憧憬/降谷零


幸せの足音が聞こえたら


面倒だと思う課題の締め切りはあっという間にやってくるのに、早くやって来ても良いことまではなかなか時が進まない。工藤くんが持って来た約束事まで1週間、とても長く感じた。……べつに楽しみにしていたわけじゃない。いつもはしない寝坊をしてしまったのも、特別気にして眠れなかったわけじゃないわ」。

「……ええ。ええ、そうよ。体調は悪くないの。博士に何かあったわけでもないわ。ちょっと用意に手間取っただけ。……十分おかしいって?そんな日だってあるんだから詮索しないで」

工藤くん相手に約束の時間に少し遅れるかもしれないと電話したら無駄に心配されてしまった。余所行き用のワンピースを着て、小さなバッグを手に取る。これは、紗希乃さんと一緒に出掛けた時に手に入れたフサエブランドのハンドバッグ。忘れてしまったかもしれないけれど、彼女に選んでもらったもの。真っ赤なルージュが似合う歳にはほど遠い。ほんのり色付くリップクリームを唇へ軽く添えて目的地へと向かうことにした。

『約束の時間は蘭が早めに指定してただけみたいだからゆっくり来いよ』

スマートフォンに届いた報せに、ほっと胸をなでおろした。きっと久しぶりに会う2人を盛大に出迎えようと企画していたに違いない。……博士に送ってもらえばよかったかしら。メカの修理に籠っている同居人を思い返す。やっぱりダメね、徹夜でふらふらだろうし運転なんかもっての外だわ。

歩きなれた道。もうすぐ着くのはほとんど寄ることのなくなった場所、毛利探偵事務所。事務所の主は江戸川コナンがいなくなった後でも何だかんだと探偵業を続けている。眠らなくなった毛利小五郎は今ではある意味有名だったりする。推理をズバリと指摘する時もあれば、あてずっぽうな迷推理を披露してしまうこともあるらしい。あまりにも真実とかけ離れた推理をするせいで犯人が自ら名乗り出て自供してしまうのだとか。そしてみんな思うらしい、ああこれは演技だったのね、と。出来過ぎのようにも思えるけれど、それで成り立っているのだったらそれはそれでいいのかもしれない。

「哀ちゃん?」

毛利探偵事務所の真下。ポアロの看板を通り過ぎる頃。後ろから聞こえた声に、私は振り向けないでいた。何度も聞いた声だ。知ってる声だ。もう二度と聞くことはないのかもしれないと、いつかの自分が諦めた声だった。

「やっぱり、哀ちゃんだ」

突然わたしの周りに現れて、いつの間にか繋がりが消えてしまったこの人。幼い私の5年間は長い時間で、紗希乃さんの時間はそんなに長くなかったのかもしれない。5年ぶりとは思えないくらいそのままの姿で、私を覗き込むように立っていた。今から会いに行くのだと理解していたつもりでも、できていなかったらしい。ふふふ、と楽し気な彼女の笑い声に我に返った。

「……久しぶりね、急だから驚いたわ」
「うん。すごくびっくりしてたね。おおきくなったねえ、哀ちゃん」

こんなに驚く哀ちゃん見るの初めて!と言う紗希乃さんが手に持っているトートバッグがゆらゆら揺れていた。

「あの人……降谷さんは?」
「今はポアロにいるよ。わたしは忘れ物取りに車戻ってたところ。そしてね、哀ちゃん!聞いてもっと驚くといいよ。なんとわたしも今では降谷さんです!」
「まあ、そんなことだろうと思ったわ」
「えっ、軽い」

そこは左手にはめた指輪を見せる所でしょう、と突っ込めば紗希乃さんはあわてて左手で作っていたピースをほどいて手の甲を私へ掲げて見せた。

「慣れてなさすぎね」
「おおう、相変わらずクールだね。そうはいってもさあ。わざわざ指輪見せつけるタイミングってないじゃない?」

この夫婦は普通の夫婦ではないから当然と言えば当然か。自分の手の甲を見つめながら彼女はああでもないこうでもないとブツブツ呟いている。

「もっと早く結婚すればよかったのに」
「ん?結婚自体はわりと前だよ」
「……結婚報告に来たんじゃないの?」
「あー……、あれ?今日はどういう集まりって聞いてるの?」
「降谷さんたちが来るからお前もどうだ、って工藤くんに言われて来てみただけよ」
「それじゃあさ、もしかして……」

カランカラン。軽い音を立てるドアを開いて現れたのは、これまた見たことのある顔。年齢の割に若々しい顔は健在のようで、大きな蒼い目が何度も瞬いていた。

「……驚いた。誰と話してるのかと思ったら、君だったか」
「驚いたでしょう?小さい頃のままで想像してたから、大きくなっててほんとにびっくり!」
「……ねえ、紗希乃さん、」
「うん?」
「今日来たのってもしかして」

思わず指をさしそうになって押し留まる。驚いたかどうかなんて問題じゃない。驚かない方がこれはおかしい!だって、まったく想像がつくわけなかった。私の知る2人から想像してなかった展開に頭の処理が追いつかなかった。

……ころころ丸いかたまりを降谷零が抱きかかえている。

「うん。子供が産まれたから挨拶しようかって話になって連絡したんだよ」

普通の夫婦じゃないのはわかっているつもりだったけど、報告の順番ってあると思うの。この感じだと工藤くんたちも絶対知らないわよね。驚きの声が木霊するであろう毛利探偵事務所を想像して顔が引きつった。

「5年でこんなに大きくなった君を見たら、この子の未来がとても楽しみに思えてくるよ」

自分の幸せよりも多数の幸せを、この国の幸せを願ってやまない人たち。その人たちが自分たちの未来を語っているのが不思議だった。前は自分に素直になればいいと思っていたくせに。……そっか。この人たちには長くはなかったと勝手に思い込んだ5年という歳月は、人間が代わるには十分すぎる長さがあったってことね。

「本当におおきくなったねえ、哀ちゃん」




幸せの足音が聞こえたら

←backnext→





- ナノ -