「――ああ、見舞いに来たときの……」 「そうだ」 キッタくんは言いかけたぼくの言葉を先取りした。「ここは君が僕を見舞いに訪れた部屋。つまりは僕の前の部屋だ」 「あれ? でもキッタくんの部屋って二階の」 「そうだよ。二階の205号室。でもここは僕がいた部屋だ」 「同じ形の」 「同じ形の部屋じゃない」 キッタくんは矢継ぎ早にぼくの言葉を遮る。 「『同じ部屋』なんだ。僕の今の部屋を見ただろう? 立派なソファセットに広い部屋。部屋の形ごと変わっているじゃないか。しかし、僕の部屋は一ヶ月前も今も、205号室、階段を上がって右に曲がった角の部屋だ。部屋を移ったわけではない。――となると、僕が部屋を移ったんじゃなくて、部屋の方が場所を変えたんだ」 「ちょっと待って。なに言ってるか全然わかんないんだけど」 「このホテルの空間はねじ曲がっているんだよ」 キッタくんはこともなげに言った。 「だから二階の部屋が丸ごと他の部屋と入れ替わっていてもおかしくはない」 「そんなこと――」 「あるわけがない」 ぼくの台詞を先回りすると、キッタくんは薄く笑った。 「そうだね。僕もそう思っていたよ。けれどこればっかりは自分の身に起きたことだからね。ひとまずそういう仮説を立ててみたんだ。自分でも荒唐無稽な仮説だと思うが、しかし説明はつく。調べた限りでは部屋自体にはなんの仕掛けもなかった。それにここ――」 と、カーペットの染みを指さす。「――僕がコーヒーをこぼした跡がそのまま残っている。同じ部屋なんだ。そっくりそのままね」 そんなことを言われても、ぼくにわかるはずがない。そのことはキッタくんの方も重々承知しているのか、深く語らずに先を続けた。 「このホテル――ムーンサイドホテルという場所は、おそらく『禁后』と同じように、建物の形をしたパンドラの匣なんだよ。得体の知れない災厄と呪いが渦巻く場所。そんな匣の中のことだ、なにが起きても不思議ではない」 だからさTくん、とキッタくんは目を細める。 「君が僕を見舞いに来てくれた、その前のことだ。僕は、この部屋から出られなかったんだ。ドアを開けても開けても、同じ部屋が続いていてね。君がそこのドアをノックして初めて、この部屋は廊下につながったんだ。僕には君が救世主のように見えたよ」 「……からかってるんでしょ?」 ぼくはやっとのことでその一言を絞り出した。 「オレのこと、からかってるだけでしょ? そんな無茶苦茶な話、いくらオレでも騙されないって」 「これは『騙り(カタリ)』じゃないよ」 そう言ってキッタくんは肩をすくめた。 「僕なりに真実を語ったつもりだ。君なら信じてくれると思ったんだけどね」 「信じてって、そんなこと言われても」 困るよ、とぼくは言葉を濁す。 「なぜなら君は『寺生まれのTくん』だ。人には見えないはずのものが視える。君は最初、僕にそのことを話したがらなかったね。それはおそらく経験がそうさせるものなのだろう。視たものや体験したことを信じてもらえない。そういう不安、あるいは過去の経験があったからだ」 キッタくんはとつとつと語る。 「そういう君なら相手の言うことを簡単には否定しない、そう思ったんだ。だから話したんだよ。『信じてもらえないかもしれない』、そう悩んでいるのは君自身も同じであるはずだからね。――Tくん、今朝になって君は急に僕を訪ねてきたね。わざわざこのホテルまで来るくらいだ、学校では話せないような用事なんだろう。それも自分から来ておいてなかなか切り出しにくい様子だ。君が話したいこと――それは君の体質、あるいはそれに起因することなんじゃないか?」 なにもかも見透かしたような、その瞳にぼくの胸はざわついた。 「そんなこと、勝手に決めつけないでよ」 「僕が気づかないと思ったのか?」 キッタくんが立ち上がり、ぼくを正面から見据える。 「このホテルに来てから君の挙動はかなり不審だぞ。目線が落ち着かない。ありもしない方向を見ては目をそらす。どう見ても挙動不審だ。それは『見えないなにかが視えてしまう』君の体質のせいだ。違うのかい?」 「違う!」 反射的に否定する。けれど次の言葉が続かない。 自分でもどうしてこんなに感情を揺さぶられているのかわからない。でも、駄目だ。胸の中でいがいがとしたなにかが、空気を吹き込まれたように張りつめて、ぼくを内側から圧迫する。 キッタくんはそんなぼくをじっと見据えている。その視線が痛い。なにか、なにか言い返さないと。気持ちばかりが焦り、言いたいことがまとまらないまま、それでも口を開く。 「さっきから、キッタくんの話はわけわかんないよ。空間がねじれてるとか、見えないものが視えるとか。