憧憬/降谷零


張りきれなかった予防線


警察庁に配属されて間もない頃のことだった。

『大丈夫。俺がちゃんと引っ張ってやるから』

その優しい手がわたしの頭を撫でた時、頭の奥で警笛が鳴り響いた。予防線を張らなくちゃ。そうしなければきっとわたしはこの人に簡単に溺れてしまう。何かを守る人間になりたくて警察になろうと思った。なのに何一つ成し遂げないままわたしは降谷零という人に甘えてしまいそうになっていた。ちゃんと思い正さなくてはいけないね。わたしが彼に抱くのは恋とか愛なんて代物じゃなくて、ただの羨望で憧れなんだと。憧れは愛になんて成り得ない。そう自分に言い聞かせて、あの人は遠い人だと思い込みたかった。

思い込めていたと思っていたのになあ。


*

説明しろ。そう言われて、幹事長の誕生日パーティーでその甥っ子の情報を集める任務についていたことを報告すれば、べったりと張り付いていた降谷さんの笑顔もどこかへ消え去った。二度目になる降谷さんの家に着いたら前と同じようにソファへ腰かける。シンプルな部屋のなかで無駄にきらきらしたイブニングドレスを着てるのがなんだか馬鹿みたい。まだ借りたままの降谷さんのジャケットをもう一度肩にかけ直す。

「すみませんでした」

降谷さんがキッチンでコーヒーを淹れている音だけが響く。デザインがバラバラのマグを二つ手にした降谷さんが目の前にやってくる。白い方をわたしに差し出している降谷さんはちょっとだけ呆れたような顔をしていた。

「それは何に対しての謝罪なんだ」
「降谷さんに報告していません」
「俺への報告は緊急時以外は定時報告のみだろう。それに、連絡をしても返せないと先に言ってたのはこっちだし」
「……あと、降谷さんがこういう任務をわたしにふらないことを知った上で局長と組んで勝手に行きました」
「言い出したのはお前か?違うだろ。どうせ話を持ち出したのは局長からだ。直属の上司の俺が潜入している今、局長から直接指示が飛ぶことも少なくない」

お前の行動は間違ってないよ。そう言ってから降谷さんはわたしの右隣にてのひら一つ分ほど空けて腰かけた。視線は合わない。今この人が何を考えているのか、確かめてもいいんだろうか。……確かめたい。この前からずっともやもやしているの。だけど、確かめてしまったら後戻りなんてできるのかな。直視しないよう目を逸らして来たことへピントを合わせようとすればするほど いつか聞いた警笛が頭の奥で鳴り出した。ねえ、降谷さん。弱々しくこぼれたわたしの声は降谷さんの大袈裟な溜息でかき消えた。それから降谷さんは、やけになったように頭をガシガシかいてる。

「すまない、」

手のひら一つ分なんて有って無いようなものだった。肩に掛けたジャケットは床にばさりと落ちて、わたしは降谷さんの胸の中に閉じ込められている。

「……変な奴に触られたりしなかったか」
「いま、」
「違う。俺じゃない。パーティーで浮かれた馬鹿どもに何もされなかったかって聞いてる」
「触るも何も途中で引っ張り出したの降谷さんじゃないですか」

触られたりしなかったか、に思わず今だと答えたらムッとしたようで抱きしめる腕がやんわり緩んだ。

「じゃあ、なにも無かったんだな?」
「んー、まあ……一応遊びに誘われましたけど」
「誰に」
「ターゲットの男ですよ。おかげで次の会合の場所掴めました!」
「会話しただけか」
「はい。ちょうど降谷さんからの伝達メモが届いたので」

はああ、と重たい溜息を耳元で呟くから背筋がぞわぞわする。逃げようと動いても、その分降谷さんが抱き寄せる力をこめるから離れられない。なんか、局長ふざけんな、とかぶつぶつ色々聞こえるんだけど!

「吉川」
「は、い」
「悪かった」
「……それは、何に対しての謝罪ですか」

降谷さんがさっき言ったのと同じように返してみたら、私を抱きしめていた手が緩んでそっと離れた。ソファの上で向かい合うように座ってるわたし達はお互いに変な顔をしてるに違いない。現に降谷さんは苦虫を潰したような顔してるし。

「俺の都合で任務を一方的に離脱させた。お前の能力を低く見てるわけじゃない。俺が嫌だっただけだ」
「嫌だった、なんて子供みたいな……」
「そうだ。お前を組織関連の任務に就かせないのも、風見みたいに複数の班を持たせないのも、子供と変わらない俺の我儘だよ」

悪い、と言ってまた抱き寄せられる。さっきよりももっと優しく回された手はドレスから出ている肩をくすぐっていく。

「許してほしい人がやることじゃないですよ」
「許してほしいとは思ってない。本当はこれから先も組織や危ないものからずっと遠ざけておきたいくらいさ」

それでも、俺が遠ざけたって向こうからやって来るしお前も向かっていってしまうんだろうな。そう言って、いつもは胡散臭いくらい綺麗に笑うのに、悔しそうに笑っている。

「降谷さん……わたし、」

吐息が重なりそう。それくらい近づいて目を閉じたその時。機械的な振動を伝える音が部屋に響いた。反射的に目を開くと、まさに目と鼻の先に降谷さんの顔があった。電話でもきたのかいまだに鳴り続けているスマホに目もくれない。むしろそのまま続行しようとする降谷さんの口を掌で止める。

「でてくださいよ!」

ふてくされたようにムスッとした表情の降谷さんはパンツのポケットに入っていたスマートフォンに手をのばす。画面に映る発信者の名前に思わず眉毛がぴくり、と動いたのが自分でもわかった。

「ただのクライアントだよ」

渋谷夏子。明らかに女性だとわかる名前だからと言ってわかりやすく反応してしまって悔しい。声を明るく引っ張り上げた降谷さんは安室透として通話し始めた。すこし降谷さんから物理的に距離を置こうと、通話し始めた彼から離れると腰を引いて引き寄せられる。ちょっと!安室透モードでそれやらないでくれませんかね。驚いて声が漏れてしまったのが通話相手にも聞こえてしまったらしい。降谷さんが視線をこちらに寄越しながら何やら説明している。

「……いえ、別なクライアントを送っている最中だったもので。何やら渋滞してますね。事故でもあったんでしょうか。ええ、そうです。…はい。……ええ、それでは近くなったら連絡を入れますので」

通話を終えて、彼はハアと溜息をつく。

「どーこが渋滞ですか。やっぱり仕事あったんですね、こんなとこいないで行かなくちゃ」
「……」
「そんな顔したって駄目ですよ」
「わかったよ、途中までしか行けないけど送る。帰りながら説明させてくれ」
「説明って、探偵の仕事でしょう?」
「組織も絡んでいる。というより、最後のピースを手に入れるために俺が利用した」
「最後のピース?」

手を引かれて立ち上がり、床に落ちたジャケットを再び肩へとかけられる。そういえば、頭の中で鳴り響いていたはずの警笛はいつの間にか遠のいていた。

「赤井秀一を捕まえる、最後の一手さ」

やる気に満ち溢れたその顔を見て思う。ああ、わたし予防線なんてうまく張れやしないんだ。なし崩し的にこの人へ自分の全てを明け渡してしまう未来しか見えなくて、今すぐ逃げたくなる。……それでも逃がしてなんかくれないんだろうなあ降谷さんは。





張りきれなかった予防線

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