「世莉…大丈夫?」
着替えを済ませ更衣室を出ると、稔さんがすれ違いざまに声を掛けてきた。その心底心配している声色や様子に、何とも言えない怒りを感じる。
「稔さんは…さっきの悠聖さんを見て、それでも気持ちは変わらなかったんですか?」
オレや稔さんが知ってる悠聖さんはあんな事を言う人ではなかった。ハッキリ言ってオレは悠聖さんに幻滅したんだ。憧れてたからこそQueenを捨てた事を許せなかった。
そして今度は、Stellaの人間にまで適当な事をしようとしている。
けど、稔さんは…。
「…変わらないよ」
答えは分かっていたような気がした。それでも聞かずにいられなかったのは、稔さんがオレの気持ちを理解してくれてると思ったからだ。
「…くっ!」
気持ちが変わらないと言う稔さんが、どうしようもなくムカついて…どうしようもなく羨ましくて――
「だったら、オレの事なんか心配しないでくださいよ!」
「世莉…!」
震える唇が優しい人を傷つける。
稔さんほど、今のオレの気持ちを理解してくれる人はいないだろうに。そうだと分かっていても突き放す言葉しか出てこないのが苦しい。
どんどん自分が嫌いになっていく――
もう、限界だった。
何が正しくて、何が間違えてるのかもわからない。オレは今まで何を信じてホストをしてきたんだろうか。Queenを出て実感したのは自分の力不足と、信じていたこの業界のルール。
ナンバーワンになって見てきたオレの世界は一体なんだったんだ――
(京介…)
京介に会いたくて、まだ閉店したばかりのQueenに向かった。意地やプライドよりも、寂しさの方が勝っていて堪えられなかった。
走りながら「会いたい」と送ったメール。
「世莉!」
その直後に聞き覚えのある女の声にハッとして立ち止まる。
「ゆかり…」
トラブル続きの汐音の蟠りは、オレをとことん追い詰めた。
「話しがあるの…」
タイミングの悪い…。いや、寧ろゆかりのこの発言で少し冷静になれた。
汐音に乗り換えたくせに、今更何の話があると言うんだ。
「何?」
「やだ、そんな冷たい態度とらないでよ」
「とってねぇよ。何だ、早く話せ」
「前に…見ちゃったんでしょ?汐音と一緒に居る所」
「見たけど?」
面倒だと露骨に分かる態度に、ゆかりは申し訳なさそうに上目使いでオレを見る。その姿はオレの怒りを煽り、とてもじゃないが冷静に話を聞いてやれる余裕なんかなかった。
「誤解しないでね、汐音とは何でもないの」
「そうかよ」
だから何だと言ってやりたかった。そんな事聞かされても今後誰を指名するかは、ゆかりが決める事だ。もしそれが汐音だとしても、責める事はできないんだから。
「相談してたの…世莉の事」
「あ?指名変えたいってか?好きにしろよ」
「そんな事言わないで、私には世莉しかいないんだから!」
突然、抱き付かれて驚きと急激にこみ上げてくる怒りを感じた。
この女はどこまでもオレを馬鹿にしてる。
(オレしかいないだ?)
なら、何でStellaで汐音を指名してるんだ。相談って何の事だ。そもそも、その相談を汐音にしてる時点でオレの事を何も分かってない。
「ゆかり…お前さ、何がしたいの?オレに何を求めてんだよ」
「世莉が好きなの!無理だって分かってても好きなんだもん!」
「……」
ゆかりの気持ちはQueenに居る時からずっと感じてた。
客以上になる事はないと、そう上手く距離をとってきたのに、ここに来て行動に出たゆかりの変化は汐音が絡んでるのは容易に想像できた。
汐音は、客を満たすのがホストの仕事だと言った。もしこれが汐音の言う“満たす”という事なら、間違えてる。
どう考えても気持ちには答えられないんだから…。
「ゆかり…」
ごめん…そう言い掛けた時、ふと汐音の言葉を思い出した。
――キスもしてくれない、抱いてもくれない…そんなホストのどこに惹かれるってんだ?
