生き物は皆、死が怖いと言う。
言語の通じない生き物でさえも、捕獲しようとすれば死にもの狂いで逃れようとする。生に縋り付こうとするその様を、かつてのわたしは滑稽だと思っていた。人間は無駄に着飾り、権威を振りかざし、大きくあろうとする。短い人生だからこその虚栄心。
今となってはもう、生き急ぐその様子でさえも尊いよ。
*
ひやり。冷たい感覚が額の熱を奪う。その感覚により、眠りから解放された意識が浮上するとともに驚いたような双眸と視線が交わる。
「あっ、ご、ごめんなさ、」
びくりと肩を震わせ、縮こまるようにして蹲る子供と、額に乗せられていた濡れ布巾。それも、ちゃんと水が切れていなくてぐっしょり濡れた重たいそれ。ふたつを見比べ、あぁ、これはもしや怖がらせてしまったのかと思い、できるだけ柔らかく声をかける。
「ありがとう、わたしに気を遣ってくれたのね」
横になっていたソファから上体を起こし、リリィの頭を撫でようと手を伸ばす。すると、先ほどのように、びくり。大きく肩を震わせて小さくなる。
「どうしたの?まだ具合悪いの?」
子供の相手なんてチェスの遊び相手を船の上でやっていたくらいだ。彼はそれなりに大きくなっていたし、何よりフェルメートという保護者がいたからわたしはこの子へやっている母親のような経験をこれまで体験したことがない。
「…ぶたないで…!!」
どうしたものかと考えあぐねていると、絞り出されたか細い声から伝えられたのは衝撃の一言だった。
見たところ、4・5歳の女の子であるリリィは、びくびくと縮こまって怯えている。わたしが、この子をぶつ?そんなことをするわけがない。わたしがしたことじゃないのにも関わらず、ここまで過敏に反応するということは日常的にそういった目に遭っているのか。
「大丈夫、ぶったりしないよ。おいで。まだ夜中じゃない一緒に寝ましょう?」
明かりをつけたまま寝入ってしまったので、今は中途半端な時間だった。今から寝ても朝までに十分休める。そう思うが、うまくいかなかった。
撫でるために差し出した手に怯えているのなら、差し出すのをやめよう。両手を広げて、リリィがぶるぶる震える体の力を抜くのを待つ。すると、窺うようにこちらを見上げる小さな瞳が、揺れながらもこちらを捕えた。
「おいで」
もう一度、ゆっくりそう言うと遠慮がちにそっとわたしの膝へよじ登ってきた。もう怯えてはいないようだけど、緊張はほどけないらしく、変にきびきびした動きで膝の上に向き合うように座る。その子供らしくない様子に苦笑すると、リリィは慌て、膝の上で縮こまろうとした。ちがうちがう、とにっこり笑いながらふんわり抱きすくめると、熱に浮かされた時のように、安心して目を細めていた。
「あのね、お姉ちゃんがくるしそうだったからまねしたの」
「わたしが?」
「いやなゆめでもみていたの?」
たどたどしい言葉づかいに合わせてゆっくりと話を聞く。どうやら、さっきのびしょ濡れの布巾は、魘されていたわたしを熱が出たと勘違いして乗せてくれたようである。そんなに夢見が悪かったかな、と思い返そうにも中々でてこない。
「いやな夢は思いださない方がいいって昔マイザーが言ってたなあ」
「まいざー?」
「お姉ちゃんのお兄さんみたいな人!」
「!」
お兄さん。その言葉に反応したリリィは目を輝かせている。何だろう、この子に兄妹でもいるのかな。
「リリィも、お兄ちゃんいる!」
「それじゃあ、リリィに似ていい子なのかな?」
「お兄ちゃんとリリィはにてないよ。お兄ちゃんはリリィにパンをくれるの」
「パン?」
「うん!あとね、このまえね、リリィって"もじ"をおしえてくれたんだ」
自分の小さな掌に指でなぞって教えてくれるリリィの顔には怯えの様子は見当たらない。話を聞く分に、リリィがお兄ちゃんと呼んでいる男の子は別な家の子であること、ときどきパンをくれること、自分の知らないことを教えてくれる存在であることがわかる。
「でもね、すこしまえにいなくなっちゃったんだ」
「引っ越しでもしたのかしらね」
「うんー、まえにこのおうちにすんでいたの」
なんとまあ、その男の子は以前ここに住んでいたらしい。かなしそうに語るリリィ曰く、この家に一人で住んでいた"お兄ちゃん"が居なくなってからも、いつか戻って来るんじゃないかと時々この家を訪れていたらしい。その結果、こうしてわたしとおしゃべりしながらソファにもたれ掛かっている。しかし、その"お兄ちゃん"とやらが一人でこの家に住んでいたとは俄かに信じがたい。それなりに広さのあるここに、少年が一人で住んでいたと言うのだから驚きだ。
「お兄ちゃんはね、わらったかおがすきなんだってー」
それを聞くと、ロットヴァレンティーノで出会った一人の青年が脳裏をよぎった。(まさか、ね…)
「さて、リリィ。お話もいいけれど、あんまり遅くまで起きてたらお日様が昇るうちに洗濯物が干せないわ。早いところ寝ましょうか」
脇の下に手を差し込み、ぐっと持ち上げるとくすぐったかったのかリリィはケラケラと笑った。そして、リリィを左手で抱き上げて、右手でソファとベッドの間に置いてある脚の長いランプの明かりを消した。
転がるように二人で潜りこんだベッドは、程よく狭い。悪い夢はもう見たくないなあ。そんなことを思いながらリリィの頭を撫でて、目をそっと瞑った。
「明かりが消えたぞ!」
「待て、まだだ。もうすこし、奴の眠りが深くなったところを狙うんだ!」
ひっそりと、木の陰に隠れる男たちは、夜分遅くに明かりが消えた窓を見つめながら、得体のしれない恐怖に負けないよう、互いを奮い立たせた。
「もうすぐ、始まる…!!」
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