憧憬/降谷零


色んなことが込みあげる


男は幹線道路まで走り抜けると思いきや、雪崩れ込むように左の路地へと入って行った。逃げる手段が仲間の迎えだった奴が道なんてわかるもの?逃げることに必死でただ足の向くまま進んだだけ?電話の向こうがざわついてる。信じてください、なんて言って信じてもらえるのかな。会話なんてほんの少ししかしたことのない人相手にああ言い切ったものの、狭くなっていく道とともに気持ちが揺れてきた。わたしに、できるの?捕まえなきゃって思考が働いても、実際に捕まえたことなんかなかった。そんなの警察学校時代の模擬授業と自分の脳内のシュミレーションのみ。だったら現実はどうだ?わたしはここでちゃんと、

『吉川!聞こえるか?!』
「う、はい!現在追跡中です!」
『府警の警備部よりすぐに応援を送る。それと山中もこれからそっちへ向かう』
「降谷さん、信じてくれるんですか……!」

『俺たちが信じてやらなくて誰がお前を助けるんだよ』

うれしい。不安。疲れた。色んな感覚が混ざって喉元まで込み上げる。だめだ、今はこんなことで泣いてる場合じゃない。一時の感情に流されるなんてそんなのわたしのなりたい警察じゃない。狭い路地裏をどんどん進んでいく男に離されないよう必死に足を動かした。

路地を抜けて道路を渡った先にはまた路地が続いている。路地が一度途切れたその時、男は狼狽えるように立ち止まって周囲を見渡した。そして、それから何かを見つけたのか、再びまっすぐ走り始めた。一体何を見つけたんだろう。男と同じように立ち止まって、ぐるりを周囲を見回す。やっぱり何もない。それからまっすぐ顔を上げると……

「!」

男の走る背中と、路地の奥で向かい合っている二つのビル。それらに切り抜かれたような青い空をバックに建っているのはおそらく高層マンション。まさか、

「降谷さん、さっきの爆発したビルと高さの近いマンションってどこにありますか」

降谷さんが調べてくれている間に、さっきよりも距離が離れてしまった男の背中をひたすら追いかける。やっぱりそうだ。あの男は奥に建っている高層マンションを目指してる。あの男は大阪の土地勘があったわけじゃなくて一番高いマンションを目印ににしてそこを目指していただけだった。逃げる目的なら大通りでタクシーでも捕まえればいい。今なら怪しまれずとも火災の被害から逃げている様子を装える。けれど、それをせずにひたすら高層マンションを目指して走り続けてた。『一番近い高層マンションは――……』降谷さんが見つけてくれたマンションは今向かっているマンションで違い無さそうだった。警備部の人たちにそのマンションを目指すよう指示を出してもらえるよう頼んだ。

『一番近くにいるうちの車両がじきにそのマンション周辺に到着する』
「了解しました。一度切ります」

もうすぐ路地を抜けて、高層マンションに面した通りに辿り着く。そんな時だった、今の今までわたしのことなんか視界に入ってなかったっていうのに急に男は後ろを追いかけるわたしに気付いたみたいだった。それもそっか。サイレンの音がだいぶ遠のいている。静かになりつつあるそこで、やっと後ろから聞こえる足音に気付いたのかもしれない。

「なんだお前は!」
「何だって言われても、」
「オレじゃない、オレだけじゃない!他にも皆……!」
「詳しくは捕まってから話してくれますか」

立ち止まって、わたしへ弁明するように男は何度も"オレだけじゃない"と繰り返す。その時だった。後ろの方から、ドン!と音が鳴る。そして2度目の大きな音と共に地響きが鳴った。振り向いても路地の中にいるせいで何が起きたか見えない。

「オレじゃ、ないんだ!」
「っ待って!」

男が再び走り出した。路地を飛び出すように抜けたせいで、通りを走行していた車と接触して道路に転がるように倒れ込んでいる。足の骨でも折ったみたいで逃げようともがいても立ち上がれずにずりずりと地面を這うだけだった。手錠は持っていないから、男の腰からベルトを抜いて両手を縛った。男が接触した車の持ち主が青い顔をしてこっちへやってくる。

「もしもし、吉川です。容疑者が一般車両と接触したところを確保しました。場所は先ほどのマンションの前の通りです」
『わかった。一般人は府警に任せるんだ。到着したら容疑者の連行に同行してくれ』
「了解しました。それと……気のせいならいいんです。このマンション、一度調べた方がいいかもしれません」
『理由は?』
「男がむやみに逃げていたわけではなく、このマンションを目指して逃げていたと思われます」

