晴れ間に/式の前日

なみだの服を着たさかな



あっという間だった。何が?いろいろと。営業課に移動したからには営業回りをしなくてはいけない。当然のことだけど、まだ一人でなんか回れるわけない。異動してからしばらくたったけど一人で何かをする自信なんて持てなかった。今日から一人で回れって言われたらどうしよう。なんて考えつつ、今日もお弁当にご飯を詰めた。

「今日は竜田揚げです」
「おお、魚か」

可愛らしさの欠片も何もないタッパーをお弁当袋の中から取り出す。異動初日にご飯をおごってもらった縁で今もこうして先輩にお弁当を作っていた。毎日作っているわけではないけれど、週に何日かこうやって渡している。どちらかというとお弁当というよりおすそ分けといった感じだった。先輩にお弁当箱を持っているか聞いたら、「タッパーならある」という答えが返ってきて以来、入れ物にこだわりがないのならタッパーでいいかと落ち着いた。確かに高校時代 タッパーにご飯をギッチリ詰めてきてる男子とかいたし、先輩の家もそんな感じだったんだろう。

営業課は外回りに行ったりするため、全員が揃うのは始業時間くらい。それでも、先輩の下についたわたしは異動してからしばらくはほぼぴったりついていた。だから昼食時に隣りのデスクでタッパーとお弁当箱、それぞれ入れ物は違っても中身が同じそれに気付かれないはずが無かった。「お前、餌付けされてんの?」と同僚に笑いながらどつかれている先輩を見た時には、この人もこういうやりとりをする相手がいるのだとわたしも笑ってしまった。

毎日ちがう表情が見える。それは、今までの先輩のイメージが凝り固まっていたせいなのかしら。自分のお弁当箱に入れた竜田揚げを食べながら考える。ちょっと失敗して黒っぽいそれは苦みが最初にやってきた。朝からトイレットペーパーが切れたと父が騒ぐから、少しだけ油の中で泳がせる時間が長かったせい。先輩のにはうまくいったのを詰めておいた。

「……吉川」
「なんでしょう?」
「ソレ、同じの?」
「同じですよー」
「黒くね?」
「そういう気分の魚もいますよ、長めに浸かっていたいってやつです」
「油に?」
「そうです、油に」

じっとりとした先輩の視線はわたしの目の前に広げたピンクのお弁当箱の中に向けられていた。お弁当を渡すようになってから気づいたけれど、先輩は結構細かいことに気付いてくれる。ぼんやりしているように見えてそうじゃないらしい。さすが営業マン。わたしもそうなっていかなくてはいけないのだけど、やっぱりわたしにはまだまだ難しい。先輩の視線を独り占めしているわたしの竜田揚げは、すこし黒っぽくなっただけだけで食べられないわけじゃない。入れなきゃよかったかな。だけど、余分に揚げる時間もなかったしお弁当の中身が違いすぎたら、それこそきっとこの人は気にするはず。先輩はすこしの間眺めていたかと思うと、それからハアと溜息をついた。

「……そっちとこっち交換しろって言ってもどうせしないだろ、お前」
「よくわかりましたね、正解です」
「知ってんだよ、そういう性格の人間は」
「……彼女さんですか?」
「いないってこの前言ったけど」
「そーでした。じゃあ、元彼女さんですか」
「ちがう」
「じゃあ、どなたですか?もしかしてお母さん?」
「ちがうよ」
「お父さん?」
「消去法で行く気か」
「だって、よく考えたら先輩にお姉さんがいることしか知りませんもん」
「姉しかいないから」

お姉さんしかいない。そのお姉さんもお嫁に行っているとこの前聞いた。ということは先輩はひとり。一人暮らしだとかそういう問題じゃなく、ひとり。なんて声を掛けたらいいのかわからなかった。わたしも大学生の時に母を亡くして、父と二人暮らし。それを誰かに言えば、大変ねって言われる。大変?そりゃ大変です。だっているはずの人がいなくなるのだから。その、大変ねとか頑張ってるねとかいう言葉はわたしには不必要なものだった。ご両親のいない先輩はもっと言われてきたのかもしれない。だとしたら何て声をかけたらいいんだろう。わたしはそういう時なんて言われたら嬉しいんだろう。いつも、そんな言葉かけてくれなくていいのにって思うことはあっても、どんな言葉を掛けてほしいかとか考えたことはなかった。

「ちょっと」

ぐるぐると色んな考えが頭をよぎる中、先輩がわたしの肩を揺すってきた。はた、と気付けば先輩が普段の表情でこっちを見ている。

「え、あ。すみません……!」
「何で謝んの」
「いや、その。」
「吉川がさらっと言うから、俺は言うタイミングが掴めなかっただけだから。隠すつもりとかは全くないよ」
「……さらっと?」
「お前、俺と会って早々に父親と二人暮らしってこと言ってたろ」
「そうでしたっけ」
「そうでした。俺はハッキリ覚えてる」
「わたしは…」

覚えていない。会ってすぐにそんなこと言ったっけ。わたしを見下ろしてなぜか驚いた表情をしていた先輩やタマネギを避けている先輩は覚えているけれど、母がいないことを言った覚えはなかった。それでも確かに、先輩との会話の中では父とのやりとりを話していたし、それを何の疑問も抱いてない様子でこの人は聞いてくれていた。

「わざわざ実は…って話す話題でもないだろ」
「そうですね、確かに何かきっかけがないと話しません」
「そーいうこと。何なら俺の同期も上司もみんな知ってるし、気を使ってほしいわけじゃないから」
「わたしも気を使ってほしくて言ったわけじゃ、」
「わかってるよ」

わかってる。確かめるようにそう言って、先輩はタッパーに入ったおかずを頬張った。もごもごと口の動きが収まると、目を細めて笑った。

「いつもありがとな。ウマいよ」

なんだかすごく泣きたくなって、誤魔化すようにわたしも口に放り込む。放り込んだそれは黒っぽい衣を着た魚で、苦くて涙目になったってことにしておこうと思う。





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