どぶねずみ
/あおみねっちはヤクザに片足突っ込んでるし、りょうたくんは春をひさいじゃってるしの昭和パロ。35×17の年齢操作もありです。




 声をかけるつもりはなかったし、近付くつもりもなかった。ただいつもの道行きのように素通りするだけのはずであったのに、青峰は何故かそれに一歩二歩と歩み寄ってしまっていた。まったくの無意識だった。はっとして、正気に戻った時にはもう遅い。――相手に気付かれてしまっていた。

 振り返った瞳が青峰を捉えてぱちりとまたたきをする。夜の帳が降りきったこの薄暗闇のなかでも、その色が滅多に見ない透いた色をしている事はすぐにでも分かった。
 時がしばし止まった。数秒だけ、世界はすべてを止めたのだ。
 あの瞳の、瞬きと瞬きの間。たった数瞬。瞳が乾かないだけの間。ふたたびぱちり、とまたたきをした。青峰ははっとして、もう一度正気に戻った。目の前でひとりの少年が、不思議そうにこちらを見て首を傾げている。
 ざわざわと、ざわざわと、すぐそばの河川のうねりが遠く聞こえる。
 口を開かぬまま、ただ見返してくる少年。それに伴うように、青峰も口を開く事が出来なかった。しばし見詰め合って、青峰は立ち去った。




 ――1957年。
 終戦から12年が経過した日本は、高度経済成長期のまっただ中にあった。ただ、それでも終戦からたったの十二年だ。表面上はどうやって進化していこうとも、その裏にはあの頃からそう変わらぬ現実が今もゴロゴロしている。裏路地に転がる手足のない傷痍軍人の成れの果て、ケバい化粧で街角に立ち続ける娼婦達、規制をかいくぐっては開かれる闇市に、蔓延するヒロポンをはじめとしたヤクの類い。
 時代は変わりつつある。しかしその急速すぎる変わりように、少なくない人々が確実に置いていかれていっている。特に、表では生きていけない、裏路地の住人達が。
 青峰も、そんな人々となんら変わりなかった。ヤクザ紛いの事をやっては生計をたてている。ここら一帯に根を置いた組組織で青峰は雇われの用心棒をしている。雇われとは言っても、その組に出入りするようになってからすでに十年が経っている。とてももう堅気だとは名乗れない。
 その日も、青峰はそんな慣れ親しんだ裏路地を行っていた。とうの昔に顔馴染みになったたちんぼ達に誘われながら、それを躱して自宅へと向かういつもの道。家に帰れば特にする事もなく眠りについて、明日の仕事まで寝汚く惰眠を貪るつもりだった。
 しかしその"つもり"が、何故だか今日に限って狂わされてしまった。
 自宅までの曲がり道はあとたったひとつだけなのに。青峰の視線の先で、細い路地を遮るようにふたりの男が立ち塞がっていた。
 会話はぼそぼそとしていて、よく聞き取れない。青峰の存在に気付かぬまま、片方の男が自分の懐に手を差し込みなにかを取り出す――――あれは、札束だ。
 遠目ながら、なかなかの金額を手渡されているもうひとりの男――少年と言える年の、方は、しかしそれを頑なに受け取ろうとしない。ゆるく首を振って、何事が言う。それでも金を差し出す腕を引かない男は、何度か食い下がるようにぐいぐいとそれを押し付けていたが、一時するとようやっと諦めて、肩を落として帰っていった。
 残された少年が、ふう、と疲れたように息を吐いて、汚い路地裏の壁に背を預ける。特に上物の衣服を身に纏っている訳ではないが、何の変哲もないそのただの白いシャツがそうする事で汚れてしまうのが、なんとなく気に触る。「汚れるぞ」、青峰はほぼ無意識の内にそう口に出していた。
 は、と少年がこちらを振り向く。ぱちりと驚いたように瞬きする瞳。それがすでに覚えのある透いた色であるということを、青峰は気付いていた。
 ――こうした再会があるとは思っていなかった。その少年は、先日河原でたまたま見かけた、"あの"少年だった。
 美しいかんばせ。相変わらず、こんな廃れて饐えた匂いのする路地裏においても、それに変わりはない。めったに見ないくらいの美男、しかしその纏う雰囲気は、組の者が好んで見る任侠映画の"ああいった"女どもと似たものを匂い立たせていた。この少年も、夜の住人なのである。この裏路地に住み着いた、時代に取り残されながらもどうにか生にしがみついた、逞しい汚れた命なのだ。
 同類を見るような、特有の空気がふたりの間には横たわった。少年にしてみれば青峰はまるきり初対面の男なのであろうが、それでも見遣ってくる瞳に無駄な牽制はない。
 琥珀の眼球は真のみで出来ていた。
 この薄暗がりに暮らす住人には、ふたつの種類がある。泥を被り薄汚れ、穢れを知れば知るほどその通り落ちぶれていく魂と、反して美しさを増す魂の持ち主だ。
 この少年はまさに後者である。
 少年が襤褸けた塀から身を起こしたのを確認すると、青峰はもう何も言わず、その路地を通り抜け立ち去るだけだった。
 これはある秋口の話である。