一般人として逃げれたのに逃げなかった。たとえば自殺するための高所を探していたのだとしたら、わざわざ高層マンションじゃなくてもこの近辺のビルで事足りるはず。この男は確実にこのマンションを探していた。だったらここに何かがあるはず。

『わかった。周辺の捜索に当たっている人員をそこへ向かわせる』

それから間もなく到着した車両に男は担ぎ入れられた。本来なら救急車両に乗せるけど、この爆発騒ぎで全部出払っているからこのまま警察病院へ運ぶことになる。ちゃんと手錠を嵌められた男の両隣りには厳つい顔つきの公安の人間が座っている。さっきまでわたしに何度も訴えかけていた男は静まり返ってビクビクとそこに収まっているだけになった。

「えらいお手柄でしたなあ」
「はあ」

助手席に座ると、一気に疲れが押し寄せた。うわ、めちゃくちゃ靴擦れしてる。かかと痛い。腕は煤でもついてるのか黒くなっていたし、髪はギシギシと絡まっていた。立場上この車内にいる誰よりも上の人間になるわけだけどあくまで階級上の話で合って、ペーペーのわたしには非常に居づらい雰囲気でしかない。ていうかさ、さっきのお手柄っていうのも皮肉にしか聞こえないや。わたしが疲れてるから悪く聞こえちゃうだけかもしれないけど。

延焼はどこまで食い止められたんだろう。被害はどれくらいだろう。怪我人は何人?友人は救急車か警察に拾ってもらえたかな。和葉ちゃんは幼馴染の男の子とちゃんと会えたかな。容疑者を確保できたのに、ざわざわと騒がしい胸の内はいつまでたっても収まってくれなかった。

『大丈夫?いまどこにいる?』

送ったメッセージの返事がないのがさらにわたしの不安を煽った。充電すくないって言ってたっけ。だから見れてないのかも。それに、走って逃げたからスマホを落としてる可能性だってあるよね。考えるのやめよう。いつのまにか握りしめていた掌をゆっくり開いた。大丈夫だよ、きっとみんなちゃんと無事でいるから。


*

府警のロッカーに併設されたシャワールームで汚れを洗い流して、借りたシャツとパンツスーツに着替えた。下着が変えられないのはしょうがない。ロッカールームを出たところで山中さんから着信があった。

『大阪に着いた。府警でいいな?』
「早いですね、山中さん。はい、容疑者は右の脛骨骨折のみだったので処置後に府警へ輸送済みです」
『お前は無事か?』
「ええまあ何とか……。府警に到着次第、刑事課と山中さんに状況報告します」
『わかった。また後で』
「お気をつけて」

あの後、高層マンション屋上の貯水タンク脇で不審物が見つかった。菓子折りの外装をした爆弾だった。つまりあの男は爆弾があると知っていてあのマンションを目指していたことになる。
事情聴取は刑事課が行っているから、それまでの引継ぎを山中さんも含めてこれから行う。そろそろわたしのスマホの充電も怪しいけど、荷物は友人に預けたままだった。数時間前に送ったメッセージへの返信は相変わらずない。引継ぎを行う会議室の前で、もう一度友人へメッセージを送っていると、返信の代わりに電話がかかってきた。画面に映った友人の名前に、ずっと緊張していたのがホッと緩んでいく。

「もしもし?返信ないからずっと心配してたんだよー」
『吉川紗希乃さんで合うてはりますか?』
「……ええ。どちら様ですか」
『大阪府警の大滝いいます。実はこのスマートフォンの持ち主の女性がお亡くなりになられました』
「……え?」
『爆発の時に起きた風でビルの看板が落下しまして、その看板の部品の塊がぶつかり重症やったんですが、先ほど息を引き取られて……』
「待ってください。爆発の風って、爆発した時あの子とわたしは店の中に、……いや、爆発?それってまさか、あの大きな音って!」
『爆発自体は二回あったんです。二回目は最初のビルの通りの別な場所で、火ィもまだ届いてへん場所でした』
「そこに女の子はいませんでしたか?それと、もし合流で来てたら男の子も、」
『やっぱりあなたでしたか。二人は無事です。あなたのご友人が落ちてくる看板から二人を守ってくれはりました』

本当に感謝してもしきれない。そういったようなことを耳元で何度並べられてもわたしの頭には残っていかなかった。守ったって言っても、当の本人が生きてなきゃしょうがない。守ったのはあの子なのに、わたしが感謝されたって意味ない。亡くなったなんて悪い冗談だ。そんなはずない。そんなはずは……

『二人があなたに会いたいって言うとります』

会ってどうするの。あなたたちを守ったのはわたしじゃないんだよ。




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