あるまほうつかいのはなし
「まほうをかけるよ。」
あるところにまほうつかいがいました。
まほうつかいはいままでまほうをつかったことは、いちどもありませんでしたが、あるじゅもんをつぶやいたとき、とてもつよいつよいまほうがかかったのです。
「おれしか見えなくなるまほうさ。逃げられやしないんだ、こわいだろ?」
―― あるまほうつかいのはなし
「おれ花井にまほうかけてたんだけど、知ってた?」
「ハア?」
あんまりアレな事を言うもんでリアクションもアレな感じに裏返ってしまった。
田島がおれに乗っかって、変な事を言っている。別にずっとこんな状況を続けていたわけではなくて、今まではちゃんと勉強をしていたのだ。
直前になってテストやばいとか言い出した田島の勉強を見てやりながら、おれは数学の参考書を見ていた。赤点による出場停止は田島も避けたいのでいつも一時間くらいは黙々と教科書に向かっているものの、集中力が途切れるとおれが真面目にやっていようが構わずちょっかいを出してくる。
そんな感じでちょうど襲われた時だ。おれが背中を強かに床へぶつけた瞬間、押し倒す格好になった田島は勉強疲れなのか、頭がぶっ飛んでいた。
人を押し倒しそこへ被さってくる彼は、非常に愉しそうにしている。茶色の填まるくりくりした目を輝かせるさまは、まったく小さなこどものそれだ。
そうして言っていることも、ここではないどこかの国の言語。
「おれ、時たまおまえについて行けねぇんだけど。」
「どんなまほうかけたかわかる?」
「いやだからおれついて行けてない。」
おれがドン引きしているのをわかっているんだろうに、それすら楽しんでいる田島におれは勝てる気がしない。二人きりでじゃれている時の田島はどこかえろい。そうして今も、非常に上手に笑っておれをくすぐるのだった。
「教えてやろうか。」
覆い被さって、おれの顔の隣に両手をついて田島はそっと囁いて見せる。真上の蛍光灯を遮っている為に顔は口許しか見えず、その小さな唇は淫靡に頬笑み言葉を落とす。ほら君はおれの言葉まで奪ってしまった。
「おまえがおれしかみえなくなるまほうさ。」
に、と唇は笑う。最早君を見つめる事しか出来ないおれを、君は笑うんだろ。
「おれを意識しないではいられない様に、おれを目で追わずにはいられない様に、まほうをかけたんだ。おれ、花井が欲しくってさ、色々頑張ったんだぜ。気がついたらおれの事好きになってたろ。」
おれの腹に乗った田島は、右手の指で頬を撫ぜる。そのままつうっと唇までゆくと、下唇を触りながら自分のそれを重ねた。
触れた舌にとうとう見つめる事すらやめたら、瞼を閉じる瞬間に田島が笑う気がした。多分おれは一度だって、彼の魔法から醒めたためしがないのだろう。
キスした時唇と場所を交換した指に顎を引かれ、たっぷり堪能されてから解放された頃には田島は唇を湿らせてやはり笑っていた。
「花井えろい。続き、してもいい?」
舌舐めずりする田島はまほうつかいなんかでなくて、けものか悪魔に見えたのだが、そんなのは言わないでおく。
でもひとにかけたまほうにはリスクがあるというところで、彼はかろうじて人間でまほうつかいたり得たのだ。
「魔法使いなぁ…。」
「なに。」
「そのまほーがとけたらおまえ、どうなんだよ。」
そう言った花井を見て、田島はそれまでの表情を消した。組み敷いて征服した筈と思っていたのに、抽象的な言葉で混乱させてそのまま食べてしまおうと思ったのに、下にした相手は期待したものとは正反対の眼をして自分をまっすぐ見る。
わからないやつって眼をしてまるきりおれに騙されていればいいのに、何故こんな顔をするんだろう。
「まほうがとけたらしぬよ。」
今まで楽しそうにしていたくせに、それに対しては一転田島はつまらなげに言い捨てた。
恋に焦がれてまほうをかけたとして、そうまでするほど焦がれた相手が見てくれなくなった時は、死ぬべきだ。
見てくれるなら偽りでいい。まほうで騙してまで欲しいと思ったその両目が自分から逸れてしまうなら、どうしたってあのひとは見てくれなくなってしまう。
それなら死んでしまったほうが良い。
しばらく付き合っていて彼もそれはわかっている筈なのに、今さらそれを訊くのだろうか。
そもそもさみしがり屋で愛されたがりのこのまほうつかいが人に焦がれた時、それを誓約に作ったのがこのまほうだ。
見ていて欲しい、自分だけのものでいて欲しい。じゃあそれが破られた時は、ひとりでとことこ歩いて行って、海にでも沈むのがいいかしれない。
それはまほうといより鎖。錠。束縛を表すものならなんだっていいが、それは間違いなく罠なのだ。
更には相手の事ばかり考えているようで何にも考えちゃいない自分勝手のそれだから、罠を魔法と言い換えて彼を騙そうとした。
けれどかわいそうな筈のその対象は、勝手な自分を罵ったりしない。かわいそうな目をしない。
だって魔法なんてそんなもの存在しやしないんだから。
「魔法なんかねぇよ。おれはそんなん関係なくて、おれはおまえの事好きになったんだから。んなおまえが気にする事じゃねーよ。」
花井は彼に手を伸ばす。大きな割に薄っぺらの手のひらを、田島はおそるおそる取って頬へぺたんと触れさせた。
ああこのひとはそんなこと言ってくれるから。だから好きになってしまう。
確かにその視線を独り占めする為の努力をした。もともと持ち合わせていた力のお陰で成ったようなものだけど、彼の傍へ積極的に行くようにしたしわざと手間をかけさせるような事もした。
自分は確信犯だ。そうしてこの手の中に入れたのに、それをわかって尚、彼は自分を肯定してくれる。
泣きそうになってしまった。でもぎゅっと目を瞑って堪えると、嘯く事だけどうにか上手にしようと努める。
「…やだなー。」
「はぁ!?」
「んなの言われたらさあ。おれ余計花井から離れらんないよ。」
自分では上手に演技したつもりだったが、花井には田島がちょっと泣きそうになっているのがわかってしまった。
田島は明るくて可愛くてちょっと自由すぎるけれどそこがまた可愛くて、少なくとも自分にはてきめん魅力的に見える。
けれど本当に自由な人間なんていない。彼のように秀でた人間は、羨まれこそすれ、稀であるゆえに仲間も少なく許される事も少ないのだ。
つまり、大変に策略家で努力家の彼に振り回されるのは簡単だけれど、それをさせられるだけの広い心がないと、彼の隣にいるのはちょっと難しいんじゃないだろうか。
自分を誉めているようですわりが悪いけれど、まあそういう事だ。
「もーすげー花井すき。むしろ花井がまほうつかいだよ。」
「わかったわかったからいい加減腹筋つらい」
どちらか言うならふたりして魔法にかかってるんじゃないかな。
名前はたぶん、短く恋で。
―― Bibi de babibe booo!
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