 その後も、青峰と少年は入り組んで迷路のような路地の最中で時折出くわしては、なんとなく見詰め合いつつも、言葉は交わさないままでいた。
 お互い、名もなにも知らない。
 少年の声も、表情も、歩き方も、青峰はなにも知らない。ただ内に秘めた魂が美しいことだけを知っていた。

 そんな秘めやな関係が、静かに動き始めたのは冬入りしてしばしの事。
 青峰は予想外にも、あの少年の姿を自分が出入りしている組の屋敷内で見かけた。
 驚いてしまって立ち止まる。少年は今まさに、下男に案内されてこちらに向かってくるところであった。この奥には、今青峰が出先から送り届けたばかりのこの組の組頭がいる。屋敷内で最も奥まった場所にある、大親父の寝室。出入り出来る者はほんとうに限られている。
 正面から向かってくるあの少年。あの瞳。見詰め合いながら、ふたりはすれ違った。いつもの如くそこに言葉はない。
 少年の、生業を予想出来ていなかった訳ではない。あの裏路地で、街角で、橋の下で、この少年は春をひさいでいるのだ。男相手に、女相手に、その身でもって春の息吹をふかせている。
 そして今夜の客が、青峰の雇い主であったというだけ。
 少年と青峰は同類だった。あばら屋の立ち並ぶ裏路地の住人。薄闇が似合う陰のなかの生活者。そして今夜は、雇い主まで同じとくる。背後で、襖の閉まる音がした。青峰はその場を立ち去った。


 暇を与えられた日は、大抵昼下がりまで寝こけるのが普通である。そして太陽が下った当たりから、飲み屋にでも繰り出す。
 炊事場も手洗いも共同のボロアパートの廊下で、寝ぼけ眼で顔を洗っていた時に大家に声をかけられた青峰は、大家宅の黒電話で火神からの電話を受け取っていた。急な休みになったらしい火神からの晩飯の誘いに、特にすることもない青峰は二つ返事で了承、昼も食わぬまま夕刻までをぐだぐだ過ごし、ネオンや提灯の灯り出した夜の街へと繰り出していった。
 数ヶ月ぶりに会う火神に、特にと言った変わりはない。ちょっと髪が伸びたやら痩せたやら、そういった些細な変化を指摘し合うような間柄でもなし、ふたりは適当な居酒屋に入ると揃って安酒を飲み出した。
「お前ぇそこそこの給与貰ってんなら、んなシケた店じゃねぇでもっとマシな処連れてけや」
 青峰の横暴な言に、火神は苦笑する。聞き届いているだろうに、顔色を変えぬ店主のしわがれた面相は、たしかにシケちゃいるが、ただ飯は美味い。なんだかんだ言って、青峰も火神もこの店の常連である。
「無茶言うな。出戻りの特務士官が、高給取りなもんか。それに、俺は奢らねぇぞ!」
 火神は今、ここ数年で新設された自衛隊にて働いている。終戦後解体された日本軍だったが、いつまでもGHQの世話になっている訳もいかない。島国である日本の海上警備部門として海上保安庁が設立された後、数年をかけて自国での防衛体勢を整えられてきていた。1954年には防衛庁が発足、それと時を同じくして、海上自衛隊なるものも誕生していた。
 この自衛隊、正式に言うと"軍"ではないらしいのだが、そこのところの細かい事情を青峰は知らない。敗戦によって今後一切軍はもたないことになっている日本で、自衛隊はその名の通り自国を"自衛"する為だけに存在するらしい。
 そこで火神は、教官をしている。戦中は戦闘機搭乗員として空戦を繰り広げていた腕を買われてのことだ。火神は太平洋戦争が始まる前にすでに海軍に入隊しており、戦中に徴兵されてきた者達と違い正式な教育を受けた予科練生であり、優秀な航空兵であった。無茶な出撃命令で、多くの優秀なパイロットを失った先の戦争において、そういった開戦当初からのベテラン搭乗員の生き残りは大変貴重であった。
 そんな火神とこうして酒を酌み交わしていると、決まって言われる言葉があった。
 酒が回り出すと、いつも火神は口を滑らすのだ。それを青峰は毎度のらくらと躱してやるしかない。