ゆかりは今、オレを求めてる。
客を満たすというのは、何も本心から気持ちに応えてやる必要はないんじゃないか?
そう――この世界は自分の言葉一つでお金が動く。
人の心も。
(そうだ、忘れてた…それがホストの仕事なんだ)
ふっ、と笑うと自分の眉間に皺が寄っていた事に気付く。そんな顔を向けていたのだからホストとして失格だと、呆れて変な笑いがこみあげてきた。
「はは…オレも、ゆかりが好きだよ。でもホストだからさ、特定な子を作ると仕事に影響でるんだ。分かるだろ?」
「分かってる…でも、世莉の傍に居たいの」
「いつでも会えんだろ、な?」
「世莉――っ!?」
女の細い腰を抱き寄せ、唇にキスをする。
この感覚は久しぶりだ…。したくもない相手とキスに、込み上げてくる嫌悪感。それと同時に何かが吹っ切れたように、やけに冷めた思考が全てをどうでも良くしてくれた。
だが、それも直ぐに危機感へと変わる。
「世莉さん」
ずっと聞きたかった声が耳に届いた。
その瞬間、頭の中が真っ白になって、一気に現実に引き戻されたような気がした。
「京介…っ」
――見られた…?
焦りで変な汗が出る。
普段の京介の事を考えるとキスを目撃した段階で眉間に皺の一つでも入ってそうなものを、あまりにも自然な笑顔が逆に怖く思えた。
「え?京介?何で、ええっ!?」
普段、京介を遠目からしか見ていないゆかりはQueenのナンバーワンを目の前に、やや興奮気味に口を開く。それに対して普段と変わらない紳士的な対応で、京介はニコリと笑って言った。
「ゆかりさん、ですよね?申し訳ないのですが、これから世莉さんと予定がありますので…」
「え、あ、はい」
「タクシーまで送りましょう。さぁ、手を…」
京介の振る舞いは、いとも簡単にゆかりの心を掴んで…。
「ゆかりさん、これからも世莉さんの事をよろしくお願いしますね」
自然にそっと、オレの元に返す。それを当たり前にできる京介に、到底越えられない壁のようなものを感じた。
「世莉、今度Stellaに行くときは世莉を指名するね」
「…ああ」
オレと京介に見送られてタクシーで帰っていくゆかりは、今夜ほどQueenに通って良かったと思った日はないと思う。今まで絶対にしなかったキスや普段話すらできない京介との短い会話に、ゆかりはきっと“特別”だと感じているだろうから。
けど、今はそんな事よりも…。
「メール、届きましたよ」
「ああ…」
「部屋、来ますか?」
「……っ」
本当はそのつもりで送った「会いたい」のメール。今になってどれだけ軽率で考えがなかったのかを後悔しながら、首を横に振った。
「そうですか、では違う場所にしましょう」
「お、おい!」
京介は強引にオレの腕を掴んで、ぐいぐいと引っ張るように歩き出す。その様子に京介がどれほどホストとしてプロ意識が強いのかを思い知った。
(ああ、そうか…)
やっぱり、あのキスを見てたんだ…。
別に、見られたからって何の問題もない。オレ達はそういう関係じゃないんだから。けど、今の京介からはそれを超えた感情を感じた。
優しくしてほしくて京介を求めたのに、掴まれた腕が痛くて切なくなる。
先へ進む大きな背中を見上げながら、振り返って文句の一つでも言ってくれればまだマシだと思った。
何も言われない事が楽だと思ってたのに、今は無性に苦しくて視界が歪んだ。
「う…っ…っく…」
我慢しきれず頬に伝う涙をスーツの袖で拭う。
それでも京介は振り返る事はなかった…。