最初、店を間違えたのかと思った。 本を積み上げた会計台には、いつもなら七十を過ぎた“堺屋のじいちゃん”が座っているはずだった。それなのに今は、“見知らぬ少年”がその位置におさまっている。あまり広くないほこりっぽい店内、本は山のように積まれているのにお客がいないのは、いつものこと――そう、いつものことだ。 ……違うのはこの少年の存在だった。少年は浅い色の着物を着ていて、それが古本屋という背景に絶妙に溶け込んでいる。声をかけようかどうしようか。少年はごく自然に会計机で本を読んでいるが、その姿にはまったく見覚えがなかった。 と、扇風機に煽られるページを押さえたところで、彼はそこで初めて顔を上げた。ぼくと目が合う。不意を突かれたその顔は予想よりも幼い。ぼくの妹と同じくらいだろうか。 「こんにちは」 反応したのは彼の方が先だった。声変わりしたばかりような声だ。汗をぬぐい、一拍遅れてぼくも軽く頭を下げる。 「あの、」 「なにかお探しでしょうか」 ぼくと彼とで台詞が重なる。図らずも互いに譲り合う形になる沈黙に、相手はただ静かに笑った。ぼくはといえば未だ半信半疑で、ぎちぎちに詰め込まれた書棚に視線をさまよわせた。 ここ、本当にじいちゃんの――堺屋書店でいいんだよな? 表の看板を確認してこようか、と考えた矢先に、少年が立ち上がった。本を置いてぼくのほうへ歩み寄り、 「失礼ですが、もしかして、お寺の方でしょうか?」 彼は控えめに聞いた。え? とぼくは一瞬面食らい、何も考えず返事をした。 「そう、ですけど」 「では小堺にご用ですね」 コサカイ――とはたしか、“堺屋のじいちゃん”の名字だ。みんな「堺屋」と呼ぶからぼくは、物心ついた後もしばらくはそれが本名だと思っていた。 というか、この子は誰なんだ? 本当に、初対面のはずなのだけど……ぼくのどこにお寺的な要素が出ていたんだろうか。坊主の名札(つるつる頭や袈裟やなんか)をつけて歩いているわけじゃあるまいし。 「なんでわかったの、ですか」 雰囲気に呑まれてつい不自然に敬語になってしまう。そんなに年は変わらないはずなんだけど、どことなく大人びているというか、見た目以上のなにか感じる……ような気がする。 少年は着物の両袖に片方ずつ手を差し入れた。 「いえね、小堺がここ最近、寺の次男坊が来ないとぼやいておりましたから。ご用は今晩のお祭りの件でしょう? だとしたらもう来る頃かと思っておりまして。それにあなたはほんの少し、御焼香の香りがします」 ぎょっとしてぼくは思わず自分の身体のにおいを嗅いでしまった。そんなに抹香臭いだろうか。たしかに焼香ってにおいがつきやすいけれど。 「大丈夫ですよ」、と少年はにっこり笑った。なんというか、今日といい昨日といい、最近のぼくはやたらと察しのいい人と出会う気がする。 「どうぞどうぞ、お上がりになって。あいつは二階で待ちわびているはずです。 ――小紅、お客さまです。ご案内を」 少年が言った。案内もなにもよく知ってる店なんだけどな……。しかしぼくが口を開くより早く、店の後ろの障子がすっと半開きにあいて、ぴょこん、と誰かが顔をのぞかせた。立ち聞きを疑う早さだ。苦笑しながら少年が残りの半分を開く。 「なにか冷たいものをお出しして」 そうやって気軽に言いつける相手は――女の人だ。それもやっぱり知らない人。 ふっくらしていて色の白い美人。熟女だ、と思った。実際には少年のお姉さんか、いっても母親くらいの年なのだろうけれど……今どき見かけない白い割烹着を着ているせいだろうか。ひざを折って畳に座る姿はまさに昭和という感じでちょっとどきっとする。 「えっと……おじゃまします」 ぼくが恐る恐る声をかけると、女の人は目を細めていかにも妖しげに微笑した。その笑みを見てなにかに似ていると思ったが、どこで見たなんだったのかが出てこない。 おいでおいでと、不釣合いに子供っぽい仕草に急かされる。 少年の横を通り過ぎる一瞬だけ、扇風機の風がぼくの頬をかすめた。手のひらで首もとの汗をぬぐう。この暑いのにクーラーも入れないのは『九月は秋』と言って譲らないじいちゃんのこだわりのせいだ。熱気の外から飛び込んできても、あの「生き返った!」という心地が全然しない。 ――見慣れぬ少年と女の人の組み合わせ。勝手知ったる様子でいるこの二人は、いったいじいちゃんとどういう関係なんだ? 脱いだサンダルを揃えながら、今さらながら不思議に思った。 ***** 「なんでもっと早う来ん」 「だからここんとこちょっと忙しくってさ」 何度目かの同じ台詞を受け流す。 堺屋のじいちゃんを相手にしていると『年をとれば丸くなる』なんていうのは嘘だと思い知らされる。ぼくの小さいときから頑固じじいで早十余年。そもそも、じいちゃんはぼくが小さいときからじいちゃんだったから、この先頑固が直ることはないだろう。 「じいちゃんもう年なんだから無理するなよ。捨てられてた古本の束持ち帰ろうとしてぎっくり腰なんてさあ」 「んなわけあるか! 棚卸ししようとしたら腰にきたんだよ!」 