ意味ある?」
「完全に気持ちの問題だねえ」

泥棒にでも入られたらどうするんだ、と思ったけど、国家に仕える職に就くこの人たち夫婦はかなりセキュリティの高い所に住んでることだろう。

「それで、最近はどうなの?」
「平凡に暮らしてるよ〜」
「私たちとアナタたちの平凡には大分開きがあると思うのだけど」
「まあね、これまでの生活の中ではわりと落ち着いて暮らせてる方かな、と思う!」
「そう……彼は元気?」
「元気だけど、やっぱり現場に行きたいらしくてね。大人しく引っ込んでるのができないみたい」
「引き留めておくのが大変そうね」
「そうなのー。誰かに手伝ってほしいけど中々そうもいかなくてねえ」

みんな偉くなっていっちゃうから、傍で引き止めてくれる人がいなくって。苦笑しながら紗希乃さんはそう話す。偉くなっていっちゃうだなんて、アナタもその一人なわけでしょうに。キャリア組の昇級スピードはノンキャリアとは比べものにならない。実際に今どこの階級かどうかなんて詳しく触れずにきたから今更聞こうとも思わないけれど。

「志保ちゃんは最近どう?この間話してた学会に寄稿した論文、わたしも読んだよ。誘われてるんでしょ?結構大きな話だと思うけど、受けるの?」
「……工藤君が話したのね」
「あれ?新一君から聞いてない?この前偶然会ってご飯に行ったんだよ」
「捜査の協力でもしたの?」
「ううん。彼には何にも頼んでないよ」
「協力するって言って元の身体に戻ったんだもの、手伝わせてもいいと思うのだけど」
「ふふ、そうだね」

そんなこと約束してたねぇと笑っている。きっと公安警察から見たらそんな約束はどうでも良かったのだろうけど、律儀に守ろうとしてる彼もいることだし、約束は潰えていない。私は彼らと何の約束もせずにそのまま元の身体へと戻ってしまった。お礼をさせて欲しいと、彼女に願い出たのは戻った直後。私の行動にきょとんと呆けていたこの人は『その時が来たら、お願いね』とだけ言った。その時とはいつくるのだろうか。……一生来ない気がしてならない。

「……学会の話。あくまで博士の助手としてなら受けようと思ってるの」
「あれま。向こうは志保ちゃんメインで動こうとしてない?」
「そうなの。でもそんなの知った事じゃないわ。全くってわけじゃないけどそこまで興味のある事でもないし、たまたまやりたいことの一部に掠ってるだけだから適任は博士の方よ」
「おじさんよりも若い女の子の頭脳が借りたいのよ皆」
「アナタもまだ若いでしょう」
「まーねえ。まだギリギリ20代だしー」
「女だからってチヤホヤされるのは面倒だわ」
「そうは思うけどさ。男ばかりのなかに居ると、どうしても違いはあるよ。むしろ無くちゃおかしいよ。だって、違うんだもん」
「そういえば女扱いされたくないってタイプじゃなかったわね、アナタ」
「うん。だって、女なのは変わんないもの。無駄に上げて欲しいわけではないけどさ。むしろ女じゃなかったら平均的で目にも止まらなかったかもね」

彼女は工藤君を有能な子と言う。それはきっと江戸川コナンだった頃から見た通算の印象だと思う。子供にしては推理力や行動があることへの驚きと評価。工藤君自身と初めから会ったとして、使える人物だと認識はしても協力をわざわざ依頼するほど入れ込んだりはしなかっただろう。そう思うと、もし紗希乃さんが男だったなら、それなりの評価は貰えても驚きには繋がらなくって、印象が薄かったのかもしれない。女だからこそ目についた可能性は少なからずあることを本人が何より感じていた。

「女なのは変わらない。けど、女じゃなかったとしても認めてくれたんだろうなって人たちが周りにいるから、勝手にそうだったらいいなって思うことにしてるの」
「降谷零はそういう人?」
「かな。使える物は使うスタンスだし。むしろわたしが男だったらもっとホイホイ使ってくれてると思う」
「でも、男だったら今みたいな関係にならなかったかもね」
「そうかもー。まあ、かもしれないっていう、全てが曖昧で起こり得ない事だから、実際の所はわかんないけどねぇ」

紗希乃さんはくすくす笑って、左手に光る指輪をそっと撫でている。普段は外じゃつけないから気にしてるのか、愛しくってたまらなくって無意識に撫でているのか。……後者かもしれない。砂糖菓子の塊を突き付けられたような気分になって、思わず目を逸らした。女の子が2人、カフェの外にある横断歩道を渡っているのが見える。ピンクのランドセルを背負った女の子と、近くの高校の制服を着た女の子。この子たちは姉妹なんだろう。渡る途中で信号が点滅し始めて、慌てて渡り切ろうと駆け足になる2人。渡り終えた先で、おかしそうに顔を見合わせていた。

