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 ボロ家の内装は、確かに長い間活用されていなかったであろう独特の侘しさを携えてはいたが、厚い埃が層になっているようなことはなく、きちんと清掃の手が入った後のようだった。
 そこだけ妙に新品な冷蔵庫には暫しの間不自由しない程度の食料、そして寝室のクローゼットにはタグが取られたばかりの皺のない数着の衣服、ベッドのシーツも真新しかった。とうにワックスの禿げた床板の年老いた風情とは対称的で、ここが急拵えのただの仮住まいなことが一目で分かる。用が済めばきっと、この古い建物はただの意味のない廃墟にまた戻る。そうなればすぐにでも取り壊されることだろう。
 薄汚れたジャケットを脱いで、ベッドに埋もれる。この、クッションの効いた。清潔な匂いのするシルクの。あたたかい空気をふんだんに含んだ羽毛の。…どれほどぶりであるか。
 もうこの場から一歩も動きたくない衝動をどうにか剥ぎ取って、立ち上がりシャツに手を掛けながら軋む床板の向こうを目指す。青いペンキが剥げた扉の先はバスルームだった。
 行きすがら脱いだ着衣はそのままゴミ箱の中へ。ひんやりとした白いタイルの空間。蛇口を捻れば、勢いよく吹き出すのは温水のシャワー。湯気をあげるそれを目の前にして、嗚呼俺は今自由なのだと、深い深すぎる息を吐き出す。錆まじりでもない、薬品臭くもない、そして温かなシャワーなど、もう何年も浴びていなかった。
 水飛沫をあげるシャワーの袂にそろりと入り込む。肌を打つやさしい湯の感触。石鹸を手に取って何度も何度も身体に擦り付けた。最初は碌に泡も立たなかった汚れのこびり付いた身体の上で、次第にふわふわと真っ白なものが湧き立ち出す。ずいぶん久しぶりに嗅ぐ、さわやかな香り。あの刑務所で染み着かせてきた匂いのすべてをそれで上塗りしようとした。不揃いに欠け、伸びた爪が、無心に擦る皮膚に傷を作った。

 バスルーム内の大きな鏡。湯気で曇った鏡面に映る自らの裸体。褐色の肌の色、暗い頭髪。ぼやけた鏡面は、それでも馬鹿正直に映していた。身体の至る所の、黒墨たちを。
 鏡面の背は、大きな教会を背負っていた。連なった三角屋根がみっつ。その天辺には朽ちかけた十字架がそれぞれ掲げられている。腕に絡んだ茨は薔薇の中から骸骨を咲かせ、指輪のようなフィンガータトゥーは片手の四指を埋めていた。前腕の骸骨の薔薇、その茨に脚を取られた肩部の鳥。広がった翼は飾緒(軍服等に見られる肩飾り)のようにも見える。反対の腕には対称のように自由に飛び立つ鳥の姿が。そして胸元には、美しい獣の姿があった。他にも腹に、脚にと墨は及んでいる。全身を覆う、不吉な図。
 これらすべてが、自らの被った罪だった。

 ――薄暗い世界の中で独特の発展を遂げたその文化は、模様のひとつひとつに、意味を与えた。背中に背負われたみっつの教会は、三度の服役経験を示す。8年前までこれは二棟の教会だった。新しく加わったのは、一番奥の棟である。そして薔薇の花の中隠れるように咲く髑髏。腕に絡んだ幾個ものそれは、刈った命の数を指しているという。
 刑務所内で、これらは一種のコミュニケーションツールだった。
 身体に刻まれたものを見ればその人物の罪や嗜好や所属組織、果ては刑期が何年かや、人によっては独房に入った回数まで分かる。閉鎖的な空間の中で、ひどく暗喩的に育った影の中の文化。この"履歴書"に嘘は書き込めない。分不相応なことも。身に負う墨は、そのまま自らのすべてを指し示すのだ。
 茨の一番端に、五分咲きのモノクロの薔薇がひとつある。花弁のなかには髑髏の暗い眼孔が僅かだけ覗いている。男は8年前、殺人の罪を掛けられしかし結局裁判では立証されず、不法銃器所持に関する有罪のみで刑務所へと収監された。故に、人はこの薔薇を見て笑った。これは骸を見付けながら殺人罪を証明出来なかった警察側への皮肉であると。その腕には、そんな薔薇がいくつもあった。固く蕾みを閉ざした、未だ内を"見付けられていない"、薔薇すらも。


 時間をかけて浴びたシャワーから脱し、お座なりに身体を拭くと裸のままに寝室へと戻る。
 潜り込むようにベッドへ沈む。閉め損なったカーテンの隙間から降る陽光。開けっ放しの扉から入り込む緩やかな風。この家の周りは特にと何もない緑の丘で、隣家は100mほど南に下らなければならない。静かで、ただ穏やかな時間。久方ぶりに、確かに進む"時"の存在を感じながら、ひっそりとした眠りについた。