「お前ぇもよ、青峰、うちに来いよ。今からでも遅くねぇって、自衛隊に入れ。」

 ほらまた始まったか、と青峰は呆れた溜め息を吐いて火神の猪口に追加の酒を注いでやる。
「るせぇな、会う度おんなし事言いやがって。いい加減諦めろって」
 不満げな顔を隠しもせず、火神は鼻を鳴らす。青峰も、火神が真面目に言ってくれていることは分かっているのだが、それに応える気にはどうもなれない。
 また自分がアレに乗る?――そんな姿、想像が出来なかった。
「青峰、俺はお前以上の戦闘機乗りを知らねぇ。模擬空戦で一度も勝てなかった相手は、お前だけなんだぞ!」
 これも、酔った火神が毎度言う台詞である。
「だから、いつまでそれを根に持ってやがる!何年前の話だよ!」
 十四年前だ!と堂々とのたまう火神は、勝ち逃げされたことを相当遺恨に思っているらしい。例え青峰が火神の言葉に応じて、再び飛行機に乗る事があったとしても、こんな調子の火神がいるのであればいつ、模擬とはいえ空中戦を仕掛けられるか分かったもんじゃない。そんなもん真っ平御免だね、と青峰は精一杯嫌な顔をして火神の頭をはたいておいた。
 性根の真っ直ぐなこの男は、青峰が本気で嫌がればそれ以上は深追いして来ない。不満タラタラな顔は収めぬままも、火神は今夜も一応は引き下がる気配を見せた。
 1936年から1945年。それが、青峰が軍人であった期間である。九年間。その内の約五年半を、戦場で過ごした。・・・昔の話だ。青峰はいつもそうして、感傷に蓋をする。
 何となく会話のなくなってしまったふたりの間を、テレビの音が埋める。数年前公開された映画の、テレビ放送だった。青峰は何の気なしにそれを見上げ、画面の女の顔を見詰めた。
 リコウラン――否、戦後日本に帰国して名前を日本名に改めていた。時代に翻弄されたその女優の本名は、意外にも世間にも有り触れた、普通の名前だった。ああ、彼女もただの普通の女だったのだな、とそれを聞いたとき青峰は思った。そう、誰も彼も、普通の男で女なのである。火神が言うような、"特別"な価値など青峰にだってありはしないのだ。
 映画はすでに終盤であった。青峰も一度、見た事がある。公開当時には結構なヒットを飛ばしていたはずの作品だ。
 華中戦線でのある男女の話。一兵卒の男と酒屋の女が出会って、そして揃って捕虜になる。日本軍において捕虜になるということは最大の恥である。隊に戻っても待つのは銃殺ばかり。恥を晒す前にと自決しようとする男を女がとめて・・一縷の望みを託しふたりは隊に戻る。しかし、戻ったふたりに突き付けられたのは味方からの銃口。スパイの容疑をかけられ男には厳しい処分が下される。そこでふたりは、自軍に抱いていた幻想を、信念を、正義を見失う。ふたりは脱走を企てる。暁に向かって。
 駆けるふたりをかつての上官が容赦なく撃ち捨てる。倒れ伏したふたり、最後に苦しい息のもと寄り添おうとする・・・・しかし、その手はあと僅かで届かない。ほんの僅かで届かない。ふたりは最後寄り添うことも出来ず、野に死に晒す。
 青峰は、そんな映画の話筋を知っている。戦後の作だけあり日本軍に対しとても批判的な内容である。あそこにいた経験が、青峰にはある。青峰は陸軍ではなく海軍で、しかも航空兵であったが、それでもかつて、あのなかに青峰はいた。そう遠くない過去の話。たったの十二年前だ。
 画面のなかで、駆け出す男女の姿を見た青峰は、そっとテレビから目線を外して火神の方に戻した。変わらずの大食漢で、相変わらずガツガツと芋を食っている。居酒屋の喧騒に紛れて銃声がする。本物とはほど遠い、偽物の銃声だ。