「過ぎてしまったことは取り返せないし、ああすれば良かったとか、もしあんなことがなかったらとか、起こり得ないことを想像しがちだけど、」

まるで心の奥を覗かれたような気になって、背筋に冷たさが駆け巡った。あの姉妹を見て、私はお姉ちゃんが生きていた時のことを思い返していた。普通の姉妹の暮らしとは程遠い私たちの関係。もし組織なんて初めから無かったら、あの姉妹のように暮らしていたんだろうか、なんてくだらないことを考えてた。

「その思いは全部が無駄なものじゃないんだな、って最近になって思うよ」

幸せになれる道を誰しも想像するのだもの、失くしてしまった人の幸せな道を想像したっておかしくなんてない。そう言い切る紗希乃さんの目に映っているのは私じゃない。きっと、他の誰かを重ねてる。

「思い出だけじゃ、足りないじゃない?」

何かが、はじけた。胸の内で渦巻いている何かが、堰を切ったように流れていく。……そうよ。足りるわけないの。一緒にやりたいことがたくさんあった。一緒に話をしたいことだってたくさんあった。

たとえもしもあの時お姉ちゃんがいなくならなかったとして、二人で組織を抜けられたとして、お姉ちゃんは素敵な誰かと結婚して、私は好きなことに没頭して、日々の暮らしを平凡に平坦に生きていけたのだとしても。きっと、終わりを迎える時にはもっと幸せになれる道を夢見るのだろう。幸せだったとしてもそうなのだから、幸せに程遠い所にいた私たちなんていくつ夢みたって足りない。私には今後の可能性が残ってるから尚、お姉ちゃんの閉ざされてしまった未来に夢を見ずにはいられないの。不毛で非現実的な思考だわ。そんなこと十分にわかってる。それでも、この人は無駄じゃないと言った。この人は誰の幸せを夢見ていたのだろう。

「いま周りにいる人たちは身代わりになんて成り得ないし、するつもりもないよ。それにね、思い出だけじゃ足りなくなるってことをもう知ってる。だったらやるべきことはおのずと決まって来るよねぇ」

私に姉がいたことをこの人は知ってる。でも、ただそれだけ。私はこの人が誰かを失くしたのかは知らない。知らなくてもいいんだと思う。きっと、慰めて欲しいわけじゃないだろうから。互いにうっすら目が赤くなっているのに気付いて、思わず笑ってしまった。静かなカフェの、ドアベルがカランカランと騒ぎ立てる。ふとテーブルに刺した陰にぎょっとした。

「……どうした、喧嘩か?」

私と紗希乃さんを交互に見て、驚いたように立っているのは私服を着た降谷零だった。彼の左手の薬指には、彼女と同じように指輪が飾られている。

「……紗希乃さんが遅れた理由、仕事じゃないって言ってたけど、貴方だったのね」
「だって、せっかく志保ちゃんとお茶する日だって言うのに、零さんと休みが被っちゃってついてくるって言うんだもの」
「私は別な日でもよかったのよ」
「ダメですー!そんなこと言ったら論文に夢中になってパスされちゃうんだから」
「少ししたら合流するって言っといただろ」
「思いのほか話が盛り上がってしまいまして言いそびれてた……」
「ホォー、そんなに盛り上がったのか。喧嘩するほど?」
「「喧嘩じゃない!」」
「おー、こわいこわい……。さて、どうする?真っ赤な目をしたままここに居たら、きっと注目を浴びるけど」
「……帰るわ」
「そうしよっか……」
「送るよ。車回してくるから、払っておいて」
「はあい。ありがとう、零さん」

降谷零から財布を受け取った紗希乃さんが伝票を手に取る。笑顔で払わなくていい、と押し切られてしまってはしょうがない。いつもこの2人は私にお金を出させてくれないので食い下がるのは諦めた。代わりに定期的にプレゼントをさせてもらってる。

「……紗希乃さん」
「なーに?」
「また来月、会ってくれる?」
「っ……もちろん!」

私とこの人の関係を一言で表すのはすこし難しい。年齢で言ったら私が年下だけど、ときどき私よりも年下に見える時がある。かと思えば年相応で、まるで姉のように思える時もある。この人との思い出が少ないのは寂しいかもしれない。そう思ったら、もう少し踏み込んでみたいと思えてきた。




宮野志保の思うところ

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