どぶねずみ

 そうして年が明け、新しい一年が始まってひと月ほどが経つ。
 その間も相変わらず火神にしつこい誘いを受け、少年と出くわし、組頭の護衛をし、といつも通りの日々を青峰は過ごしていた。少年の声はあれ以来、聞いていない。
 そんななか、青峰は毎日通る路地に屯していたあのたちんぼの女達の数が、減っていっている事に気が付いた。戦争以降、増える事はあっても減る事は滅多になかった逞しき女共の姿がここにきて目に見えて減っているというのは、どういう了見だろうか。そんな風に首を傾げていたところに、青峰はちょうど風に乗ってきたその話を聞いた。
 とうとうアレが施行されるらしい。とっ捕まれば、ブタ箱行きだ――。
 売春防止法の法案が可決されたのは、およそ二年遡っての、1956年5月の事である。施行は翌年つまり1957年の4月1日からとなったが、現状売春行為にて生計を立てる相当数の者たちを考慮して、刑事処分については一年の猶予期間が与えられ、この法に基づく本格的な取り締まりは1958年4月1日からとなった。
 これまでも売春行為やそれらの元締めなどへの取り締まりはあったが、これからは訳が違ってくる。捕まれば、明確な法がなかったこれまでと違い、問答無用で刑事処分が課せられる。
 売春は、所謂"被害者なき犯罪"として、刑事処分を与えるにあたり相当に複雑な内情を孕んでいるのだが、それでもこうして、法として明確にそれが犯罪行為であると定められた事は、大きかった。堅気に――真っ当な職に戻れるアテがある者から、この界隈を離れていっているのだと言う。
 青峰がそれを聞いたとき、一番に思い浮かべたのはあの少年のことだった。
 ――ならばあの少年はどうなる?
 気付いた時にはここにいたと言う。きっとここ以外の世界など知りもしない、あの少年は。
 改めて考えれば、そう。あの少年は、人生のなかで最も奔放たるべき時期をすべて、こんな狭く暗く歪んだ世界にて過ごしたのだ。
 その事は、青峰自身にも覚えがあった。
 尋常小学校を卒業してから、貧しかった青峰の家は青峰を奉公へと出した。しかしそこでの稼ぎも乏しく、主人との折り合いも悪かった。そこで青峰は、年齢制限の下限ギリギリで、海軍へ入隊した。1936年、14歳のことだ。入隊後は新兵教育・練習部教育の後、数ヶ月軍港の警備につくも、青峰はその後すぐに操縦練習生の応募を受け操練となった。当時は相当な難関であった操練とは、戦闘機や爆撃機などの飛行機パイロットを養成するところで、青峰はそこで戦闘機のパイロットへと育てられたのだ。
 訓練課程修了後は中国に配属され、そして一年後、あの真珠湾にて太平洋戦線が開戦。戦時中は空母艦上機や南方の各飛行基地戦闘機として各地を転戦、最後は長崎の飛行基地にて終戦を迎えた。
 終戦の年、青峰は23歳だった。否、正確に言うと22歳である。あの夏、23の誕生日を目前に控えた8月のあの日、青峰はその知らせを聞いた。――――その時、何を思ったか・・・。
 青峰も、人生のなかで最も奔放で、自由で、爽やかに輝くべき時を、ずっと薄埃のなかで過ごしてきていた。それから急に解き放たれた時。青峰は、そう、途方に暮れたのだ。
 地元に帰る気も起きず、取り敢えず東京に上った。そして人混みの喧騒のなかを転がり落ちて、海にほど近いこの街に落ち着いた。そしてヤクザに雇われるようになった。
 青峰の最終階級は少尉だ。ポツダム昇進でただの下士官から士官へと昇進した。と言っても、特務士官であるが。歴然たる階級社会であった日本海軍内では、士官になる者は予め決まっている。学歴がものをいうのだ。学のない者はみな下士官、一兵卒。その多くがそのまま碌な昇進をすることなく退役していく。時たま、戦場での戦いが評価された優秀な下士官が士官へと昇進されることもあるが、それも特務士官といい、正式な士官より下に見られた。