 次に気が付いたとき、太陽は既に盛りを迎えていた。意識を覚醒させながら、自分の身体の重さから”数時間”眠りに落ちていたのではなく、"丸一日以上"眠り続けていたことを理解する。さすがに横になりすぎたか、と肩を解そうと腕を上げたとき、外からの僅かなエンジン音を耳が拾った。
 その瞬間、寝起きの不明確かさなど一挙に捨て去って素早い動きでサイドボードの引き出しを探ると、手馴染みのいいグロックを取り出す。直ぐさま構えて鋭い目付きで窓から外を覗くと、遠ざかってゆく黒い車の後ろ姿が見えた。ふいの目覚めは、きっとあの車の気配を身体が勝手に察知しての事であったのだろう。
 気を抜かぬまま寝室から這い出て一階へ。玄関の様子を窺いにリビングを突っ切ろうとして、居間のローテーブルの上に昨日までなかったものを発見する。
 一枚の紙切れ。遠目からでもそのメモ書きの最後のサインには見覚えあって、ようやく自分は気を抜いたように銃を下げた。無意識にベッド脇の引き出しを漁って銃を探していたが、このグロックを用意したのは当然ながら不法銃器所持の罪で出所したばかりの自分ではない。フルオートと重心の改造が為されたグロックの17モデル。かつての愛用と同型・同改造の物である。自分のかつての習慣と愛用品を知る、"何者か"による厭味な仕込み。その何者かは、とうに見当のついた人物ではあったが。
 取り上げた紙には細いインク字でこうある。"明晩"。たったそれだけ。
 そしてサインは大文字Cから始まる、"Coyote"。――――コヨーテ。北米を中心に広く生息する、狼に似たイヌ科の生物。現地のインディアン部族はこの動物の名称に大文字を使うとき、それは神(コヨーテ神)を意味するものとして古くから伝えてきた。彼らの伝承でコヨーテは、人間社会にあらゆるものを齎したとされる。例えは火、例えば煙草、例えば太陽、例えば――死。

 こちらの行動を見透かしたように、キッチンの収納棚の一角にカートンごとの煙草がひと山用意されていたのを遠慮なく頂戴して、包装を切った愛飲の紙巻きを口元に据える。銜えるだけで薫る、懐かしい芳香。意外がられることもあるが、気に入りはこの独特の香料を使った甘い風味をしたものだった。鼻をくすぐるバニラ。かつて左のポケットにはいつもコイツが我が物顔でいた。しかしそれも、収監されてからというもの随分口にする機会が減っていた。刑務所内で入手するには、少々銘柄がマイナーだったのだ。
 銜えたそれに火をおこそうとして、しかし自分の両の手に火種がないことを思い出す。オイルが残っていた気がしないでもないライターは、あの荒野に捨ててきてしまっていた。惜しいことをしたか・・しかし8年も無手入れで放置していれば、ホイールやスプリングあたりが錆びてとうに使い物にならなくなっていた可能性の方が高い。
 溜め息まじりに頭を掻いて、ちょうど目端にとまったガスコンロに、これでいいかと顔を近付ける。ツマミを捻り、ボッと浮かび上がる青赤い炎に煙草の穂先を焦がす。ガスの匂いが濃く、折角の煙草の風味を一時打ち消したが、それも暫し吹かせばバニラに変わった。


 明朝。紙にあった通り、寝室でカーテンの向こうの朝を感じるのとともに、外に佇む気配の存在にも気が付いた。サイドボードに放り出したままのグロックをお座なりに手にして窓の外を窺えば、案の定見覚えのある黒い車体が静かにエンジンを切って停車されていた。
 こちらが起床するまで、どれだけ外で待ちぼうけを食らわされていたのだろう。しかしそれを考えるのは、愚かなことにも思える。自分の神経は常人よりはるかに鋭敏で、それは野生のままのようだと他からは称される。運転手には有り難いことに、車が到着して幾許も経過していないはずだ。
 それからしっかりシャワーを浴びて、適当な食料を摘んでようやっと玄関へと躍り出た。どうせ誰も居ないからと室内では下着か薄手のガウンくらいしか身に着けていなかったからか、数日ぶりに着るスーツは、どこか堅苦しい。首にしかけたネクタイは嫌気がさしたようにすべてゴミ箱へと送られていた。
 クローゼットには卸したての靴も何箱か納められていた。その中から選んだ適当なものの革を足に馴染ませながら、コンロに火を貰い紫煙を飲み込んで車へと乗り込む。見覚えのある陰気な運転手は、物言わずするりと車を発車させた。きっとこの運転手が、今回の自分とそして"あれ"の、連絡係で繋ぎ役なのであろう。昨日見た黒い車の後ろ姿も間違いなくこのシボレー・コルヴェアの後ろっケツだった。
 4ドアの、随分古い型だ。音からしてエンジンにも随分手が加えられているようだし、第一元から少々ユニークな造りをしているコルヴェアを態々選ぶ辺り、この運転手も、中々の変わり者なのかもしれない。
 ”あれ”が好きそうな――そう思った。車にしても運転手にしても、用意された家屋にしても。変わり者と言う分にはこれ以上ないほどにその言葉が当て嵌まる、"あいつ"が如何にも好きそうな、それらはすべて演出であると。

