Category:浜田と泉
2013 2nd Aug.
★ かげろう
【高校生と高校生】
薄く雲が拡がる目の前の空を、蜻蛉が一羽横切った。
真っ黒の翅と体をしたやつだ。まだ蝉ががなり立てる夏の夕方四時だから、その色はよく見えた。
夏至はだいぶ前に過ぎ、四時くらいだと少し暑さが残る程度の明るさでしかない。
少し明るいだけの、涼しい夏。すいすいと風の波を泳ぐ蜻蛉の黒い体は、暑く色濃く目映い夏にはえらく似合わない。
人間には、暑さも冷たさも感じない温度があるらしい。ちょうどそんな外気温で、眩しくない昼下がりで、そんな曖昧な世界を泳ぐ黒い蜻蛉のせいだろう、おかしな事を思ったのは。
なぜここに彼がいないんだろうなんて思ったのは。
「泉ー、使っていーよー。」
「…おう。」
じわじわと耳を侵す蝉の声に感覚も淡くなっていく。そこに名を呼ばれ、久々に見た現実はグラウンド端の水場だった。
部活の小休憩の合間に顔を洗いに来たんだった。タオルで雑に水気を取る田島が空けてくれたので、ぼんやりしながらそこへつく。
蛇口を捻ればぬるい水が溢れて出て、頭を下に入れてそこから水をひっ被る。
そうしてすぐに冷たくなるそれに目を閉じた。髪からぱたぱたと垂る滴もあれば、頭皮からずっと皮膚を伝って鼻先にくるやつもいる。
じわじわと、頭が冷える。いい加減で水を止めて目を開けたが、世界はさっきと何ら変わっちゃいなかった。
「泉今日なにお握り?」
「塩ジャケ。」
「うぇーいいなー!泉鬼ごっこ系だけは得意だもんなー。」
「だけっつーけどおまえはナニ得意なんだよ水谷。」
結局ふわふわしたおかしな感覚のまま部活も終わりになってしまった。
ゲームの成績順に振る舞われる豪華中身のお握りを待ち、ベンチ辺りにたむろしていると、しばらくして篠岡がそれらを運んで来てくれた。
否、もう一人いる。女子ではまずあり得ないその身長と、電灯の光を吸ってうるさいくらいに金色に光る髪を見て、オレは一瞬息を止めた。
「えーと、成績優秀の泉クンは、塩ジャケだって?」
「…ん。」
「まあまあの水谷クンはごま塩な。」
「ヒトコト余計!」
「浜田、」
「はいはい、配膳したら飲み物持って来るよ。」
辺りはとっぷり日が暮れて、手元に落ちる光と言えば電灯くらいなもんだけど、そいつが仕方ないなと笑う顔は細かいところまでよく見えた。
他のお握りを配膳したらと再び立ったそいつは、部員数が少ないからすぐ終えて戻ってきた。
オレが隣をとんとんと叩くと、ジャージ姿のそいつは地面でも構わず腰を下ろす。
「バイトは?」
「お客が少なかったんで早退けさせてもらった。んで篠岡の夜食作り手伝ったら、ホラ。」
「…ちゃんと余ったやつだろうなァ、」
「そりゃもう。野球部にはホントお世話んなってますゥ。」
部活に参加したわけでもないのにオレたちと同じようにお握りを頬張るので問い詰めたら、マネージャーの手伝いをした際、余った材料を現物支給でもらったらしい。
ふざけた調子でそいつが言うのを、コップを傾けながら聞いていた。
どうして。
こいつはオレの隣でこんなに楽しそうに笑ってるのに、同じ練習着を着てないんだろう。
オレの左手に少し触れている右手の指は、どうしてボールを握ってくれないんだろう。
どうして。
どうして、こんなに違ってしまったんだろう。
理由なんて簡単で、オレにはどうしようもない事だとわかっている。
それでも、彼が居た二年前の夏を思ってしまった。誰よりも眩しかった姿を思い出してしまった。
一度強く目を閉じて開く。ちょうど解散を告げる声と重なり、それぞればらけ始めた影のうち傍にいた彼を呼び止める。
またマネージャーの手伝いに行くようだ。きょとんとしてオレを見る彼の目を、真っ直ぐ見るよう意識した。
「浜田。」
「なに?」
「甲子園、連れてってやるからな。」
空は真っ黒の夏の夜。真っ直ぐ見つめてそう言うと、わりと大きめの目を丸くしていた彼は、くしゃっと笑って答えてくれた。
「おう。絶対な。」
嬉しそうに嬉しそうに、ほんとうに嬉しそうにそう言った彼を焼き付けるように、オレはぐっと強く強く、目を瞑った。
彼と並んで立ちたい場所があった。でもそれは、少し形を違えても、目標である事には変わらない。
今やそれを叶えてやれるのは彼でなくオレだ。いつも傍で応援してくれる憧れの人を夢の向こうへ連れていく為、オレは再び目を開けて自分自身にも言い聞かせるよう任せろと彼に契って見せた。
―― phantasmagoria.
一年365題より
8/2「電波」
変な電波受信したんでしょうきっと。
蜻蛉の字は「トンボ」のつもりで打ったんですが、「カゲロウ」でも変換が出るのでお好きにお読みください。
黒い蜻蛉は黒羽蜻蛉というんだそうです。今年は近所でなぜかたくさん飛んでます。
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