 とは言え、青峰は尉官まで賜った元軍人であった。しかし、それらは青峰に戦後、なんの意味も齎してはくれなかった。自身の軍での九年間が無意味だったなどと言うつもりは青峰にもない。しかし、だからと意味を見出す事も、青峰は、未だ出来ていなかった。生きる為に、必死で戦っていた。ほんとうに必死だったのだ。そして青峰は生き延びた。しかし、自分が"生き残った"ことを知った瞬間、青峰は喪失感を、感じたのだった――青峰はそれまでいた世界をなくし、急に世間に放り出された。放心したように、一時何も手につかなかった。・・・今も、どこかにあの時の喪失感が、眠り続けている。今も、青峰のなかにはあの放心が、虚無が、居座り続けていた。
 ――あの少年は、どうなるのか。
 少年は、これまで生きて来た世界を、必死に生き抜いてきた世界を失うのだ。それがもう決まってしまっている。
 ざわざわと、ざわざわと。なにかがさざめく音がした。青峰はあの少年に、唐突に会いたくなった。


 そこは、大親父を本宅ではなく、妾宅に送り届けた日に通る道筋だった。
 汚く澱んだ河を横目に通る、帰り道。青峰はあの少年に出会った。
 この河原。青峰がはじめて少年を見かけたのもこのあたりである。あの時のように、少年は金糸を揺らして空を見上げ続ける。大きな琥珀の瞳に夜の闇を閉じ込めて、星の輝きを爛々と反射させている。ざわざわと、河川の水が猛っていた。
 二歩分の距離を開けて、青峰は立ち止まる。少年が振り返る。
 時がしばし止まった。数秒だけ、世界はすべてを止めたのだ。
 あの瞳の、瞬きと瞬きの間。たった数瞬。瞳が乾かないだけの間。ふたたびぱちり、とまたたきをすると、時がようやっとまた動き出す。
 青峰は、少年が立ったすぐそばの土手に座り込んで、同じように星空を見上げた。
 冬の澄んだ空が、星座を見やすくしている。
 青峰がたったひとつだけ知っている冬の星座、エリダヌス。
 西洋の偉い神様の馬鹿息子が、イタズラをしてそれが元で川に落ちて死んでしまう。それを悲しんだ親父の神様が零した涙が川に落ち、それが琥珀の結晶になった、という神話があるらしい。エリダヌス座はその神話に出てくるエリダヌス川をモデルにした星座で、これは大親父に聞いた話だった。大親父が、戦争で亡くした三男坊の息子の話をするときに引き合いに出した。兄弟の中で一番そそっかしくて、可愛げのある、よく懐いてきた末っ子だったと。
 妾腹で、他の兄弟と少しばかり年が離れていた為、生きていれば青峰と同年代かひとつふたつ年下である。終戦の年、特攻で死んだ。亡くなったときは、今青峰の隣に立つ少年と然程変わりない頃である。
 少年が、青峰が開けていた二歩分の距離を詰めてきて、静かに隣に座り込む。
 この話を、しようかどうかほんの一瞬だけ考えた。しかし結局口にすることはなく、静寂を共有する。
 すると、徐に少年の方から口を開いた。
「星、名前を知ってる?」
 お前は、と聞くと、首を一振りしてなにも、と言う。なにも知らないのだと。
「俺も、詳しくねえ。どれかは分かんねぇが、星を繋いで三角形つくったり六角形つくったりは出来るらしいぜ?」
「えっほんと?」
 少年は、どれだろう、と夜空の星を繋ぎ出した。つくろうと思えば三角形なんて、いくらでもつくれる。いっぱいあるっスよ、と困った顔で言ってきた。