 1,2時間、車窓の景色は移り変わり続け、そしてようやく静かに減速した車は、河川近くの工場跡に停車した。運転手はそこでキーを刺したままに車を去ると、ひとり取り残される。それでも、何も動ずるでもなく後部座席に座し続け、時計が数度動いた頃に、車のドアは再び開かれた。開かれたそこは運転席ではなく、自らの隣。後部座席に音無く入り込んできたすんなりとした獣のような肢体は、シートに落ち着くと丁寧にドアを閉める。懐かしい慣れたものが薫る。この匂いを、よくよく知っていた。愛飲の煙草と、そいつ自身の体臭とが混ざった控え目な、そして鮮烈な香り。この8年間、いくらの黴や埃に塗れようと、決して忘れることはなかったもの。
 声を出すこと忘れたかのようにここ数年はっきりと震わせることなかった声帯を、久しぶりに奮おう。なにを第一声にすべきか。候補はいくつかある。けれど実際に口に出すべき言葉はただのひとつだ。それには自分はまず待たなければならない。ふ、と、小さく息を漏らすような声が隣からした。微笑みだ。まるで黄金比で、まるで完璧の、あの微笑みだ。その笑みが囁くように俺の意を汲んで口を開く。

「おかえり、ワタリガラス」
 その優しさの囁きに、自分はただ応えるのだ。それが当然かのように。
 事実、それが当然なのだから。

「ああ、――ただいま。」



 スタートは、一緒であった。
 もう随分も昔、ふたりは8歳だった。ふたりともすでに無垢とは言い難い少年だったけれど、それでもふたりは、未だただの少年だった。
 8歳。あの夏。ふたりは出会い、そしてとても小さく閉鎖的な世界の中で、数年の時を共に過ごした。地獄のような日々だった。けれども希望はあった。そして希望があるからこそ、落とされた暗い影はより一層の深みを持っていた。本物の地獄には、いつもたった一縷の希望だけが残されているものなのだ。そのコントラストが、人の心をよりえぐり出す。
 ふたりの最初の別れ、それは14の事だった。
 目の前に広がった血の海に、ふたりはとうとうお互いという"希望"との別離を、覚悟した。

――だいちゃん・・どうしよう、だいちゃん・・・・
――だいじょうぶ。だいじょうぶだから。今度こそ俺が、お前を守るから。
――でも、だいちゃん、おれ
――何も言うんじゃねぇ。・・黙ったまま、これでさよならだ。

 それは14の事だった。
 ひとりは、殺人の罪で収容され、そうして最初の棟を背中に建てた。朽ちかけた十字架は、ふたりが居た孤児院の、薄汚れた教会にそっくりだった。なぜならそれこそが、ふたりにとっての罪と憎悪の象徴であったから。

 18で刑期を終え、シャバへと戻ってきた頃にはすでにふたりの間には、僅かな差異が出来上がっていた。ひとりが檻の中でうずくまっている間に、もうひとりは本格的に裏の社会へと脚を踏み入れていたのだ。孤児院を出、ストリートで生きていたところを地元マフィアに拾われてからのことだった。ひとりも後を追うように、組織へと入会した。
 薄汚れた街の、薄汚れた暗がりの、もっと奥の深い闇の世界だ。ふたりを包んだ現実はどこまでもおぞましく、どこまでも生臭かった。
 21歳。二度目の別れ。過失致死罪での実刑。今度は5年間の刑務所暮らしだった。ふたつめの棟が建つ。そして骸骨の薔薇が咲く。

――あおみねっち、どうして行くの?
――これが俺の出来ることだからだ。

 26になって出所した頃には、ふたりの格差はより広がっていた。すでに出世の階段を駆け上がっていたもうひとりは、裏から手を回して出所を早めてやるまでの力を有すようになっていた。出所後のひとりは部下という形になり、手足となって裏社会を駆け巡った。
 そして、28歳。

――あおみね。
――ああ。

 三度目の刑務所暮らし。殺人罪は証明されず不法銃器所持のみでの収監とはなったものの、度重なる犯罪行為に反省の色なしと見られ、刑期は延びた。そしてそこでやはり手を回したのが、一層にその地位を固めていたもうひとりで、それから8年後、こうして大幅に刑期を縮小しての釈放になった。4年と、5年と、8年間。ひとりは人生のおよそ半分を、冷たい檻の中で過ごしていた。もうひとりはその間をずっと裏社会の奥の奥で過ごしていた。その道行きは常に、暗闇だった。

 ひとりの名前を、青峰大輝と言った。
 その男は通称で、ワタリガラスと呼ばれる。死からの使い。殺戮を配って歩く。檻を渡って歩く。
 その肩には対の烏が飛んでいる。片腕は茨に脚を取られもがき、片腕は勇猛に飛び立つ。



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