きみがどう思ってるかは知らないけど、ぼくはそんなんじゃない」 言いながら、自分の口元が引きつっているのがわかった。 「なにをムキになっているんだい」 キッタくんが静かに言った。 「人には見えないものが視える、そう僕に話してくれたのは君自身のはずだが」 「それはそうだけど、ぼくは――オレは、なにもみたくなんてないんだ。だからなにも、みてなんかないし、みえないし。オレは――」 「なにをなさっているんですか」 ――飛び上がるほど驚いた。後ろだ。後ろから急に声をかけられたのだ。 ふと視ると、開けたままのドアのところに男の人が立っていた。 たしかフロントで受付をしている人だ。これまでも何回か案内してもらったことがある。寝ているところを火事場から逃げ出してきたような服装で、いつも頭をおさえているから、さすがのぼくも顔を覚えてしまった。 「この部屋は立ち入り禁止です。どうして中に入っているんですか」 彼はなぜかキッタくんではなく、ぼくに向けてきつく問い詰めた。 どうしてぼくなんだ? さっきまでの勢いを削がれ、キッタくんを見る。「なんだい?」と不思議そうな顔。……どうやらすっとぼけるつもりらしい。 「聞いていますか。お客さま、困りますよ」 「すみません。ええと、道に迷っちゃったみたいで……?」 仕方なくぼくが答える。 フロントの人の目が疑わしげにぼくとキッタくんを行き来する。そりゃそうか。部屋の鍵、かかってたし。……それにしばしば忘れそうになるけど、キッタくんは女の子なわけだし、男女がふたりっきりで部屋にってのは変な目で見られるだろう。「そんなあれじゃなくって、ほんとに、道に迷っただけで……」 「とにかく、困ります」 フロントの人はなおもぼくの方を見て苦言を呈した。……ここまで連れてきたのはキッタくんなのに。納得がいかない。ひとまずここはおとなしく立ち去るのが良さそうだ。 「もう行きますから。ほら、キッタくんも」 「なにがだい?」 ぼくは一瞬呆気にとられた。なんて図々しい人なんだ! 「怒られてるんだからいい加減戻ろうって」 「怒られるって、誰に?」 「誰にってこの……え?」フロントの人は、入り口のすぐ内側に立っている。ぼく一人を挟んでいるといっても、キッタくんから見えないはずがない。 「……この人だけど」 「僕には誰の姿もみえないね」 キッタくんは淀みない口調でぼくに言う。その目には入り口に立つ男のことなどみじんも入っていないように思えた。「僕には君が入り口に向かって独り言をしゃべっているようにしか見えないよ。ひとりでなにを話しているんだい?」 「いや、ひとりでって……」 ぼくは唖然とした。キッタくんの言葉の意味をはかりかねる。「ひとりで話してるように見えるって、なに言ってんの? この人のこと、見えてないわけ?」 「みえないね」「みえないんですよ」 キッタくんとフロントの人が同時に言った。 「僕には誰の姿も見えない」 「私は死んでいますから」 「さっきから君は誰と話しているんだ?」 「幽霊なんですよ。あなたは視えるようですが」 「このホテルには死んだ従業員の霊がさまよっている、そんな噂があるそうだね」 「このホテルで死んで以来、ここで雇っていただいています」 「たしか前にも話しただろう? ほら、教室で一度。開業を目前に館内で事故死した従業員がいると。死んだ従業員は中年の男性だったようだね」 「私はこれで腕利きのコンシェルジュで売っていましたからね。しかし着替え中に『不慮の事故』で落下した資材に潰されまして。その衝撃で首が」 ほら、と彼は頭を押さえていた手を離した。その首がぐらり、傾く。そのあまりの光景にぼくの口から「うわっ」と声が漏れた。 「――不便で困ります」 だらり、不自然な角度で折れ曲がった首が、ぼくに向かって言った。 幽霊? モンスターホテルの幽霊? これが? ぼくは後ろ向きに後ずさった。キッタくんの肩にぶつかる。そんなぼくの足首を誰かが掴んだ。――誰が? キッタくんじゃない。直立した状態でぼくの足首まで手を伸ばすなんて不可能だ。もちろんドアの前にいるホテルの人の方でもない。 ぼくは視線を落とした。しっかりと、掴んでいる。薄汚れた軍手の手だ。腕はたくましく、腕はぼろきれのような布に包まれ、腕はベッドの下へと続き――ベッドの下に、誰かいる。 それに気づいた瞬間、背筋が凍った。ぼくは反射的に顔を上げた。すぐ目の前に、首の折れた男の手が伸びてきている。ぬっ、と喉に、見えないつららを差し込まれたような感覚が走る。 「ドウシタンダイ ティークン……」 キッタくんの声だ。キッタくんの声が、耳の奥で反響した。 手袋の白が視界を覆い隠す。手袋、たぶん、ぼくにしか視えない手袋が。 back |