「あぁ?たぶん、一等光ってるやつを結びゃあいいんじゃねぇの?」
「いっとう、ひかってる・・・」
 ぱちり、青峰を見詰めて、一度瞬きした少年は、もう一度空を見上げるとあれかなぁ、と指差す。
「どれだ?」
「ほら、あれ。あのみっつ並んでるののすぐ横に、一等光ってるのがある。」
「ああ、本当だ。」
 少年が、笑った。
 青峰がその笑顔を見るのは初めてであった。しかし、青峰はそれに妙な感慨はもう抱かなかった。なぜならその笑顔がほんとうによく少年に似合っていたから。この笑みを少年が浮かべる事が、まるで当然の事のように思えたから。だから、青峰はもう驚かなかった。
「俺、あの星知ってる」
「ん?」
「あの星。三角のなかでも、一等光ってる星。」
 三角形を形作るみっつの星のなかでも、ひと際輝いている一点があった。それを指して少年は言う。
「俺、あの星見てた。ここに来て、いっつも見上げてたんス。」
 夜空を見上げ、それを瞳の中に閉じ込めて。星々の煌めきを爛々とその琥珀に反射させて。
 まるで涙のように、輝きは弾かれて。琥珀の粒が、今にもその頬に、落ちて来るんじゃないかと。青峰は、思う。
「俺、学がないから。なんにも知らないから。あの星が何か意味をもってるなんてこと知らなかった。たぶん、きっと、もっともっと、あの星ひとつぶひとつぶにも全部、意味があったりするんスよね?きっと――」
 少年は、きっと、と、それを知ることがまるであの星ほどに遠い事のようにして言った。でも、そう少年が思うのも仕方がないのかもしれない。あの裏路地に生きる者にとって、そういった生きる為に直結して必要ではない知識は、星ほども遠い存在なのである。
 その事に思い至って、そして、少年がほんの僅かもあの裏路地より外の世界に興味がない訳ではない事を知って、青峰は無意識的に口をついていた。もしかすればそれは、少年にとってはとても残酷な問い掛けであったかもしれない。少年は、途方に暮れたような、そんな困った顔で、青峰を見返すしかしなかった。――否、出来なかった。
「お前、あそこから出たいとか、思わねぇのか?」
 静寂・・というよりも、沈黙がしばしふたりの間には降り掛かる。星空を見詰めて、何度のまばたきがあった後か、ようやっと少年が口を開いた。
「俺、気付いたらあそこにいた。母さんのことは・・たぶん、覚えてないんだと思う。よく分からない。いつのまにか俺はあそこにいて、そんで、いつの間にかいまみたいにしてた。初めてがいくつだったか、それもよく覚えてないんス。多分戦争が終わって・・そんなに経ってない頃かな。いくつだろ、六つかな?五つくらいスかね?」
 指折り数えながら、少年は計算をした。簡単な算数も指を折ってやっとなのだ。きっと字だって、生活するに最低限しか知らないのだろう。
「・・俺、いま以外の生き方が分からない。生きるって、こういうことって思ってた。」
 ふふ、と笑って、ところがどうやら違ったみたいっスね、と少年は身を揺らして青峰に向かって微笑んだ。美しいかんばせ。そしてその心内も美しい事を疑わせない、無垢なままの笑み。少年は、世の中の汚泥の限りを知り尽くしている。裏路地の奥で子供が生き抜くには、それを知らずしておれない。それでも、この少年の魂は美しいまま。
 それは、青峰を感動させるし、切なくもさせる。
 ――こうした無垢で美しい魂を、青峰はかつて大勢知っていた。
 空を駆けて、そして死んでいった、永遠の若者達。もう永遠に歳を重ねる事出来なくなった、少年達。
 この目の前の少年に、生き方を教えられたらと思う。
 しかし青峰には、それが出来ない。青峰だって、とうの昔に生き方を忘れてしまっている。