 火神との久しぶりの再会も、いつもの調子でお開きとなり青峰は帰宅の途に着く。火神は最後、お決まりのように、お前は特別だった、と言った。それを青峰は笑い飛ばした。
 それはいつの話だ。あの、空の上での話か?・・そんないいもんじゃない。自分は結局ただの普通の男に過ぎなかったと、青峰自身がとうに気付いている。
 特別、であったのならば。あの戦場で、奇跡のひとつでも起こせただろうに。そうであれば良かったと、青峰こそが何より思っていた。
 あの戦場に特別などただのひとつもなかった。誰も彼も、普通の、ただの少年達だった。


 そしてまた、あの少年も普通のうちの、ひとりのはずだ。


 屋敷で少年の姿を見たのは、あれ一回きりとなった。気になって、さり気ない風を装って大親父に聞いてみたら、にやにやとした笑いが返ってきた。
「なんでぇ、お前あんなんが好みか?」
 違いますよ、と顔を渋めて返す。青峰に男色の気はなかった。大親父はにやけた笑いを崩さなかったが、青峰が話の先をせっつくと、少しばかり惜しむような面相になった。その顔は、あの少年になかなか会えない事を惜しんでいるのだ。
「アイツァあの界隈じゃちょっとばかし名の通った――つっても、誰も名前は知らねんだがよ、男娼でな。得意はつくらねぇってな主義らしく、呼び付けや予約は受け付けてくれねぇのよ。だからアイツを買いたきゃあの街ん中から、アイツを見つけ出すしかねぇ。これが至難の技でな!道に立ちゃすぐさま買い手がついちまわぁ。道端でアイツに出会えたモンは向こう一年の幸運使い果たすってな冗談もあるくれぇだ。」
「へえ・・」
 悔しそうな物言いに反し、楽し気な笑みで話す大親父の顔は、とてもパンパン共の話をしているとは思えない、晴れやかなものだった。そこには、裏路地の話特有の後ろめたさや薄暗さがまったくない。
 そんな疑問が顔に出たのか、大親父は煙管吹かしてもう一度笑った。
「なんでか憎めねぇ奴なのよ。アイツといると、どうにも穏やかな気持ちになっちまう。ほんとに、春を連れて来ちまったみてぇによ。」
 ヤクザの親玉が情けねぇ話だ!と豪快に笑うのを、青峰はどうとも言えぬ気持ちで眺めた。
 裏路地の最中で出会う度、数秒だけ見詰め合う。ただそれだけの関係。改めて考えてみれば、不思議な話である。しかし今の大親父の言によれば、自分はもう何年分の幸運を使い果たしたことになっているのだろう――そう考えると、なんだか青峰は笑えてきた。
 大親父の調子のいい笑いに乗せられながら、なんとなく、次会った時に、声をかけてみたいと。そのときはじめて青峰は思った。


