憧憬/降谷零


灰原哀の思うところ


好奇心が旺盛で無謀。それに人使いが荒くて、正義感の塊。彼に思うところはそれなりに多くあるけれど、今の私よりもはるかに上回る背丈へと姿を変えた彼に伝えることはあんまり多く持っていない。姿を変えた、というのはおかしいか。本来のあるべき姿へ戻っただけだもの。そう考えたら、私は歪なまま今も尚ランドセルを背負っている。大きくてしょうがなかったあの頃に比べて程よいサイズに感じられても、感じる重さは変わらない。すでに習得した文字や単語をなぞり続ける毎日は平坦で、初めの頃こそ意味を見出せなかったけれど、今となっては心地よかった。心を大きく揺らす出来事はここ数年特にない。事件には大なり小なり巡り合っても、私の胸の内を占める恐怖に怯える生活は5年前に終わりを迎えた。すぐそこのソファで博士の作ったロボットを眺めている彼と、彼に手を貸した大人たちの手によって。

「なー、灰原。これもうちょい量産できねーかな。捜査に役立ちそうなんだ」
「馬鹿言わないで。ただでさえやることいっぱいなんだから工藤君に手を貸してる暇なんかないわ」
「どーせそれも博士の手伝いだろ?」
「それだけなわけないじゃない。学校の課題だって増えて来てるしそれどころじゃないの」
「お前ならそんなのあっという間じゃねーか」
「難易度の問題じゃなくて物理的に多いって話よ」
「来年は中学だもんな。そりゃそーか」
「アナタが小学6年だった頃から何年経ってると思ってるのよ。今の時代は昔の倍以上に宿題もあるしテストもあるわ」
「それ、体験談との比較か?」
「うるさいわね」

みんなで楽しくたし算をやってきた頃に比べて宿題の量が倍以上に増えている。人によってはお受験だなんだと塾に通い詰めている者もいる。私にはそんなもの必要ないけれど、友人たちは遊びたい心を泣く泣く押しとどめて毎日宿題をこなしていた。

「ふーん、じゃあ、来週の週末空けといてって言っても無理か?」
「用件によるわね。それの制作なら私はパス。吉田さんたちと一緒に勉強でもしておくわ」
「あいつらを誘ってもいいけど、それは許可もらってないしなー」

ブツブツと呟く工藤君は手の内にある小型ロボットを頭上に掲げてゆっくりと回しながら眺めている。許可って何よ、許可って。彼が江戸川コナンだった頃に関わりがそこそこあった毛利蘭は、今でも時折私の様子を見にここへやって来る。「コナンくんがいたら自然に哀ちゃんのことが目に入るけど、今は探しに来なくちゃ何もわからないから」と言って、私の安否確認をしにやって来る。余計なお世話、と突っ返しても笑いながら毎回やってくる彼女の全てを否定するわけにもいかなくて結構むず痒い。それをわかった上で彼女をけしかけてくるのだから目の前のこの男は本当に……。

「あの子たちはともかくとして、アナタと彼女のお楽しみの時間を邪魔するほど私は野暮じゃないわ」
「あ?蘭もいるけど、ちげーよ」
「違うってなによ」
「降谷さんたちが来るんだ」
「……はい?降谷って、」
「降谷零。警察庁警備局警備企画課に在籍してる公安警察。組織に潜入してた時のコードネームはバーボン。安室透という偽名を使って、ポアロでバイトをしてた人」
「わざわざ確認しなくたっていいじゃない」
「灰原、忘れてそうだったし」
「流石に覚えてるわよ」
「でも、紗希乃さんとは仲良くしてたけど降谷さんとはそうでもなかっただろ」
「紗希乃さん……」

そうだった。降谷零の部下だという彼女と私はそれなりに仲良くしていた。というと少し違うけれど。良くしてくれたと思っている。でも関わりがあったのは組織が存在していた頃の話で、組織がバラバラに解かれた後から少しずつ彼女との繋がりは消えていった。電話番号もメールアドレスも知っているけれど、現在も同じものが使われているかどうかは知らない。彼女はどうしているだろう、とふと頭をよぎることがあっても私から連絡すべきことなんて何一つなかった。向こうからポツポツ来ていた連絡は途絶えてからすでに年単位過ぎている。

「来るって、急ね。工藤君も連絡がとれなかったんじゃなかったの」
「まあな。蘭から聞いたんだ。急に安室さんから電話があったって」
「まだ安室透を名乗ってるの?」
「いや、偽名だったと説明は聞いても、降谷零として蘭と遭遇したことはまだないからさ。アイツの中では降谷さんはまだ安室さんのまんまだよ」
「そう。それで?急に来るって何かあったのかしら」
「それがわからねーんだよな。音信不通になって数年経つけどさ、久しぶりに食事でもしましょうって誘われたって」
「そこで私も誘う理由がちっとも理解できないわね」
「まあ、降谷さんは別にして紗希乃さんも来るそうだから灰原もどうかと思ったんだ」

来るだろ?とさも当然のように言われて、返事に困っているとショートパンツのポケットに仕舞っていたスマホが振動した。5年も経てば軽量化もあっという間に進む。薄くて画面の大きなそれを取りだすと、今まさに工藤君と話していた話題が画面上でも繰り広げられていた。

「蘭からメッセージ来たか?俺が灰原に伝えるって言ったけど、アイツ、俺よりも関わりが多かったのは自分だっつって譲らねーから、連絡しといてって言っといたんだよな」
「……きっと、彼女からの話が一番初めだったら即断ってたわ」
「ハハ……変わんねーのな、灰原。てーことは来るんだろ?」
「紗希乃さんになら会ってもいいわ」
「よし。蘭にもちゃんと返しといてくれよ。場所と時間が決まったら、連絡するからさ」

公安警察なんて、組織の件がなければ遭遇するわけもないし気付かない。この5年が特別に疎遠にだったわけではなくて、通常の生活に戻っただけなのだと思う。ふつうの生活さえも交わることのなかったこの5年。5年前に出会わなければ、きっと彼女の存在は知らぬまま私は生きてきたことだろう。

『小学生なのに厳しいね、きみ』

初めて出会った時に飄々とした様子でそう言った彼女のことは今でも思い出せる。あれが公安警察だなんて思うわけがなかったもの。

私は5年で背が伸びた。元の姿の身長にはまだまだ足りてない。それでも彼女の中の灰原哀より成長してる。あの人は幸せになるのをうだうだと先送りにして悩む癖があったけれど、今はちゃんと受け入れられているだろうか。……降谷零と一緒に二人だけで来るってことは、大丈夫だったのかもしれない。そうだったらいいと、思ってる。




灰原哀の思うところ

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