 空を見上げた。
 冬の澄んだ空気が星空を見やすくさせる。しかしその空気は、棘を持って寒さを突き刺してきもした。握りしめた掌が、ぶるりと震える。それを少年は目撃したが、どうしたとは尋ねなかった。青峰も、なにも言わなかった。
 ふたりの間に沈黙が落ちる。それはいつものあの静寂ではなく、歯痒い沈黙であった。空が白み出した頃、青峰はようやっと立ち上がり、そこを立ち去った。


 火神からの連絡を受け、次の休みにまた飲みにいく約束をしたのが数日前。そしていつもの居酒屋で落ち合ったのが2月の14日のことだった。
 席に着いた火神は、開口一番に、そう言えば今日はバレンタイン・デヱとからしいぜ、と言った。
「は?バレ・・なに?」
 言った火神の方もよく分かっていないのか、首を傾げながら、そのにわか仕込みの知識を披露した。
「なんでも西洋の宗教に因んだ行事とかで・・恋人や友人に贈り物をし合うらしい日らしいぜ。一部じゃ騒がれてるみてぇだけど。」
 大方G.I.共に持ち込まれた文化だろ、と言い出しておいて興味の無さげな火神はいつもの安酒と飯ものを大量に頼み、一息を吐く。そして、あっと思い出したように再び口を開いた。
「今日よ、途中でもうひとり来るかも知れねぇけど、いいか?」
「あぁ、別にいいけど。誰だそいつ。」
 火神が、こうした場に誰か他の者を連れて来るのは珍しかった。怪訝そうに青峰が尋ねると、火神もどこか、要領を掴めぬ感じで返事を返してきた。火神にしても、その人物がこのような場に来ることがとても意外に思えていたのだ。
「上官なんだけどさ、俺ってより・・青峰、お前の知り合いらしいぜ?」
「は?自衛隊に知り合いなんているかよ」
「じゃなくて、海軍で少しの間お前と一緒だったとか言ってたぞ。たまたま今日飲み行く相手がお前だって言ったら、会いたいとよ。」
 海軍・・ということは、戦時中か又はそれ以前の話になる。誰だ?もう一度尋ねる。
「赤司征十郎って人。今は昇進して中佐だけど、当時は・・中尉か大尉位だったんじゃないか?お前覚えてるか?」
 赤司――赤司征十郎、覚えている。たしか空母翔鶴の艦上機だった頃に一緒の艦に乗っていた上官で、分隊長かなにかだった。そこまで思い出して、青峰はようやっとその顔も朧げながらに脳裏に描き出す。
 飛行兵曹長であった青峰の直属の上官は飛行隊長やらであり、赤司との関わりはこれと言ってなかった故に記憶はとても曖昧だが、それでも階級くらいは覚えていた。
「ああ、たぶん当時は大尉だったか。覚えてる・・・ちゃあ、覚えてるぜ。マリアナ沖で一緒だった。」
 頷いた火神は、話した事は?と聞いてきたが、そんな記憶は青峰にはない。そもそも赤司が青峰の存在を知っていたという事の方が驚きである。あの頃青峰は尉官でもなんでもない、ただのいち下士官、いちパイロットに過ぎなかった。
「赤司中佐の方は結構お前のこと知ってる風だったけど・・・お前が覚えてないだけで、なんかしたんじゃねぇのか?」
「知らねーって!今回は偶々思い出せたが、アカシなんて名前今の今まで忘れてたっつの。」
「ふぅん・・ま、いいか。兎に角さ、もしかしたらその赤司中佐も合流すっかもだから、今日はあんまり飲み過ぎるなよー」
「そりゃ俺の台詞だ阿呆。」
 そんな話をしながらいつものように飲み始め、そしてふたりがその事を忘れた頃になって、居酒屋の暖簾は静かにくぐられた。

「ああ――本当に青峰飛曹長だな。生きていたとは。」

 突然の懐かしい呼称に、青峰ははっとして後ろを振り返る。
 このようなボロの居酒屋には似合わない、上品な佇まいの男がそこには立っていた。
