憧憬/降谷零


ダイヤモンドリリーを添えてF


ずっと頭のどこかに靄がかかっている。自分がどこの誰で、どこに所属していて、何をしていたか覚えている。覚えているはずなのに、その靄のせいで正確な情報なのか不安がよぎる。

「それでは、組織を解体したことも覚えてないと?」
「それは……」

覚えている。不本意ながらFBIと手を組んだ。小さな探偵にも協力を仰いだ。組織を追い詰めて、幹部は揃って捕らえることに成功したし、残党も時間はかかっているが回収している。

「覚えてはいる。ただ、すべてを覚えていると断言できない」

心配そうに眉を下げる風見。違和感はないが、先ほどまで病室内にいた男のことは覚えていなかった。公安部の部下かと思ったがそうでもない。風見の後ろに控える姿に見覚えがなく、訊ねてみても何もわからない。むしろ他のことが引っかかった。

『吉川紗希乃警視の下についている山本です。降谷警視正にも何度か捜査でご一緒させていただいております』
「警視……?」
『はい。吉川紗希乃警視のチームに所属しています』

吉川紗希乃のことは覚えている。甘ったるい煙草を好む子。警備課内での自分の価値を理解している子。俺と同じように親友を失くした―……

「……やさん、降谷さん!」
「あ、あぁ。すまない風見」
「定時の検診に少し早いですが看護師を呼びましょうか」
「いや、問題ない。少し考え事をしていただけだ」
「……何か、気になることが?いえ、この状況では気になる事しかありませんか」
「覚えていないということはわかるが、何を思い出せないのかがわからない。つまり今この瞬間の俺は知らないことだらけの無知な人間なはずだ。それなのに―……」

ただ混乱しているだけなら言葉通りの記憶喪失だ。現状と記憶との擦り合わせができていないから混乱している。それだけなら、報告書でも読んで、現在の組織図でも見て、失った記憶を擦り合わせて覚え直せば問題はないはずだ。目を覚ましてからの風見や吉川の言動から見るに、俺が失った記憶の中には吉川の部下のような新たに登場した人物はいても退場した人物はいなさそうだった。

「……いや、何でもないよ」

それなのに、どうしてこんなに喪失感に溺れそうになるのだろう。





入院生活も中間地点。まだまだ伸ばそうとしてくる風見の意見を曲げるのに手こずったが、あと数日で退院できるよう許可が下りた。風見も今では立場があるので毎日は顔を出せない。吉川も同様で少し顔を出すだけで警察庁に戻って行く。

「君は吉川の元でよくやれているのか」
「まあそれなりに……」

飄々とした男だ。2人の代わりに頻繁に訪れるこの山本は、吉川の部下だという。吉川はこの新人の教育に手を焼いたんじゃないかと思ったが、自分の記憶の中にいる彼女こそ新人で、一番下の子だった。それが、誰かを指導している立場にいる。

「あぁ、逆ですか」
「逆?」
「吉川警視がちゃんと上司をやれてるかって話かと」
「それは特に問題ないだろう」
「……覚えてらっしゃらないのでは」
「記憶はない。だけど、彼女が誰かを指導しているという事実に違和感もない」
「吉川さんの今を覚えてはないけど、吉川さんの今を見ていたという確信はあるってことですか?」
「俺の下にいた時の事はちらほら覚えている。努力が必ず報われるとは限らないが、彼女に関しては意地でもやり通すだろ。昇級だって何も問題ない」
「……はあ」
「何だその呆れた顔は」
「いえ、失礼しました。いや、失礼でもないですね。どうせならもっと失礼させていただきますよ」

大きなため息をついてから山本がわざとらしく肩を竦めてみせた。

「あの人は確かに意地でもやり通しますよね。非常にとてもわかります。脳筋かよって思う時すらあります」

なんだ上司の悪口か?と俺が口が開こうとする前に山本がジェスチャーで制してくる。まるで話はこれからだと言わんばかりの仕草に、ベッドの上で黙って腕を組む他なかった。

「貴方がたは国と自分を天秤にかけた時に、迷いなく国に錘を乗せるでしょう。国や日本警察のためなら自分の一部を切り捨てる選択ができる……いや、できるできないの問題じゃなく、やってしまうんですよね」
「……」
「あの人をあまり生き急がせないでくださいよ。貴方にならできるはずでしょう……」

