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/軽くr18表現アリ


 今、青峰の隣に座している人物こそが"コヨーテ"だった。青峰の、もうひとり。
 孤独の獣のように、美しい佇まいの。
 青峰が知らない8年間のうちに、彼はまた歳を重ね、円熟を増し、風格を造り上げていた。青峰が体感しうることなかった時の流れが、たしかにそこにはあるのだ。
「ご苦労だったね、青峰。」
 青峰はそれにひとつ頷いて返す。
 スタートは一緒だった。しかし今ふたりの間には確かな違いがある。埋められることない確実なるギャップは、権力という名のもとに。――上司として、彼は青峰に労いの言葉をかける。二度目の刑務所に入る直前、青峰は胸元にひとつの黒墨を加えた。
 美しい獣の。孤独のコヨーテの、それはそれは見事な刺青を。
 ちょうどそれがある辺りを、青峰は無意識に掻くようにして擦った。シャツ越しの自身の胸筋。かつてより少しだけ、厚みは落ちた。檻の中の環境は劣悪で、さすがにあの栄養状況で身体を保つのは難しかった。
 シャツの下の獣、獣の下の、心臓。淡い鼓動の音。力強い脈打ちが指先に伝わってくる。徐にそこから手を離すと、横のシートに無造作に置かれた白い手の平を取る。如何にも日焼けが苦手な、白くて、そしてこんな繊細さで銃器を扱うのかと疑われるような、しなやかさな、そんな手。上品なグレイスーツから伸びたそれを持ち上げて、青峰は再び自身の胸もとへとやる。重なった手が青峰の鼓動をしかと感じ取った。一拍一拍ごとに、ふたりの間に"お互い"という存在の実感が募っていった。今、互いが共に在る。ふたつの手の平がほかほかと熱くなっていくとともに上司と部下としての認識が溶けていく。そうしてほんとうの、再会を今ふたりは果たす。
 もう一度囁くように、彼は小さく「おかえり」と言った。
 青峰はそれを聞いて、噛み締めて、重ねた手の甲に唇を押し当てた。


 口に含んだ手の甲の肌。それを味わうように、舌を這わせる。
 手首、前腕。きちんとしたスーツを鼻先で押し上げて、柔らかな腕の内側を食む。
 身を乗り出して、その邪魔な布を剥ぐ為に身体を引き寄せる。瞬間を味わうようなゆったりとした動作で、ふたりとも目の前のスーツのボタンを外した。ネクタイの結び目を解き、ベルトの前を寛げ、後部座席のシートに折り重なって転ぶ。
 長く持て余した脚が腰に絡み合い、広くはない車内で身動くと時折頭がドアポケットにゴツゴツと当たった。彼の小さな頭を守るように、青峰は手の平を挟んで抱え込む。互いの煙草の香りがより近くで交わって、特有の匂いに変化する。ふたりが混じり合い、まぐわって、とけて一緒になった時の匂い。それをすんと胸いっぱいに吸い込んで、青峰は唇を落とし続けた。
 籠った空気が湿度と熱気を上げていく。締め切られた車内で荒いふたりの呼吸は酸素を奪っていった。息苦しい。窓には水蒸気でも浮くんじゃないかというほど暑い。震えて縋るものを求めた彼の手が滑り、窓に出来た曇りをそこだけクリアにした。汗が滴る。茹だる肌を強く掴んで痣をつくる。爪を引っかけ、肉の感触を歯で噛み締める。ガツガツと貪り食う。どこからか血が滴っても、気にもしないのだ。いやいっそその赤々とした色に興が乗る。興奮が増し、ここには本能だけが残る。締め付けられ、穿ち、搾り取り、そそぎ尽くす。
 獣が交わっていた。
 ここには純然たる欲望しかなかった。不純物などなにもない実直なほどの互いへの欲が。

 綺麗に切りそろえられた爪が、青峰の腕に強く強く食い込んでいた。それが大きく痙攣し、ひと際の呻きがふたりの間に落ちて。脱力したように青峰の腕からその手指が滑り落ちてゆく。ひきつけを起こしたような喉の震えで零される息は剥き出しの欲にだけまみれている。
 そこから意識を取り戻すように、薄く目を開いた彼は確認するようにさわさわと、今一度青峰の腕を辿る。丹念に撫でなければ気付かないほどの、ほんの僅かな肌の感触の違い。そこには薔薇が咲いていた。
 確認するように、上から茨を伝い降りていく。数え上げるようにゆっくりと、花開いて骸を露にしたものも、固く蕾みその内を秘したままのものも、丁寧になぞる。ささやかでまるで独り言のような小さな声を落としながら。