「赤司中佐!」
 火神が、酔いを一気に吹き飛ばして起立する。軍国時代からはしばらくが経ったとはいえ、未だこういった縦社会の色は濃い。軍隊――否今は自衛隊か、そういった組織とは、どう時代を変えようと中身はそう変わらぬものである。
 赤司は、飲みの席であるからと火神に緊張を解くこと告げ青峰の隣に腰掛ける。
 その落ち着いた所作とこの騒がしい店内とがあまりにも不釣り合いであることから、火神は店を移る事を打診したが、それも赤司が、気にしない、と言った一言でなくなった。
 青峰は、かつての上官とはいえ今ではなんの関係もない人物であるからと火神のように立ち上がりまではしなかったが、取り敢えず敬語は使って、挨拶をした。
「お久しぶりです、赤司分隊長――今は中佐、とお呼びすべきですが。」
「ああ、本当に久しい。青峰飛曹長、君が生きているとは、思わなかったよ。」
 赤司は、もう一度確かめるようにそう繰り返して言った。
 戦場帰りの者にはよくかけられるそれは言葉であったが、赤司の言葉はそれとはまたひと味違った意味合いをも含んでいるように聞こえた。しかしそのことには言及せずに、青峰は品目の書かれた紙を赤司に差し出す。
 机の上に所狭しと並べられていた総菜やツマミ達は、すでにそのほぼを火神の腹のなかへとおさめられていた。赤司が注文するのに続いて、青峰らも追加の注文を付け加える。火神はまだまだ豚の角煮まで食べるつもりらしい。
「青峰とは、翔鶴で一緒だったんですよね?青峰から話を聞いていたところなんです。」
 火神が追加注文がくるまでの間を埋めるように、青峰越しに尋ねる。
「ああ、そうだね。それと、青峰飛曹長――ふ、もうあの頃ではなかったね。青峰、と呼んでもいいかな?」
「ああ、はい。なんとでも。」
「うん。 青峰は知らないだろうが、あの後大村でも一時期一緒だったんだよ。」
 大村、とは長崎の大村飛行場のことである。終戦間近になると、大抵の戦闘機が本土防空の為駆り出され、そのなかでも特に九州の大型飛行場には沖縄防空や敵艦隊迎撃のため多くの戦闘機や爆撃機とその搭乗員達が配属されていた。青峰も、そんなパイロット達のひとりだった。
「大村・・・そうだったんですか。ということは、もう終戦間近の頃ですね。」
 大村は大きな飛行場だ。当時ではアジアでも随一の規模を誇った飛行場だった。比例して多くの部隊が駐屯している。そのなかで青峰が赤司の存在を知り得なかったことも不思議なことではない。
「そうだね。・・何度か、模擬空戦をやっていただろう?それを見てね。飛び方に見覚えがあって、君だと分かったよ。」
 その言葉に、火神の方も、ああ、と納得したように笑う。
 空戦に少しの覚えがあれば、青峰の操縦が独特である事はすぐに分かることだ。そうやって火神も、予測出来ない動きに撒かれて幾度も模擬空戦で敗戦をきしていた。確かに青峰の飛び方はすぐ分かりますね、と火神が青峰を小突きながら言う。
「火神の海軍入隊は、'38年だったね。青峰とはどこで知り合ったんだい?」
「南太平洋海戦で、共に改造空母隼鷹の艦上機でした。その後も、一時期ラバウルで一緒だったこともあって。海軍入隊時期にしても階級にしても青峰の方が上で彼の小隊についたこともあるんですが、気が合って仲良くしていました。」
 青峰の海軍入隊は'36、火神は旧制中学校を卒業した後に飛行予科練習生として海軍に入隊しており、青峰は一応先輩で上官に当たるのだが、青峰があまりそういうところを気にする性格ではなく、しかも同い年で地元も近いという事から、当時はよく行動を共にしていた。戦闘機パイロットともなると各地を転戦し配属が落ち着かないのが常であったから、あまり長い間を共に過ごした訳ではなかったが、今でもこうして連絡を取り合うくらいには良好な関係を築けていた。
