憧憬/降谷零


誰しも戸惑う時はある話


自らの幸せを追い求めていく事に関しての意識が薄いように思う。そんなことを言われたことが前にあった。そう、前にあったことでここ最近の話じゃない。言いたいことはわかるし否定をする気もないけど、幸せになりたくないわけではないのである。

「とはいえ戸惑わないわけがない……」

零さんと結婚するにあたって、それなりに忙しく過ごしているわたし達は職場ではなく家庭で二人揃ってコミュニケーションをとることをまずは最優先とした。簡単に言ってしまえば、結婚してもしばらくは子供は作らずに夫婦二人で暮らそうね、という約束だった。することはもちろんしてたけど。長いこと心身ともに費やしてきた案件を終えたばかりの零さんを労りたいという考えがあったりもしての決め事だった。だってね、新しい命を育てていくのって簡単な事じゃない。絶対に零さんに頼ることが増える。組織を壊滅出来てふわふわした状態で迎えるにはわたしの覚悟が足りなかった。いつになったら覚悟ができるか?そんなの明確に知りませんよ、ええ。けれどもいつまでもそんなこと言ってちゃ手に入れられるものも手に入れられないのだ。そもそも子供なんて授かりものだし、よっしゃ作ろう大当たり!なんてことにはならないでしょう。それなら、そろそろ……と励み始めたのはこの間のこと。そんな簡単にうまくいくわけがないと思ってた。

「おめでとうございます、妊娠2か月ですね」

わあ、すごい〜。なぜか他人事に思えるくらい、すんなり自分のお腹に零さんとの子がやってきた。

*

昇進したら忙しくなるのってどこも変わらない。もしや、妊娠したのでは?と思い始めた頃には零さんの大阪出張が待っていた。

「来週帰ってきたら二連休貰えることになったから、どこか行こうか」
「あっ!隣町にできたカフェ行きません?この前、外回ってた時に見つけたの」
「ああ、クリームの軽さを売りにしてるところか?」
「そうそう〜」
「それじゃあ、帰ってきたらそこに行こう」
「ふふ、楽しみに待ってまーす!」
「それじゃあ行ってくるよ」
「いってらっしゃい、零さん」

なーんて普通にキスして普通に出張に送り出したのは昨日のことだった。元から取っていた半休で病院にいって妊娠発覚。あっはは、タイミング悪すぎて笑えてきちゃったよ零さん〜!さーて、これからどうするか。当然産むつもりでやることやってきたのでそこの意思確認は漏れてない。どう報告するかがかかっている……。電話でするのもなあ、忙しいだろうしなあ。新幹線での出張だから車飛ばして帰ってきたりはしないだろうけど、出張放棄して来られても困る。さっさと帰れとけしかけそうな人たちとの仕事だから尚更ね!

病院から登庁して、自分のデスクに座る。思いっきりため息をついてしまって、周りの目がこっちに向いた。

「吉川お前、旦那が出張行って寂しいのか〜?」
「いいなあ、俺も奥さんに寂しがられたい」
「本人いてもイチャつかないのになんでいなくなった途端惚気モードに入るんスかね」

オジサマ、オジサマ、面倒な部下。いいからその生暖かい視線をどこかへずらして頂きたい。違うんだ、惚気じゃない。切実な悩みだもの!ゆるい視線は他のデスクのおじさん達も呼び寄せて、色んな人がやいやい言い始めた。

「そろそろ禁煙解禁したくてイライラしてんじゃねーか?」
「しーてーまーせーんー」
「年単位で禁煙とかオッサンには無理だわ」
「わたしまだ若いんで」
「俺からしたら年上ですけどね」
「いいからアンタは黙ろうか?」

彼らをどうかわすかを考えている場合じゃない。零さんへの報告のやり方に今後の自分の仕事の事にその他諸々考えなくちゃならないことが急に増えた。おじさまたちを構っている場合じゃない。給湯室に行き、インスタントコーヒーを淹れてからデスクに戻る。ひとまずコーヒーでも飲んで落ちつこ…う……はっ、カフェイン?カフェインダメじゃんか。気付けばお気に入りのマグカップを、ダーンッ!と叩きつけるようにデスクに置いていた。普段じゃやらないような行動に、静まり返る警備企画課の皆。何してんだ……わたし……自分で自分に驚く。そんな状況で最初に動きを見せた救世主はあの人だった。

「吉川、何かあったのか?」
「風見さん〜〜!」



聞き耳を立てながら仕事をしようとする野次馬を蹴散らした風見さんが連れてきてくれたのはフロアの一番端っこにある会議室。会議室の一番奥に座るよう促されて、大人しく座った。

「降谷さんと何かあったのか?」
「いえ、普段通りに大阪行ってます」
「それじゃ、一体どうした?今日は午前休とっていただろう。その時に何か……」
「いや〜……」
「なんだ?俺に言いにくいのなら他を探すが」
「そういうわけではなく……」

何でもない、と言い切るには苦しすぎる。あきらかに何かがあったような態度をとってしまったのはわたし自身だ。戸惑わないわけがないけれども、これでよく公安が務まるなってお叱りを受けてもしょうがないレベルで色々隠しきれてない!報告したいのは山々ですが、とりあえず一晩考えさせてほしい。そして妊娠したことは零さんに先に言いたいのでちょっと待ってほしい。

「えっとですねぇ……すぐってわけじゃないんですけど休職したいって言ったら、どうします……?」
「……は?」

心配そうにこちらを見つめていた風見さんが目を見張った。きっと色んなことが頭の中を駆け巡っているんであろう風見さんがフリーズしている。

「……それは、俺が理由を聞いてもいい内容か?」
「あー……言いたいんですけど、まだ……」
「込み入った内容ってことだな。わかった。言えるようになったら言ってくれ」
「えっ、休むことに関してはいいんです?」
「いいか悪いかで言ったら、仕事としては大きな痛手だが……吉川が休まざるを得ない理由がちゃんとあるんだろう?」
「か、風見さんんん」
「なっ、何おまえ泣いて……?!」

戸惑いが渦巻いている現状のわたしの涙腺は容易く崩壊し始めて、だばだばと涙があふれ出た。風見さんほんといい先輩すぎて、ちょっと安心できたらこれだもの。そして止まらない涙。焦る風見さん。そういえば風見さんの前で泣いたことってない。うろたえている風見さんに落ち着くように言ったけど、涙を流し続けてるわたしが言うことじゃない。

「お前が落ち着け……!」
「わかってるんですけど今のこの状況はどうにもならないんです〜〜っ」
「降谷さんに戻ってきてもらうよう掛け合うか?」
「そんなの望んでない〜!違うんです、違うんですよこれは。悲しいんじゃなくってちょっと安心したというか、ほら妊娠するとメンタルがぶれぶれになるってよく言うでしょう?きっとおそらくそれで……あ、」
「にん……しん……?」
「あーーー!」




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