「ジェフ・ブリナン、、マルチェロ、フィル、ガードナー、真田、シュバイガー、アバロフ、郭、ヘンリクセン、ガルシア、、アハマド、ジャクソン……」

 青峰の両腕の薔薇を辿る度、それはひとつひとつ紡がれる。その意味とはなにか。
 それは、青峰の腕に植わった骸の名前だ。
 かつては生ける命であった、今ではその死をここに刻まれている。
 腕をなぞり終えた最後に青峰の手の平を取り、彼はもうひとつだけ言う。
「綺麗な手」
 子供のように無垢な顔だった。




 "いってくるね" 。ほんのすこしだけ微笑んで、彼はまたするりと車を降りていく。
 しばし行ったところに、崩れかけの工場跡に隠れて停まった一台の車がある。音無く、それに乗り込む。入れ違いのように青峰の車には運転手が戻っていった。
「行こう」
 車が発進する。振り返ることない背後には、今まさにエンジンをかけたシボレーのコルヴェアがあった。

 スピードを上げて迷いなく進むリンカーン・コンチネンタルの白い車体。その通り彼らの目的地は迷う必要などなくはっきりとしており、その場所へと最短距離を選んで道を行く。
 沈黙の車内には、言い様のない緊張が漂っていた。
 これからの事を考えれば、それも無理からぬことであろう。今晩が、彼らにとってどれだけ大事な一夜であるか。後部座席でグレースーツが脚を組み替え頬杖を着く。緊張の籠った空間の中で、その人物だけが、物思いに耽るほど自然体なままだった。
 車を走らせて行くうちに、外は次第と赤みを帯びていった。日暮れが近いのだ。西の空からグラデーションをかけ、晴れ渡っていた薄水色が、茜に呑まれていこうとしている。
 小一時間の堅苦しいドライブ。車が町外れの古めかしい大邸宅に着いた頃には、既に太陽は、その天辺を少しばかり覗かせているだけになっていた。
 素早い身の動きで車を降りた運転手が後部座席に回り甲斐甲斐しくドアを開ける。上品な所作でグレースーツが降りてくる。開けていた前ボタンを閉め直して、サングラスの位置を正した。
 邸宅の門前で控えていた何人かの男達がそれを合図に近寄ってきて、それぞれ彼に目礼をして車のトランクに手をかける。そのトランクのボン、と開く音を背後に長い脚を澱みなく進めて邸内へ。ボディチェックに駆け寄りかけた家の者は、その入ってきた顔を見てハッと思い直す。見覚えのありすぎる顔だ。一度見たら忘れない。エントランスにいた厳つい男共が揃って畏まる。有名な話だ。 " 彼に触れてはならない " 。
 頭を下げた者のなかでも年嵩の男が、一定の距離をとったまま奥に繋がる豪奢な扉に案内する。その扉の両脇に控えた男達が中に声を掛け、重い装飾過多の木戸を押し開いた。

 赤絨毯が如何にもな雰囲気を醸す広い一室。その中央の大机にすでに揃った高級スーツの男達が一斉に振り返り、扉前に佇んだ一見この場にそぐわない美丈夫を見詰める。その中で、一番奥の上座でどっしりと座していた白髪が立ち上がり一番に歓迎の意を示した。
「おお!遅いぞ。私を待たせるなどお前くらいのものだぞ」
 冗談まじりの言葉であるが、これに嘘は全くない。この白髪の壮年の男は国内のみならず海外にまでその力を伸ばす、巨大組織のまさに親玉だった。"ファミリー"と名乗るとき、その前に付く名字はこの男のものだ。そんな男を待たせるなど、そう簡単に出来る事ではない。一秒でも無駄な時間を取らせれば、次の瞬間には直ぐさま命を刈り取られる、男にとっては世に溢れる者のほとんどが"それしき"の価値しかなかった。しかしその大多数に含まれない極々僅かな者のなかに、彼はいた。
 ふんわりと、軽やかでどうしようもないほどに魅力的な笑みで肩を竦め、サングラスを外し、愛らしくごめんなさい、と彼が謝る。円卓に座した半数以上の男が、それにつられて愛好を崩した。
 この場に集まっているのは、組織のなかでも特に大きな力を持った者たちである。椅子に座り直した白髪の大ボスにはじめ、複数人居る首脳陣、ブレーン、各地を纏める有力者にヤクや武器関連の大きな事業を引き受ける責任者。世に蔓延る裏社会の大きな一角、巨大組織のその最重要人物達が集合している。これだけの会合は滅多にあるものではない。数年、数十年に一度の機会だ。
 一度盤石の権力を持つと思いのほか息の長い世界である。この会合で、前回と違う顔ぶれなど、たったの2・3人だった。新参が早々信頼を得れるところでもない。30、40歳に脚を掛けようと、未だひよっこ扱いもザラにあった。そこに於いて、加齢を忘れてきたかのような彼の存在は些か異質である。しかしその事を、この会合に参加する大半がすでに疑問に思うこともしない。それを、"毒されているのだ"…とでも言うような顔で、苦々しく彼の事を睨む者もまた少数あったが。

