スタンディング・オベーション
もはや黄瀬にとっても過ごし慣れたリビングで、その日の晩は大人数で鍋を囲んで遅くまで騒いだ。青峰の家族と、その息子の友人達とともに。
青峰家恒例の夏の水炊き鍋を、黄瀬もこれからは恒例としていく。友人達に絡まれている青峰から離れて青峰の父と弟に挟まれていようと、そこにはなんの気まずさも遣り難さもなかった。それどころか妙に気が合い黄瀬を構い倒す親父を青峰の方から引き離すほどだった。
息子とそっくりの浅黒い肌で、豪快に笑う親父が涼太、涼太、とごく自然に言う。兄とそっくりな髪質の弟が、爽やかな笑みで涼兄、涼兄と話しかける。食材の準備が追っ付かなくなったら母は遠慮なく黄瀬をキッチンに呼び付けて手伝いを請うた。その母の耳の形が、はっとするほど青峰にそっくりなのだ。
その隣に立ち。腕捲くりをして白菜を切りながら。
――まるで家族の様じゃないか。黄瀬はそうひとりごちて、しかしすぐにかぶりを振った。
まるでじゃない。この家はもうすでに、黄瀬がただいまと言うべき場所なのである。
雑魚寝の態で、リビングや青峰と黄瀬が寝室としていた客間などを使って一晩を過ごした面々は、翌朝遅めの朝食を済ますとそれぞれの家へと帰っていった。紫原や火神は青峰と同様シーズンオフであるからまだいいものの、緑間や赤司、そして黒子などはけっこうなスケジュールを縫って会いにきてくれていたらしい。
黒子は現在、月刊の小説誌で連載を抱えている身である。日本史や民俗学を絡めたミステリーで、独特の肌触りの文体と入り組んだストーリーが読者を掴み、人気を博しているという。しかも近々短編を纏めた書籍も発売される予定とかで、〆切に〆切に〆切に、と、てんてこ舞いな毎日を送っている。
それでもそんな黒子も、今朝はなんだかアイデアが降ってきました、と何やらいやにキラリと光る目をしていたし、まああの目は気になるものの、来てよかった、会えて良かったと言って帰っていった面々に青峰も黄瀬も、素直に嬉しく友人達を送り出したのだった。
父は早朝から、二日の有給を終えいそいそと出勤していったし、弟も大学のサッカー部の練習へと昼になる前には一人暮らしのアパートへと帰って行った。そんな、一気に落ち着きを取り戻した家で母とともに三人でゆっくりと昼食を済ますと、午後からはトレーナーを勤めるチームへと顔を出す母を見送ってふたりはふうとひと息を吐く。
屋内にふたりだけとなった青峰と黄瀬は、ソファでくっついて昼下がりをぐだぐだと消費していたのだが、日が暮れ出した頃になって、パーカーを羽織るとこそこそと住宅街の先へと足を運んだのだった。
本来なら出来るだけ外は出歩かない方がいいのだろうが、しかし一度黄瀬が、1on1したいなぁ・・と呟いてしまえば、うずうずうずうず身体がしてしまうのがふたりのさがである。
せめて日が暮れ出すまで待ったふたりは、中学時代いつも使ったストバス場に辿り着くと、ニッと顔を見せ合って一目散にコートへと駆け込んだ。
そういえばふたりでおんなじボールを追いかけ合うのは、いつぶりだろうか。
流石に熾烈な鍔迫り合いを演じていた学生時代から比べると実力差は出来てしまったが、それでも今もたまにフランスのご近所さん(しかもその中には2部とは言えフランスリーグの現役選手も居る)とストバスをやっているだけあって黄瀬も相変わらずの身のこなしだった。これを日本のバスケ関係者が見れば、歯噛みして、なんと惜しい存在を〜!と悔しがるのだろうが、黄瀬がバスケをする姿は、今この瞬間だけは、すべて青峰のものだった。
いいや、今だけではない。黄瀬にとってバスケとは、常に青峰と切っても切り離せない強い繋がりを持ったものだった。自身のドリブルの一拍一拍のその奥に、見えないほどの深層に、ほんの僅かだがしかし必ず、青峰という存在の影が宿っていることを黄瀬は実感する。
それがなんだか面映くもありながら、しかし心地良い。たとえNYとはかけ離れたフランスの地であろうとも、橙と茶色の間の子のそのボールの鼓動は、いつも黄瀬に彼の空気を連れてきてくれた。
離れているのは辛い。時折どうしようもないほど、会いたくて会いたくて悲鳴をあげたくなる。今回のようなこともあって、心はひとりで、なんどもひしゃげそうになった。それでも、黄瀬は手慰みにボールをついては、その鼓動を感じ取って耐えてきた。
それが、ここにきて昇華されるようだ。黄瀬の鼓動、青峰の鼓動、それがこんなにも間近で交錯する。
激しい身体の競り合いをしながら、青峰はそこになんとも言えぬ安寧を見出す。心が凪ぐ。
これだ!とそうふたりの身が大きく言っていた。心も言っている。ふたりの求めて止まないものが、ここに眠っている。
――――そろそろそれを、掘り返してもいい頃だと、青峰は思うのだ。
そろそろそれを、俺達は手にしていいはずなのだ、と。
日もすっかり暮れて夜行灯が点り出した頃になって、ようやっと動きを止めたふたりは近くのコンビニへ飲み物を買いに行き、そうしてふたたび戻ってくる。コートを目の前にしたベンチに、並んで座る。
昔からずっとあるストバス場近くの個人経営のコンビニの親父は、ふたりの顔を覚えているだろうに、何も言わないままかつて通り無愛想にレジを打ち込んでくれた。
夜も気温は下がる事なく夏空に保たれたまま。ふたりは特に会話もなくスポーツドリンクに口をつけては空を見上げ、コートの白線を目で追っていた。
あたりには微かなふたりの吐息と、そして夏らしい虫たちの鳴き声だけ。・・・それが、一瞬ぴたり、とやんだ瞬間。その空白の瞬間に、青峰はふいに口を開いて言った。
その一言の後にはまたなんの変わりもなかったかのように虫の重奏がふたたび響き出す。
黄瀬は、息を忘れた。
彼は今、なんと言っただろうか。
「一緒に暮らさね」
このまま呼吸を忘れてしまえば、俺はわずかと立たず意識を失える。そうどこかで馬鹿みたいなことを黄瀬は考える。
今横に座った、わずかに膝小僧の触れ合ったこの男は、なんと言っただろう!