 この事を聞いた赤司は、それは良かった、とでも言うように頷き、ふたりそろって生きて帰還出来た事を讃えた。
「空戦を良く知る熟練のパイロットがこうして生き残ってくれたことは今の自衛隊にとってもとても有益な事だ。――それに俺は、青峰はもう死んだものだと思っていたからな。惜しい男を、と思っていたから、こうして再会出来て嬉しいよ。」
 赤司は、再度そうやって青峰の生還を喜んだ。
 そこに籠められる意味に、青峰はここきにてようやっと尋ねることにする。言葉を交わしてみて、そろそろ気安げな雰囲気も出てきたところであるし、青峰は何でもない風を装って赤司に尋ねた。
「・・・そんなに俺が生きている事が、意外ですが?」
 一見すれば厭味にも聞こえかねない言葉だったが、青峰の真っ直ぐな眼差しで、それが純粋な疑問からの言であることは赤司にもすぐに分かった。
「ああすまない、他意はなかったのだが・・青峰、俺はお前が死んだと思っていた。」
 赤司は、今度は青峰の目をはっきりと見詰め、そして強い口調でそう言い切った。
 そこには確かに、佐官たる風格が滲んでいた。
「俺はあの頃の大村で、毎日のように貼り出される特別攻撃隊の出撃名簿を、見逃すまじと見ていた。そこに、お前の名前があったんだよ、青峰。」
 え、と息を詰まらせたのは、火神だった。聞いていないぞと、声を上げかけるが、赤司と青峰の間に落ちる数瞬の沈黙に、それは憚られた。
「広島と長崎に新型爆弾が落ちて、もう敗戦は目に見えていた。なのに、何故あんな最後の最後まで特攻を出撃させたのか・・理解に苦しむよ。」
 赤司がふう、と一息を吐いて、猪口を一口煽った。空いた杯に徳利からの酒を注ぎながら、青峰は言葉を探した。
 青峰はあの頃、大村で、特別攻撃隊の護衛機としての任務に就いていた。そしてあの日、青峰もとうとう護衛機ではなく特攻機として、空に飛び立つ事になった――これまで見送ってきた、多くの若者達と同様に、自分も死ぬのだと、青峰とて、そう思っていた。
 しかし青峰の零戦闘機はエンジンの不具合を起こすと、しばらくして飛行不能となり、近隣の小さな飛行場へと不時着陸した。再び大村に戻った時には、すでに終戦間際だった。数日とせず、ラジオは玉音放送を放送した。
 ――あの時、何を思ったか・・・。自身が生き残った、"生き残ってしまった"ことを悟ったとき、青峰は何を感じたのか。それは、喪失感だった。"俺は死ねなかった"のだという、喪失感だった。その時から、青峰は生き方を忘れた。

「俺も、てっきり自分は死ぬもんだと思っていましたよ。否、もう死んだような気でいた。毎日毎日、世話をしたひよっ子パイロットが死んでいくのを見送って。俺ももう、あのなかのひとりのような気でいた。」

 表情を繕いもせず、青峰は淡々とそう語った。
 後からなら、どうとでも言える。青峰は結局、あのとき死ななかった。死ねなかった、とも言い換えられる。
 その思いを、きっと火神も赤司も察してしまったことだろう。一本気な火神などは、今にも声を上げて青峰が生きている事を肯定したかったが、しかし火神にしても、青峰の気持ちが全く分からないということもないのだ。それは自身にとっても、覚えのある葛藤だった。
 人は火神の戦闘機への情熱を度の過ぎたものだと冗談まじりにからかったが、青峰のそれは火神に輪をかけたものであった。青峰は、まさにパイロットとしての自分しか知らなかったのだ。そうした生き方しかもはや出来ない男になっていた。そして、その命が終る瞬間も青峰はとうにありありと想像出来ていたに違いない。