「――ん?なにを立ったままで・・」

 扉の前で佇んだまま、動く様子のない彼に怪訝そうにボスが白髪の眉を上げる。自身の左隣の椅子を撫ぜて、はやくその小振りな尻をこちらへ寄越さないかとその口端に僅かに下世話をのせて見遣るのだ。
 それに、彼は、微笑み答える。その鮮烈なまなこをきゅっと歪ませ、釣り上がった眦はとてもとても愉悦そうに光り輝いた。苦々しく彼を睨んでいた者たちがざっとその背に鳥肌を立てる。源の分からぬ悪寒が、予期出来ぬ怖じ気が、歴戦の男共の背筋を這い上がったのだ。
 彼の真っ黒な瞳孔が広がり、獲物を捉えた獣の瞳になる。虹彩はゴールド、ライトグリーン、ヴァイオレット、コーラル・・・透けた色合いに光が乱反射して不思議な煌めきをもつ。
 ――首輪をかけている、つもりだったのだ。手綱を。組織は彼を頑強で下劣な鎖で繋いだつもりであった。しかし忘れてはならなかった。彼は、

 ――――伝承の中でコヨーテは、往々にしてトリックスターの役割を与えられる。トリックスター、それは物語を引っ掻き回す"道化者"のこと。時には善を、悪を、破壊と誕生を、または賢きと愚かを、英雄と悪役を。全く異なる二面性を併せ持ったその姿は、神や自然界の法や秩序に全く囚われない、自由と矛盾を象徴する存在でもある。
 何者にも、神にすら檻に閉じ込める事叶わない。彼はコヨーテなのだ。
 その事を、忘れてはならなかった。

 うっそり、と笑んだコヨーテが、ピンと尖った爪を露にする。長い時をかけて磨かれたそれはしごく丁寧に、標的のもとへと押し当てられた。誰もが気付かぬ内に標的は、逃げ場もないどん詰まりへと追い立てられていたのだ。コヨーテは周到だった。この場に集まる裏社会の重鎮達の誰よりも、狡猾だった。
 無造作にスーツのなかへ手を突っ込んだコヨーテが、まるでハンカチーフでも取り出すような気安さで掲げた、シルバーが光り輝く無骨で美しいワルサーppk/s、38口径。携帯性、性能共に有能な往年の名モデルだ。グリップは白、トリガーには王冠の彫り、鑑賞銃のように繊細な一品。けれどその威力に疑問はない。それが白く繊細な手指にまるで気負い無く握られている。



――孤児院での事を覚えている。
  言葉にできないほどに、最悪の日々だった。
  殴られ続けた母がヤクの過剰摂取で死んで、これで自由かと思ったら今度は孤児院。
  しかもそこは最終流刑地とも呼ばれるような、この世で最もクソッタレな場所だった。
  碌な食事もない、冬場は一個の毛布に幾人が寄り添う、着古した服はボロ切れも同然。
  でもなんとか生きていけれるだけまだ良かった。
  そこには理不尽に殴りつける母親も居なかった。……途中までは。
  あの神父に呼び出されたとき、その瞳を見て絶望したことを今も忘れない。
  あいつは拳を作って、殴った。腕を掴んで、捻り上げた。
  そして服をたくし上げ気持ち悪い手で触れた。
  この世の地獄は、あそこにあったんだ。
  暖炉に突っ込まれていた火掻き棒を押し当てられて、
  歪な十字架をつくった火傷の痕が今もこの胸にある。
  信じる神などいない。頭を垂れる、存在などこの世にありはしない。
  この世の中は汚泥で出来ている。
  けれど希望もあった。まるで汚泥の煉瓦を繋ぐモルタルのように。
  しかしその希望とも、無様に血を噴き出すあの神父の死体を目の前に、分かたれた。
  泥が足を取って、歩くのもままならない。
  この世は思う通りに生きる事を望むことさえ、ままならならない――





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