一緒に、と言った。とても優しい声で、それは一緒に、と言ったのだ。
手慰みにしていたボールが落ちて、てんてんと転がっていく。あの聞き慣れた鼓動が、黄瀬の心の臓の躍動に同調した。
それは青峰も同じ。
「なあ黄瀬、お前にしか出来ない事がある」
なあに?
「俺を幸せにする事だ。」
せつない、せつない、せつないほどの想いが黄瀬の胸一杯になった。つっかえて息も出来ない。声も出せない。涙すら、心のうちでつっかえて涙腺までは届かなかった。
僅か触れ合った膝小僧。その上で、青峰は黄瀬の手を取り握りしめた。ぎゅっと、強く確かめ合って。そして力を抜く。幾度も繰り返してきたふたりの動作。その掌の力が抜けた瞬間、黄瀬の胸の張りも一気にほつれた。
ぶわわとせり上がった涙が、とても大きな粒をつくって頬に流れた。
「もう充分、時間はかけた。
いい加減お前を幸せにしたいし、俺だって幸せになりてぇ。」
黄瀬のたったひとつぶの涙を掬った青峰の、澄んだ瞳も黄瀬とまったく同じだった。
せつないほどの、一杯一杯の思いが詰め込まれている。水気を含んだ青みの眼球。黄瀬は、これが言葉で言い表せぬほどに大切だ。
「それが今の俺には出来るはずだし、お前だって。」
そうだろ?――額を寄せた青峰は、心のなかでそう問いかけるとそれに黄瀬は大きく頷いて答える。
そう、多くの苦悩に負けずにここまでやってきた自分たちに、もうそれが出来ないはずもないのだ。青峰は黄瀬を必ず幸せにしてくれるし、黄瀬も青峰を必ず幸せにしてみせる。
これまでが幸せじゃなかったわけではない。でも、もっと欲張りをしていいはず。当たり前のように手を取り合っていいし、いつでも愛を囁き合っていい。そんな距離に、寄り添っていていい。
どちらともなく身を寄せ合って、唇を交わし合った。通い慣れたストバス場の、座り慣れたベンチの上。ふたりがこの場所にはじめて揃って来たときから、もう数えて15年の月日が経つが、ここでこうしてキスをするのはこれが最初だった。
俺たちはここまで来れたんだな。ふたりはもう一度こつんと額を合わせあって、積み重ねて来た時とそしてこれからを思った。
――――どこか古びた一軒家を探そう。新築じゃだめだ。年季のはいった俺らにゃピカピカのフローリングは似合わない。しわがれた爺さんと婆さんが暮らしてたような、そんなところがいい。俺らにはそれで充分だろ。家具も高価じゃなくていい。寝心地と、座り心地と、使い心地と、肌触りが大事だ。お前のようにな。いてっ叩くなよ、分かった分かった・・・・あとはそうだな、キッチンと寝室は遠くないほうがいい。コーヒーを淹れる匂いで、野菜を切る音で俺は毎朝目覚めるんだよ。そんでお前の為に、でっかいクローゼットだな。なかったら部屋をまるまる一室それに当ててもいい。庭は広くなくても、フリースローが出来ればそれで充分。あ、犬でも飼うか?それなら、庭はもうちょい広い方がいいかもな。3階はいらない。それより屋根裏部屋。そこに時たま布団を持って上がって、ふたりしてゴロ寝すんだ。天窓がなかったら、日曜大工でもして作り付けて、そんでそこから空を見上げる。狭くも、広くもない家。廊下ですれ違う時、肩が触れ合うくらいでいい。広すぎるのは、あんまいただけねぇ。家の端と端にいても、気配が感じられるくらい・・・それがベスト。それが第一条件。
長い間、ふたりは思い合ってきた。とても長い間だ。改めて数えてみれば、すぐに両手がいっぱいになってしまう。それでも足りない。それだけの長い間を経て、ようやっと、はじめて、ふたりは共に暮らす事を選ぶことが出来る。
めずらしく青峰が、はしゃいだように指を折る。
たったひとつ屋根の下。ふたりで、どうやって暮らしていこうか。
あれが要るこれが要る。ふたりは、時間を忘れてそれを語り合う。話す事は尽きなかった。ダイニングテーブルには花を置くのだ、そして庭にはバスケットゴールを取り付けるのだ。
それはふたりのこれからの話。ふたりが毎日、ただいまとおかえりを言い合う、そんなこれからの時間の話だ。
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