憧憬/降谷零


誘い文句はご存知ですか


ポアロにライターを忘れたことに気付いたのは登庁してからすぐのことだった。『ポアロで預かっているから』という降谷さんからの連絡に思わず「あ、」と声を漏らせばエレベーターの中で注目を集めてしまった。なんだか嫌な予感がする。ほんの少しだけどざわついていくのを無理やり深呼吸して飲み込んだ。


*

「いらっしゃいまー……あれ?今日は安室さんお休みですよ?」
「知っていますよ。ただ、ポアロに預けてあると聞いたので取りに来ました」
「そうなんですか!じゃあ、取ってきますから座ってお待ちくださいね」
「お願いします」

ポアロにライターを忘れてから数日。毎日今日こそはと思いながらもなかなか取りに来れなかった。ようやく行ける日になったことを連絡すれば降谷さんは用事があると言う。仕方ないからいないのを承知でいくしかないとこうして一人でポアロへやって来た。今日はマスターとあの女の子しかいないみたい。カウンターに座って、マスターが出してくれたコーヒーを一口飲んでみる。美味しいなあ、と思うけど あの人のいないポアロは何だか不思議な気分だった。数えるほどしか来ていないというのに知った気になっていたんだろうか。

「はい、ライターですよ」
「ありがとうございます。助かりました〜」
「すごい使い込まれたライターですね?もしや安室さんからのプレゼントとか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど。思い入れがありまして」

もっと質問したそうな梓さんから逃げるように残りのコーヒーを飲み切って、お代を払おうとするとマスターから断られた。「安室くんのお給料からひいておくから」なんて笑いながら言われるから、お願いしますとポアロを後にする。今日はまだ目的があったりするのだ。普段通らない方向へと進み、道なりに並ぶ家を観察する。降谷さんから聞いた家の特徴を頭の中で反芻しながら歩いて行く。一軒家の続く通りに差し掛かったところで、目的の家を見つけた。阿笠博士……ここか。表札の名前を確認して、インターホンを押す。繰り返しベルの音だけが響いていて何の音沙汰もない。

「そこの家主なら出かけていますよ」

突然聞こえた声に、驚いた。すぐそこに一人の男性が立っていた。いつの間にそこにいたのか、目を細めて笑っている男の人に思わず息を飲む。

「驚かせてしまったようですみません。ちょうどインターホンを押すところが目にはいったもので」
「いえ。教えてくれてありがとうございます。不在なら仕方ありませんね」
「何か用事でも?私から伝えておきますよ」
「用事というほどではありません。ただ、いらっしゃるなら会ってみたいと思ったもので……」
「会ってみたい?ということは、阿笠さんとは会ったことがない、と」
「はい。この近くに住んでいる知人から噂を聞きまして。何やら面白い発明をしているそうじゃありませんか。ちょっと見てみたいなあ、と思っただけなんですけど……」
「それでわざわざここに足を運んだと」
「用事のついでですけれどね。それで、あなたは?」
「ああ……失礼しました。隣りの家に住んでいる者です。」
「隣りって工藤さんのお宅ですか?」
「ええ。ただ居候させて頂いている者ですが。家主をご存じで?」
「いいえ。大きなお家ですもの、この辺りでは有名でしょう?最近、家を留守にしがちだと聞いたんです」
「成る程。私もつい最近住まわせてもらうようになったばかりでご近所付き合いが少ないんですよ。唯一あるのは阿笠さんのお宅くらいですね」
「はあ……」
「今日はお花見に行くと言っていましたので直に帰ってくる頃でしょうが……」
「お花見ですか。確かに夕暮れですしそろそろ戻ってくるでしょうね」

いないのなら仕方がない。降谷さんが阿笠さんに会おうと思ってもなかなか会えないと言っていたから、代わりに会ってどんな人物か調べようと思っていただけだった。いないのなら今日は諦めよう。

「今日の所は帰る事にします。ありがとうございました。ええと、」
「沖矢といいます。あなたは?」
「篠原です。ありがとうございました、沖矢さん」
「いえ、お気をつけて」

会釈をしてその場を去ろうとした時だった、「篠原さん」そう呼ばれ振り返るとにこやかに笑う沖矢さんがもう一度苗字を呼んできた。

「篠原さん、一緒に……バーボンでもいかがですか?」

バーボンという単語はすんなりと耳に入ってきた。降谷さんのコードネームであるそれを日常生活で聞くことはあんまりない。そもそもお酒を飲まないわたしは名前なんて知識として覚えているだけだし。お酒の席に誘うのにわざわざバーボンを引き合いに出すなんて、まさか。

「……バーボンって、お酒でしたっけ?」
「おや、ご存じでしたか」
「ご存じでしたかって、知らないと踏んでそれを選んだんですか?」
「この前テレビで若い女性の間でハイボールが流行っていると特集されていましてね」
「はあ」
「ウイスキーの種類にも拘る方が増えていると聞いたもので本当かどうか知りたくて聞いてみました」
「人によると思うんですけど」

組織の人間かもしれない。そう脳裏によぎった考えは深読みしすぎだったみたい。少し構えてしまっていたらしく、気付けば肩に力が入っていた。ふう、と息を抜けば、「いかがです?」と沖矢さんが声をかけてくる。

「え?ウイスキーのことを知りたかったのでは?」
「それもありますけど、単純にお誘いしてみただけです」
「……誘い下手とか言われたことありません?」
「ハハ。どうでしょうね」
「とりあえず…また機会があれば、とだけ」
「おや。断らないのですか」
「まあ、今日はお世話になりましたし」

どうせ次に会う機会なんてないでしょ。こっちの方に足を運ぶことなんてそうあるわけでもない。

「それでは次に会う時はお茶でも飲みましょうか」
「そうですね。その時はぜひ」





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