「……なんて、昼からいけませんよ。それにこれは今晩の月見用に買いに行ったものじゃありませんか」 階下から声が聞こえた。 幼さの残る少年の声――さっき下にいた、コノシロくん、だっけ? 声はぼくが向かう台所のあたりから聞こえてくる。誰かに向かって話しているようだ。堂々と入っていくのも憚られて、ぼくはのれんの間から覗き込んだ。彼はこちらに背を向けていた。 相手はあの女の人だ。じいちゃんのところへ案内して、このコップを部屋まで運んでくれた、あのちょっとふっくらした美人さん。 女の人は空き缶を胸の前に両手で包み、ふわふわ笑って話を聞いていた。 「冷たいものをお出しするよう言いつけたのは私ですが、あなた、だからといってあなたまでこんなにしてしまって」 一回り以上年の離れていそうな相手にお説教をする少年……なんとなく、立ち入れる雰囲気じゃない。 そういえば、この二人についてじいちゃんから、詳しい話を聞き出せなかったな。親戚、というわりに二人ともあまりじいちゃんと顔は似ていないみたいだ。堅物一点のじいちゃんと雰囲気も全然違う。――もしかしたらじいちゃんの亡くなった奥さん側の親戚なのかな。ぼくはあんまり知らないけど。 と、覗き見ていると、女の人のほうがこちらに気づいた。 目が合うと、彼女はにんまりと妖しい笑みを浮かべた。八重歯が唇の端にちょっとだけ覗く。白い歯は健康的というより、唇の紅さが目立ちかえって妖しい。 ――おたふくに、似ているんだな。ぼくは唐突にそう思った。初めて見たときなにかに似ていると思ったけど、目を細めて笑う感じがなんとなく、おたふくの面に似ているんだ。 「聞いていますか」 女の人の視線をたどり、コノシロくんもこちらを見た。 丸っこい目が二、三度瞬かれる。 「おや、こんな所にどうしました」 その声はやわらかく棘のないものだったが、立ち聞きをしてしまったみたいでちょっと後ろめたい。若干のバツの悪さを感じながらぼくはのれんをくぐった。 「コップを返しに。――それと、帰るついでに酒を持ってけって」 ぼくの台詞に二人は顔を見合わせた。 「お酒というと、お寺でやる例のあれですか」 コノシロくんがぼくに確認して聞いた。 「あ、はいそうです。お月見のときの」 また顔を見合わせる二人。なにか変なことを言っただろうか? 「えっと、とりあえず持っていきますね」 なんとなく居心地が悪い。首につたう汗を手の甲でぬぐう。 要件を済ませて早く退散しよう。そう思い台所に足を進めると、さささっと、女の人のほうが冷蔵庫を遮る位置に移動した。 「あの……?」 女の人がにっこりと笑う。 ……その後ろ手には冷蔵庫の扉を押さえているのが見える。 「私たちがお寺までお持ちしますので」 コノシロくんがぼくの前に割り込み、中途半端に伸ばされたぼくの手からコップを受け取った。 「いや、でもそんな」 「小堺は這ってでも行きたがるでしょうから。もののついでです」 「助かりますけど悪いですよ」 「若い人が遠慮なさらず」 いや、ぼくよりきみのほうが若いだろうに……。 どうしたものかと困惑していると、沈黙を納得したものと受け取ったのか、彼は顔をほころばせてしみじみと言った。 「月見酒だなんて粋な集まりですね」 「そんなあれじゃないですよ。宴会とか酒盛りって感じで、みんなあんまり月なんて見てないし」 「そんなものですよ」 「そう、ですかね……」 彼と話していると自然と敬語になってしまう。ぼくよりも年下に見えるのに落ち着いてるというか、老成しているというか……話好きのおじいさんみたいだ。 「よければ私たちも参加してよろしいでしょうか」 「私たち?」 「ええ。私と、彼女」 その言い方になにか引っかかるものがあった。この二人はどういう関係なんだろう。姉と弟、とか? 親子というほど年が離れているわけでもない気がする。年の差婚が流行ってるとはいえ、まさか恋人ということはないだろう。コノシロくんとかぼくより年下だろうし、まさかそんな……。 「あの、大丈夫でしょうか?」 「……え?」 しまった。上の空になっていた。 「酒、ああ、たぶん大丈夫だと思います。身内の飲み会みたいなもんだから、つまんないかもしれないけど。飛び入りでもたぶん、大丈夫」 彼はいぶかしげに眉をひそめた。 「いえ、会ではなくあなたが。顔色が悪いように見えますが平気ですか」 「え?」 言われて額に手をあてる。汗でじっとりと濡れていた。九月とはいえ残暑はまだつらい。(この暑いのにクーラーを買わないなんて。こういう意地っ張りな老人が熱中症にかかるんだ!) 顔色が悪いなんて自分では気づかなかった。そういえばさっきから顔がかっかと熱い気がする。 熱いのは暑さのせいだ。 back |