 年の暮れ、忘年会やらの時期になり、飲屋街の周辺はいつも以上の賑わいを見せていた。
 青峰はそうした道から一本も二本も入った、慣れ親しんだ裏路地を行っていた。とうの昔に顔馴染みになったたちんぼ達に誘われながら、それを躱して自宅へと向かういつもの道。家に帰れば特にする事もなく眠りについて、明日の仕事まで寝汚く惰眠を貪るつもりだった。
 しかしその"つもり"が、何故だか今日に限って狂わされる――どこかで覚えのある光景である。
 自宅までの曲がり道はあとたったひとつだけだと言うのに、青峰の視線の先で細い路地を遮るようにふたりの男が立ち塞がっている。
 片方はやはり見覚えのありすぎる少年。そしてもう片方は、鼠色のスーツの男。
 路地には忙しなく荒い息が響いている。少年が壁に押し付けられて、その背後から男が伸し掛かっていた。ああ、あんなボロ塀に押し付けては少年の服が汚れる――青峰は、ただそう思った。
 滑稽なほど性急な腰使いで、男が呻きながら硬直した。どうやら終わりのようである。少年の尻からずるりと貧相なそれが這い出てきて、白いぬめりを垂らしながらズボンの中に収められていく。男はベルトを締めると、札を一枚路地に放ってさっさと去っていった。
 少年はゆるゆるとズボンを身に着けると、壁に凭れて座り込んだ。
 青峰は、「汚れるぞ」、とほぼ無意識のうちに声をかけていた。
 少年がこちらを向く。昼も夜も問わず薄暗い路地にあっても、少年の瞳の琥珀は、頭髪の金色は、翳る事なく輝いて見えた。
 歩み寄って、座り込んだ姿を二歩の距離だけ開けて見下ろす。
 声をかけてみたかったが、なかなか続く言葉は出てきてくれなかった。それでもただ、いつもの如くふたりは見詰め合った。
 真っ直ぐな少年の眼差し。澄んだその色。やはりこの少年は、いくらの泥にまみれようとも美しい、そんな魂の人間だった。
 ふたりの間に、先程の男がほうっていった札が一枚転がっている。
 今年発行されたばかりの、新しい額の紙幣。聖徳太子の描かれた五千円札。青峰はその偉人の成したことなど何ひとつ知らない。碌な学などないから。14で軍に入ってから必要だったのはただこの身ひとつだけ。そしてそれは、この少年もきっと同じだ。生きていく為に身を削っている。この部分においても、ふたりは同類なのだった。
 時が止まるような、時の流れが至極ゆっくりになったような心地がして、ふたりは向かい合っていた。そして、すい、と少年が息を吸った。
 青峰はそれを見て、ああ、俺は今からはじめてこの少年の声を聞くのだ、となんだか感慨深い気持ちになる。

「一晩五千円。おにいさん、買ってくれる?」

 青峰は路地に落ちた聖徳太子の紙幣を拾い上げた。札になるくらいだ、きっと徳が高い人物なのだろう。そいつこそが、"特別"、な人物なのかもしれない。しかしそんなことは関係なかった。普通のただの人間である青峰にとって、そんなことはまるで関係のないことなのであった。
 拾い上げた札を少年に手渡して、それを受け取ったのを確認すると青峰は踵を返して歩き出した。後ろに少年がついてくるだろう確信が、ある。
 そうしてその通りに、少年は静かに立ち上がるのだった。