それから素早くパイプ椅子から立ち上がった山本が深々と頭を下げた。

「降谷警視正の容体も鑑みず、不躾な態度をとってしまい誠に申し訳ございません」
「いや、君は、」
「この件は風見警視に報告の上、今後の定期報告の人選の再検討を行わせていただきます」
「……この案件の指揮は吉川だろう。なら君が継続でおかしくないが?」
「……報告させていただいた上での結果であれば継続となりますが、風見警視の判断によります」
「風見が何か握ってるな…。わかった。なら指揮官様を一度寄越せと言っておいてくれ。進捗は君から全て聞いているが、今後の展望も聞きたいところだ」
「報告はいたします」

*

あと4日で退院。本当は一刻もはやく退院するつもりだった。ところが何かしら理由をつけては病室に閉じ込められている。連絡用だと手渡されたスマホには風見と吉川の連絡先しか入っていない。自分のスマホは事件に会った時に破損したらしい。データのバックアップはこまめにとっているはずだから、自宅にあるパソコンを持ってくるよう風見に言ったものの、セキュリティの都合上持ち出せないと断られてしまった。忘れてしまった自分が新しい家で、パソコンを持ち出せないように何かしら細工しているのだという。……細工する必要のある生活をしている?一体どんな?少なくとも黒の組織の解体後にどこかに潜入した覚えはない。もちろんそのあたりの記憶が所々……いや、かなり抜け落ちている自覚は今更だけどできた。きっとそこで何かを始めたんだろう。

病室のあるフロアの入口と非常階段に1人ずつ公安の人間が張っている。おそらく目的は俺が抜け出さないかの見張りであって、警護じゃない。現時点で報告を受けた内容からも犯人は拘束されているし、複数犯ではなさそうだから念のためといったところかな。病室で目覚めてから一度も抜け出したことはなかったし、大人しくしていたつもりだ。風見や吉川はまだ警戒しているから部下を寄越してるんだろうが、当の本人たちは俺が抜け出すとは思っていないようだった。よくこれで公安が務まるものだな……それなら、と抜け出して訪れたのはひとつ下のフロア。スマホの交通系ICアプリに少額入っていたからそれを使って自動販売機で水を購入した。流石に病院を抜け出したりはしない。……記憶を失くしてなければしていただろうけど、抜け出してまで自分が動く必要のある仕事が思い浮かばなかった。どれもこれも部下たちの管轄に持って行かれている。景色が変われば何か思い出すかとも思ったけれど、病院に長く滞在するなんて記憶がなくてもきっとない。見たところで何の刺激にもならなかった。……エレベーターの扉がゆっくりと開くまでは。

「吉川か。どうした、体調がよくないのか?」

見慣れた姿よりも大人びてみえる部下。疲れが隠しきれずに顔色があんまり良くない。またどうせデスクや仮眠室で寝落ちてたんだろう。食事だって風見と揃ってチョコレートやらお菓子ばかり食べてるんじゃないのか。お前はいつも俺が見ていられないところで無理をしているから。

「ちゃんと帰ってます!」
「本当か?食事は?」
「帰って、食べてます。ちゃんと、ちゃんと……」

うわ言のようにも聞こえて、本当に大丈夫か不安になる。病室のベッドで休むのはそっちの方がいいんじゃないか、なんて思いながら到着したエレベーターの外へ足を踏み出した。途端に背中を思い切り押される。細い指先が背中に食い込みそうなほど力強く俺を押し出そうとしていた。何を急に、だとか、何かあったのか、とか、休んでないだろう、とか。いくつもの言葉が同時に浮かんではぶつかり合って声にもならない。

「心配しないでください」

……そんな笑い方するやつがいるか。何も聞かないでと言われているような、拒絶の色が消しきれない下手くそな笑顔がエレベーターの扉で隠れてしまった。心配もさせてくれないのか。俺が気にかけてはダメなのか。……いや、違うよな。上司に心配かけないようにあの子は気を遣って……

……――本当に?
本当に、気を遣っているだけなのか?
心配されたくないから、笑ったのか?心配されたくなかったら、大丈夫な理由とか今後どうするかとか先回りして話すやつだったよな。それでもちゃんとするように言ってしまう俺の言葉に、へらりと笑って謝って……
答えを得るために必要なものが圧倒的に足りない。自分が思っている以上に、俺は大切なものを失っている。

『あの人をあまり生き急がせないでくださいよ。貴方にならできるはずでしょう……』

早く取り戻さないと、もっと、もっと失ってしまうんだろうか。




ダイヤモンドリリーを添えてF

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