 しかし、それは現実とはならなかった。青峰は、その時世界を失った、に、等しかった。
 箸を握り直し、青峰は目の前の小鉢から冷めてしまった煮豆を摘まみ上げた。
 ダシのしみ込んだ豆は、冷めても美味い。シケた親父がひとりでまわすこの居酒屋は、置いてある酒は安酒でも飯だけは癖になるほど美味かった。
 この豆だって、青峰が来る度毎度頼む品である。しかし、この時に限ってはその味もなにも感じる事は出来なかった。ほろほろと口内で大豆が崩れる。なんとも、味気ない。
「青峰。」
 気まず気な空気が流れ、しばし三人が三人とも黙々と箸を進めた後、小鉢を一皿開けた赤司が箸を置いてそう口を開いた。
 一粒一粒、豆を摘んでは口に運んでいた青峰は、その単純作業をやめると赤司のほうを見遣る。
「自衛隊に、くる気はないか。」
 その言葉に、青峰はいつも火神を躱すときと同じ様な笑みを浮かべて、猪口を手に取った。


 路地だった。獣のような男の唸り声を聞いた。荒く、忙しない息。そして押し殺した、噛み締められた声。その声を青峰はすぐに判じる事が出来た。
 路地の先でふたりの男がまぐわっている。美しく白い四肢の上から鼠色のスーツの男が覆い被さり、懸命に腰を振っていた。そんな男の浅く、欲深く、滑稽な呼気。その下に押しつぶされて、必死にボロの壁に縋り付く――少年。
 おぅおぅと、声をあげて男はひと際強く腰を打ち付けた。そしてぶるぶると震えた後、大きく息を吐いて、その杭を少年のもとから抜いた。かちゃかちゃとベルトを締めた男は、懐に手を入れて財布を取り出す・・しかし、嫌な笑みを浮かべるとゆっくりとした所作で、札を財布に仕舞い直し、そのまま懐に戻した。またな、そういった男の声が、青峰にも聞き届いた。
 壁に背を預け、座り込んだ少年に、青峰はもう「汚れるぞ」とは言わなかった。
 近寄り、すぐそばにしゃがみこんで、自身の上着を脱いでかけてやる。袖で、少年の身体に散った汚れを拭う。
 ふたりの間には静寂があった。
 お互い、なにも言わなかった、そして聞かなかった。青峰が立ち上がり、促すように手を差し伸べる。それを少年は見上げて、苦しそうに、笑みを浮かべた。
 泥沼のなかでも、それでも足掻き続ける者の、笑みだった。
 その笑みがたとえどんなに不格好であろうと、それは内に、何物にも代え難き美しさを常に孕んでいる。青峰は、眩しい思いで、ほんの少し、目を細める。

「あの人ね、おまわりなんス。」

 口端を震わせながら、少年が言う。困ったなあ、と、そんな風に肩を竦めて。
 警察と言う、立場を利用して、こうしたあくどいヤリ口であの男はこの少年を犯すのだろう。
 ふふ、と笑って、ありがとう、少年はもう一度笑んだ。汚しちゃったスね、と申し訳そうに言いつつ、青峰を見詰めてくる。変わらぬ、ふたりの間だけにあるその情感。その雰囲気。
 青峰は、その上着を買った時のことを思い出す。幾らで購入したか・・どうであれ、兎に角安物であった。
 「いいのか」、青峰は問う。
 少年は、お釣りがくるくらいっスよ、と言って、ゆらゆらと立ち上がった。



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実はこれバレンタイン頃に書いた作品なので、
どうにかバレンタイン要素を捩じ込んだ形跡があります 笑


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