晴れ間に/式の前日

あたたかさが降ってくる



「明日から一人で回ってもらうことになるから」

ついに来た。いつかはやってくるとわかっていたけれど、ついにその時が来てしまった。胸に抱えたクリアファイルが歪んで、ペコっと間抜けな音を鳴らす。書類コピーの帰りしな、ふいにかけられた声に棒立ちになって、デスクに座る先輩の後ろから動けずにいた。

「……野放しにするわけじゃないんだからそんな怯えるなって」

苦笑しながら先輩がわたしのデスクの椅子をひいて座る様に促した。ぎこちなく動いて、やっと座り慣れてきたそれに腰かけて深呼吸する。野放しって、わたし動物じゃないです。だけど怯えてるというか、不安で潰れそうになっているのには間違いなかった。思えば異動してから丁寧に指導してくれた。共に異動してきた同期はほんのちょっとだけ早くに一人立ちしていて、わたしもそろそろか、なんて思っていた矢先のことだった。一人立ちは怖いけれど、もうじき次の新卒が入社してくる。彼らの本配属は大分先だけれど、それまでには立派な一人前にならなくてはいけないんだ。気合入れなくちゃ、と口をきゅっと結ぶと横から紙がするりと滑り込んできた。

「これお前の担当の顧客リストな」

挨拶でもしておけば?と先輩は言い残して、先輩は立ち上がった。椅子にかけたジャケットと、書類の束を持って歩いて行く。そういえば、この後は会議に出るとか言っていた。要するに先輩がいないこの時間から一人で仕事を始めるわけだ。さっき入れたはずの気合が早くも揺れる。えっと、挨拶…挨拶だよね。これからわたし一人が担当になることと、それと、えっと、次は、

「吉川」

電話の受話器を握りしめたまま、声のする方を見上げると、歩いて行ったはずの先輩が隣りに立っていた。

「受話器置け。まず、何か声出せ。さっきから口結んだまんまだぞ」
「あ、」

言われてみて気付く。さっきから先輩の言葉にわたしは何一つ返してなかった。先輩が手にしていたスーツのジャケットを椅子の背もたれに適当にかけた。

「すみません…!」
「いーよ。それより、そんなガッチガチだったら客の方が心配する」
「すみません」
「いいって。もうそれ禁止な。次言ったら……何かバツだ」
「何かってなんですか」
「後で考えとく」

先輩が真顔で言うのがおかしくて、思わずふっと笑ってしまった。途端に肩の力がやわらいだ。本当にガッチガチだったんだな、わたし。わたしの力が抜けたのに気付いたのか、真顔だった先輩の表情も少し和らいだようにみえた。

「大丈夫だよ。俺と一緒に回った所しかないし、新規営業はまだ先だし。向こうもわかってるよ」
「はい、」
「できるな?」
「はい、やります」
「吉川、お前にならできるよ」

お前にならできる。その言葉と、優しげに笑う先輩の表情はまるで魔法みたいだった。じんわりと温かくなるような気分のおかげで次第に落ち着いていく。

「じゃあ、今度こそ行ってくるから。」

頑張れよ、と頭に降ってきたのはあったかくて大きな手のひら。ぽんぽん、とあやすように置かれたそれは再びスーツのジャケットを攫って今度こそ出て行った。じんわり温かかったはずだったのに気付けば発火してるんじゃないかってくらいあつい。前言撤回だ。魔法なんてキラキラしたものなんかじゃなくってただの爆弾だよこんなの!微笑ましげに、というかニヤニヤと遠くで笑っている部長の視線から逃れるように給湯室へと駆けこむ。コーヒーでも飲んで落ち着こう。できるできるぞわたし、落ち着くのだってできるんだ。先輩が会議でよかった、すぐに戻って来られたら合わせる顔がなかった。落ち着けると思い込んでも簡単に引かない熱は頬にほわほわ残ってなかなか消えてはくれなかった。




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