「ひのき屋のばあちゃんは『拾おうとしたのは本じゃなくてテレビ』って言ってたけど」 「商店街のやつら、人の弱みに付け込んでいいように噂しやがって」 じいちゃんはぶつぶつ言って、腹立たしげに膝を打ち、 「ほわっつい」だとか奇天烈な悲鳴を上げて腰を押さえた。 ……ぎっくり腰というところは本当だったようだ。どうも伝言ゲームのように事実から離れて、噂が曲解していったらしい。ぼくはここに来るまで、本もテレビもどちらもありそうな話だと思っていた。(じいちゃんちテレビないからな……) でもそれも大事がないようで安心した。座って話ができるくらいには回復しているなら大丈夫だろう。 ぼくはさっきの女の人が持って来てくれたパインジュースを飲み干した。ちょっとすっぱい南国の味に、生き返った心地がする。パインソーダなんて珍しいな……今まで飲んだことのない味だ。 「それでじいちゃん、用事ってなに? 父さんからお祭りの関係だって聞いてるけど」 ぼくはそう切り出した。今日は別にお見舞いに来たわけではない。先週末に堺屋のじいちゃんから電話があって、うちから人を遣ってほしいと言われたんだ。――うち、とは他でもない金屈寺(きんくつじ)のことである。ぼくの家はお寺なのだ。 「どうせならその父さんのほうに出張って来てほしいもんだ」 「こっちはこっちで忙しいんだって。祭り前でただでさえ忙しいのに、このところ残暑のせいかやたらに不幸が多いから」 「それならそれで呼んだら来い」 本当に執念深いじいさんだ。高校生だって毎日部活や塾で暇じゃないのに。……まあ、ぼくは部活も塾も入っていないけれど。 「まず酒だ。今晩の酒ぁ冷蔵庫に入れとるから、持ってってくれ」 「え〜! それじいちゃんちの担当じゃん。使いっぱしりかよ」 「阿呆か、俺ぁ腰ぎっくりだぞ。か弱い老人だ。……まあ、それはええ。お前んとこに電話したんは別の用じゃ。用事っちゅうのはな――」 と、ここでじいちゃんは座布団ごと器用に回転して、後ろに積んだ本をどけはじめた。床の間にまで本を積んでいいのだろうか。 ぼくはうちわをあおぎながら待った。飲み物を飲んでもまったく涼しくなった気がしない。むしろ暑さは増しているようにさえ思える。(この暑いのにクーラーを買わないなんて。こういう意地っ張りな老人が熱中症にかかるんだ!) 「――待たせたな。これだ」 そう言ってじいちゃんが机の上に取り出したのは、箱だ。 どう見ても箱にしか見えない。かつては丹塗りだったらしい。かなり古いもののようだ。赤い塗装の大部分が剥がれて下の木目が露出している。習字の半紙を入れておく箱を連想した。ちょうどうちにあるものと同じくらいの大きさだったのだ。元々はかなり高級な箱だったんじゃないだろうか。 「これが用事?」 「おう。そいつを神社まで届けてくれ」 確認も早々に、自分のそばに置いておくのも嫌というふうに、じいちゃんは箱をぼくのほうへと押しやった。 「ちょっと待って。これなんなの? なんで神社?」 「あー……まあ、あれだ」 話せば長くなる、と。 人生で一度は使ってみたい言葉だ。 「いや、話してくれなきゃ困るって」 「うるせえ坊主だなあ。この夏あいつらが越して来たとき部屋がいるってんでよ、物置を整理してたら、ひょっこり出てきたんだそいつが。コノシロが言うには祭事に使われてたもんだろうっつって」 ……全然長くないじゃないか。 それにしても『越してきた』? 『コノシロ』? 『あいつら』とはさっきぼくを出迎えた少年と女の人のことだろう。とするとなんだ、あの二人はこの堺屋のじいちゃんちに住んでいるのか? 「あのさ、店先にいた二人ってじいちゃんの親戚? それかヘルパーさんかなにか?」 ――さっきは部屋に入るなりじいちゃんが怒鳴りつけるから、聞く暇がなかったんだよな。 「うん? まあな。遠縁の親戚っちゅうか友人の縁っちゅうか……まあ俺が腰やっちまったって言ったら面倒見に来てくれたわけよ。お前には関係ないこっちゃな」 これはなにか隠しているな。 ぼくはそう直感した。いつもならヘルパーなんて冗談に噛み付いてくるに決まっているのに。二人が『夏に来た』なら『今月腰を痛めた』じいちゃんの介護に来るはずがない。野次馬根性で詮索しようとしたのを見抜いてかじいちゃんは 「で、問題はこの箱だ」と話題をそらした。 ますます怪しい。が、それは後からでも聞けるだろう。 今は押しつけられた箱の中身がなんなのか気になった。じいちゃんがわざわざ用事と言って寺に連絡を入れるくらいだから、よっぽどの『なにか』なのだろう。 「開けてもいい?」 ぼくの問いにじいちゃんは少し考えて「まあええじゃろ」と軽く返答した。 箱に手をかけた。見かけよりぴったりと閉まっているようで、両手を使わなくてはひらかなかった。 開けた中には半透明の薄い紙に包まれた『なにか』が収まっている。かなり気を使って梱包されているようだ。何枚にも重なった紙を開いて、ようやっと最後らしき一枚へたどり着いた。薄い白が透けている……お皿か何かだろうか? 最後の一枚を開く。中の『なにか』を直視して、ぼくは思わず悲鳴を上げるところだった。皿どころか、 箱の中には大皿ほどの顔が宙を睨んで収まっていた。 back |