憧憬/降谷零


波打つ鼓動があばかれる


鼻先を擽る香りに、弾かれたように目を見開くわたしの目と鼻の先にあったのは降谷さんの顔だった。車の助手席のシートを軽く倒して寝ていたわたしの顔を覗き込むように、ドアの開いた助手席外から降谷さんが覆いかぶさるように立っていた。視界を占める情報に頭が追いつかなくて、わたしは情けないくらいまごつくしかなかった。なんで、降谷さんが目の前に、

「40点」
「はい?」
「このまま起きなかったら0点だったよ」

肩を竦めて両手をあげて、僕は何もやっていませんとでも言うように降谷さんは悪戯っぽく手をひらひらと振っている。って、あれ。右手に引っかかってる物に見覚えがあるんだけど。

「わたしの鍵?!」
「お前がいつまでも起きないから部屋まで送ろうと思ってね」

起きてくれて助かったと笑う降谷さんを押しのけるように車から降りると、目の前にはわたしの住んでいる賃貸マンションがあった。近くまで送ってもらったことはあっても家自体を教えたこともなんてないし、写真を見せたこともないはず……なんでここをピンポイントで見つけたんだこの人。いくら上司とは言え細かい住所まで知ってるとは思えないんだけど、どうやって……

「簡単だよ。前に話したことを覚えてただけさ。いつだったか…日当たりのいい部屋だから家賃がそこそこだと前に言っていただろ。この辺りは住宅街で建物が密集しているね。2階建ての家の多いこの一帯で日当たりが良い物件といえば2階より上の階が存在する建物……この付近で3階のあるマンションはここ以外考えられなかったというわけさ」

鍵はこの前に送った時に降りてすぐ鞄の一番左の外ポケットを触っていたから、おそらくと思ってね。といとも容易く推理されてしまった。

「部屋の番号は…?」
「知らなかったけど、3階にある4つの部屋で使われてるのは303号室と302号室だけみたいだったし、303号室は電気がついていたからね」

降谷さんの視線の先には郵便受けがあり、301と305にはテープが貼って閉じてある。301号室は最近出て行ったばかりで、305号室はこのマンションのオーナーの持ち部屋で倉庫として使っていると聞いた。探偵としての降谷さんを垣間見たわけだけども、答えに行きつくようにセットしてあったような現状に頭を抱えたくなった。

「…とりあえず、上がりますか?お茶ぐらいなら出せますけど」
「はいマイナス10点」
「なんで!」
「お前な、もしさっき状況が襲われる一歩手前だったらどうする」
「暴漢だったらってことですか?急所蹴り上げて、助手席のドアで挟んでやりますよ」

うわぁ、と顔を顰める降谷さんは、ぽいっとわたしの家の鍵を投げてよこした。それを両手で掬うようにキャッチする。

「そんなやつを上げようとするなんて襲えって言ってるようなものだろ」
「ええ、まあ。でも降谷さんですもん」
「……」
「降谷さんじゃなかったら、車の中でぐーすか眠りませんし、目が覚めてから狼狽える前に殴ってやるし、家にあげたりしません」
「俺をなにか勘違いしていないか?」
「していませんよ」

降谷さんこそ、わたしをそこらへんの馬鹿女と一緒だと勘違いしてるんじゃないかしら。だったら心外だなあ。開けっ放しになっている助手席から自分のバッグを引っ張り出して、ドアを閉める。後ろに立っている降谷さんが窓ガラスに映った。少しイライラしてそうな表情をしていた。そんな、ただ単に無防備なわけじゃないからそんなにイラつかないでくれないかな。あ、やっぱりわたし未熟だと思われてるから要らん心配させてるのかもしれない。

「いまの貴方がそんなことしてられないってわかってるつもりですけど」
「……ハハ、物わかりの良い部下で助かるよ。でも、」

やっぱり勘違いしてるよ。と降谷さんが近づいてくる。後ろに車、前に降谷さん。近距離の降谷さん再び…なんて思う間もなく、車に押し付けられるように抱きすくめられる。細いと思ってたのにガッチリと捕まえられて初めて大きく感じた。

「お前がいくら物わかり良くっても、俺がそうじゃないかもしれないんだからな」
「っ……?!?!」

すこしかさついた何かが頬を掠める。驚いている間もなく再び頬に、それから耳に何度か軽く口づけされた。容量オーバーですって、なんで急に、えええ。金魚みたく口がパクパク開いて閉じて。それがとっても面白かったらしい。悪戯が成功したとばかりに目の前のこの人はおかしそうに笑ってる。

「ほんと、おかしいよなあお前って。俺の写真を集めたりしてるくせに、こういうことは全然考えないんだからさ」
「いや、だって!だって降谷さん、そんな、」
「今日はありがとう。また連絡する」

ちゃんと温まってから眠れよ、とガッチリ抱いていたのをそっと離れてから頭をゆったり撫でられた。茫然と立ったままのわたしを置いて白のRX-7が去っていく。

『安室さんが連れてくるくらいだもの向こうはそう思ってないかも!』

昼間に言われた言葉が脳内を駆け巡る。いや、ほんと、そんな急でしょ…!

「今までそんな素振りとか見せなかったじゃん……!」

ガサリ、とビニールの擦れる音がして振り向くとマンションの隣人が気まずそうにゴミ袋を持って立っていた。ゴミ出しの時間くらい守れよ、まだ日付も変わってないでしょうが!火照る顔をなるべく合わせないようにしてマンションのエントランスに入り、エレベーターのボタンを連打する。開いた箱にすぐさま乗り込むと3階にあっという間に着いて、自分の部屋にガチャガチャと駆けこんだ。手から離れた鞄が音を立ててフローリングに転がっていく。鞄から飛び出たスマホには降谷さんからのメッセージが届いていた。


『無理だけはするなよ』

貴方こそ。無理しないでください。そう思いはするけれど、返事をする気になれなかった。質素な部屋においたチェストの引き出しを引っ張り出す。そこに入った小さなアルバムから一枚の写真を出した。うっすらピンボケした降谷さん。レアだった笑顔の降谷さん。だけど、それ以上の笑顔を見てしまった。っていうか今日はずっと楽しそうだった。あれが安室透なんかじゃなくって降谷零本人だったって可能性もあるじゃん。もうもう何なのあの人。今までただの上司だったっていうのにさあ。

「眺めてるだけで満足だったのに……」

どうしてくれるんですか、ねえ。




波打つ鼓動があばかれる

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