 コンクリート造りのボロい共同アパート。階段を上って水場を通り過ぎ、内廊下を通って自身の部屋へと行く。角部屋で、隣部屋の住人は夜に仕事へ出ている事が多い。青峰とは正反対の生活サイクルをもった人物だった。
 少年を招き入れ、取り敢えず座らせる。このアパートには風呂はなく、住人はみなすぐ隣の銭湯へ行く。青峰は水場から水を汲んできて手拭と共に少年に与えると、自身は狭い一間の窓際で少年に背を向けた。一時して、ちゃぷちゃぷという水音がし出す。衣服を脱ぐ衣擦れの音もする。あの男の残滓を、清めているのだ。
 しばらくして、ありがとうございます、と声をかけられる。面白くも何ともない窓外の眺めから視線を外して振り返った青峰は、少年が上だけを羽織り直し下はなにも纏わぬままに座り込んでいる事に、一瞬ぎくりとしてしまう。脇に寄せられたズボンは、確かに染みやら汚れやらをつけて、清めた身には余り履き直したくない代物である。
 少々思案して、寝間着の浴衣を襖から取り出す。半纏はひとつしかないが、浴衣ならぎりぎり二着もっている。片方を渡し、青峰も衣服を脱ぎ出すと着替える。
 窓を閉め切っているとはいえ、コンクリート造りのこの部屋での冬場はとても冷える。火鉢を引っ張り寄せて、そして入り口近くに座り込んだままの少年も呼び寄せる。少年は立ち上がると、ゆっくりと、こちらに寄って来た。
 端に寄せていた布団を敷き、その上に少年を引っ張り込み、並んで座らせる。ふたり並んだ背に煎餅布団を引っ掛けると、少年は少し、戸惑ったように青峰を見た。
 この少年にとって、布団とは行為をする場所だ。しかし今は違う、ただ純粋に、この寒い夜に暖をとるためだけに使われている。
 火鉢を寄せ、並んだ膝には半纏を広げて乗せる。そこまでして、青峰はようやっとひと心地着くように息を一息ついた。
 被った布団の中で、左肩と右肩が触れ合っていた。腕も、脚も、膝も。でも、それだけだ。
 布団のなかで、ふたりはそれだけを共有していた。布団のなかに、半纏のなかに次第に籠っていく体温。それにぬくまりながら。

 いつもの、路地や街角ですれ違う時と同じような、ふたりだけの静けさが場を包んでいた。
 ふたりだけが知る、これは静寂だった。そんななかで、青峰は次第に温まっていく身体を感じながら、ふいに言葉を投げ掛けた。
「いくつだ?」
 少年は、背にかけた布団をずり落ちないように引っ張りながら、ぽつりとそれに返す。
「じゅうなな」
「あそこは長いのか?」
「うん」
「いつからいる?」
「さあ・・気付いたらあそこにいた」
「そうか」
 ひっそりと、まるで秘め事のような、静かな声をふたりは交わし合った。青峰がまた黙ると、今度は少年が口を開く。
「いくつ?」
「三十五」
「なにしてる人?」
「ヤクザの用心棒」
「ヤクザなの?」
「いや・・それはちげぇ」
 紋々は背負っちゃいねぇよ――と青峰は付け加えた。青峰が今の職を始めてすでに十年が経つが、それでも捨て切れなかった匙が、青峰自身をヤクザだとは言わせなかった。
 組の頭と懇意にしておいて今更何言うかと人は思うかもしれないが、それでも青峰の中には明確に引かれた線がある。その線を、青峰は仕事を始めた当初からこれまで一度も跨いだ事がないと、言い切れる。そんな屁理屈のような拘りに納得してくれる人間は自身以外いないかもしれないが、それでもよかった。青峰の、自分自身の心のなかにだけでもその思い――梃子でも動かない意地があれば、それで良かったのだ。それさえあれば青峰はまっすぐに歩いて行けた。
 そんなことを、青峰は、少年との間の沈黙をぽつぽつと埋めるように語った。
 それは人に話した事のない、青峰の心の内の、柔い肉の部分だった。
 膝と一緒にそこにかかった半纏をいだきながら静かに話を聞いた少年は、うん、とだけ応えを返した。青峰には、なんだかそれだけで十分だった。
 まだ、室内は暖かいとは言えない。なんせ部屋にあるのは小さな火鉢ひとつっきりだし、被った布団も煎餅のようなかたさと薄さ。目一杯綿の詰められた半纏は、ふたりの膝にかかり切らず脚の先をはみ出させている。
 でも、それでも。なぜだか満足だった。
 眠るのが惜しかった。隣の存在を、意識していることがなんだか心地よかった。
 味気ない火鉢なんかに視線を奪われているのは勿体ない気がして、青峰は少年に振り向いた。少年もそれに気付いて、ふいと青峰に視線を向ける。
 静かな、ふたりだけが知る――知っていればいい、この静寂。
 その晩、ふたりはいつ眠りについたのかを覚えていない。いつのまにか、ひとつの布団に包まって眠りに落ちていた。
 翌朝、目覚めたふたりはただただあたたかかったと、そう、見なかった夢を、思い出した。



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