07





 いつからだろう。たぶん生まれたときからだ。昔から、人と記憶が合わない。ぼくが覚えていることと人の言うこととの間に、食い違いを感じる。……ぼくは、自分がみている現実と幻の、あるいは人間とそうでないものの区別がつかない。あまりにも『現実ではないもの』の方がはっきり見えてしまうから、それが異常だと気づくには少し時間がかかった。――「みえすぎるのも困りもの」、本当にそのとおりだ。自分で視力をどうこうできないように、ぼくにこの力をどうにかすることはできない。
 目をひらいている限り、絶えず風景は流れ込んでくる。
 もしもぼくに、自分の意志でそれをどうにかするだけの力があれば、違ったんだろうか。見ないように、視えないように、目を閉じて。そうすることができれば、今みたいに考えることはなかったんだろうか。――わからない。そんなふうに考えたところで、今日も視界は良好で、死者は常に隣にあって、化け物は当たり前のようにそこにいる。話しかけてくる相手が人間なのか、それとも化け物なのか、それすらも曖昧で、わからない。

 だからイチ兄は家を出たんだろ。
 母さんが死んで。死んでも、視えるから。

 ぼくはそう幻想の兄に問いかける。兄は――イチ兄は帽子のつばを深くかぶって、リュックを背負っている。イチ兄が家を出た、そのときのままの格好だ。背景には我が家の山門。これはあのときの再現だ。イチ兄はちょっと旅行に出るくらいの軽装で出かけて、そのまま帰って来なかった。ぼくら四人の兄弟と両親、家を置いて――その兄はいま、ぼくに向かってきっぱりと首を横に振った。

 じゃあイチ兄はどうして家を出たんだよ。
 ――それが寺生まれの宿命だからな。

 兄は在りし日の声で答えた。

 宿命?
 ――そうだ、宿命だ。
 宿命ってなんだよ。
 ――寺生まれとして、俺には果たすべきことがある。
 じゃあオレもいつかは宿命でこの町を出るの?

 少し間があって、兄の返答があった。

 ――次郎、それはお前が決めることだ。俺はこの宿命を背負っていくことを自分の意志で決めた。なにを宿命とするかは自分で決めるんだ。
 そんなこと言われても、わかんない、わかんないよ兄ちゃん。

 だってイチ兄は昔からすごくて、なにやっても大体こなすし、すごい力もあるじゃないか。除霊だってできて、みんなから頼りにされて、慕われて。
 オレにはなんにもないのに。
 視えるだけで、こんなのなんにもならない。
 だってそうだろ?
 視たくない。視たくなんてないんだ。本当は、ずっとそう。知りたくない。もう嫌なんだ。だって、なにもないんだ。視えたってなにもできない。それで誰かを救えるわけじゃない。なんにもならない。オレにはなんにもできないんだ。それならなにも、なにもみえないほうがずっとましで、視たくないし、知りたくなんてない。

 駅のホームの暗がりが無性に怖い理由、溝の上を歩くとき知らず知らずに早足になる理由、父さんが一ツ目に見える理由、――母さんが死んで、死んでるのに、生きてる理由。

 オレはね、たぶん首を絞めたんだ。あの月祭りの晩、神社の祭祀で人の首を絞めたんだ。この手首の傷はそのときについたものなんだ。あの鬼の面をかぶって、取り憑かれたようになって。相手は……相手は死んだのかもしれない。どうなったのかわからない。そもそも本当に、現実にそんなことが起きたのかすらオレにはわからないんだ。「お前は知らなくていい」「お前が心配することじゃない」、そんなふうに父さんは言うけどさ、オレはどうなって、なにをした? わからないんだ。怖いよ。
 たすけてよイチ兄。子供のころ、オレを助けてくれたみたいに。また「心配するな、安心しろ」って言ってくれ。どうして家を出たんだよ。なんで、いつの間にか、いなくなったことになってて。
 オレはイチ兄とは違うんだ。イチ兄みたいに強くない。除霊したり、手から気を放ったりとか、化け物と渡り合えるような、そんな力はなにもないんだ。
 なにもできない。だったらこんなの意味がない。

 みたくなんて、ない。

 ぼくは頭を抱えてうずくまる。兄がしゃがみ込むのが気配でわかった。
 そして肩に手が置かれた。あの日ぼくを支えてくれた、たくましい、強くあたたかい手だ。ぼくにはまるで、現実に兄がそうしてくれているように感じられた。

 イチ兄。
 ――次郎、お前は……
 わかってるって。わかってるんだ。
 イチ兄も、偽物なんだろ。ぼくのみている、現実ではない、幻だ。

 顔を上げる。そこには誰もいない。兄の姿も、山門も、あるはずものはなにもなく、ただぼんやりと霧がかった、どこでもない景色が広がっているだけだ。まるで最初からなにもなかったようだ。そして事実、そこにはなにも、誰もいない。

 ほら、やっぱり。
 
 知らずと笑いがこみ上げる。
 ここにはいない兄が現れて、愚痴を聞いてくれて、最後にはなぐさめてくれる。みえない景色をさも現実のように勘違いして、現実のように幻視する。それこそなんにもならない、自分に都合がいいだけの、意味のない幻だ。
 やっぱり視えたって、なにもいいことなんかないじゃないか。
 こんなもの、むなしいだけで、なんにもならない。
 ぼくはそれを知っている。嫌というほど、知っている。

 だからなにもみたくないし、なにも知りたくない。
 みないふりをして、忘れたことにして、そうする以外になにができるっていうんだ?

 うすく霧がかった視界に問いかける。
 答える者がないことだって、ぼくはちゃんと――知っている。





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