スタンディング・オベーション

 姉さんね、
 と黄瀬は一言言ったあと、しばし考えるような――というよりも、思い出すような仕草をして、瞳を彷徨わせた。
 黄瀬の実家からの帰り道だった。あれからすぐにあの家を辞した黄瀬と青峰は、ふたたび青峰の実家へと足を進めている。
 青峰の家族の好意で、ふたりの日本滞在中の宿は青峰家になることが決まっていた。パパラッチや報道陣の心配もあったが、そういった集団はふたりが宿泊予定であったホテルの方に集まっているらしい。ホテルはキャンセルせずに、そのまま宿泊代金を払ってあるが、あそこにはもう戻らないだろう。ふたりが青峰家へ泊る事が決まってから、黄瀬の事務所が敢えてふたりの宿泊ホテルとして情報をリークしておいた。数日くらいは時間が稼げるはずだし、青峰家へ記者が殺到する事は、青峰の父が警察官であることからもなかなかないだろう。昨日のあの体たらく(泥酔)や今朝の寝汚い(二日酔い)様子からはなかなか想像し難いだろうが、青峰の父は普段バッジやら階級章をわんさか着けた、れっきとした警察のお偉さんである。高卒ノンキャリながら警視正まで上り詰めた叩き上げで、現在は県警の警備部部長を勤めている。
 警備部とは、機動隊やレスキュー、特殊部隊(SAT)やまたSPなどが所属する部署で、青峰父自身もかつてはそのような部隊に身を置いていた。若い頃の研磨故に未だ衰えを見せない父の肉体は、日本人としては規格外のガタイを持つ息子と並んでも遜色するものではない。口には出さないが青峰はそんな父を尊敬していて、小さな頃は将来警察官になるかバスケット選手になるか、真剣に悩んだものである。結局、その両方プラス、ついでに仮面ライダーにもなると結論付けた幼き日の青峰なのであるが、そんな冗談を抜いても、もし自分がバスケットの道に進んでいなければ警察官になっていただろうと、青峰は確信を持って言えた。
 まあ、”もし”などという言葉、人生にはないのだが――――。
 ふと、考える。黄瀬は、どうしてモデルになったのだろう。
 青峰のきっかけは、母である。実は青峰の母はかつて女子バスケットの実業団チームに所属していた事がある。青峰の出産とともに選手は引退したが、青峰が幼稚園に入った辺りからふたたび働き出した。それは選手としてではなくトレーナーとしてであったが、そのような母の姿は当然のように青峰へと影響した。4つの誕生日の時に、バスケットボールを買い与えられた。そして5つの誕生日には、子供用のバスケットリングを強請った。それが全てのはじまりである。
 青峰の"将来の夢"には、いつも両親の影響があった。バスケット選手しかり、警察官しかり。分かりやすい影響のされ方だろう。では黄瀬は?黄瀬はどうなのか。
 黄瀬の家族や親族に、モデルや芸能関係の仕事についている者はいないと言う。ならば黄瀬は、家族にはなんの影響も受けずに、自身で"将来の夢"を見つけ出し、そしてそれを叶えたのだろうか。
 黄瀬がもった"将来の夢"とは、きっとふたつだった。モデル、そしてバスケットボールプレイヤー。その片方は青峰がきっかけを与えたものである。自惚れではなく、黄瀬が幾度も幾度も言うように、黄瀬の世界にバスケットを与えたのは間違いなく青峰だった。
 ならばモデルは。
 黄瀬は、青峰の思考を知ったうえではないだろうが、まるでタイミングを読んだかの如く口を開いた。過去を思い巡らすようにしていた黄瀬が、ようやっと言葉を発した。

「小さい頃は、姉さんとも仲良かったんス。」

 4歳差。大きくも小さくもない年齢差。もしかしたらもっと離れていれば。いいやもっと近ければ。・・・何度か、そんな事も考えた。でもきっと、どうであっても一緒だった。第一、人生に"もし"などという言葉は有り得ない。
 そのことを黄瀬は知っていて、だから寂しそうに息を吐いて続けた。

「でも、父さんが死んで、俺が小学校に上がった頃から・・だんだん。」

 父の葬式で姉は弟の、黄瀬のてのひらをぎゅっとぎゅっと握ってくれていた。しかし以降、そうしたふたりの距離はひらいていくことになる。
 はじめはその理由が、黄瀬には分からなかった。

「同じ小学校で、最初は登校も一緒にしてたんスけど・・一年もしないうちに、それもなくなって。あの頃は分からんなかったスけど、たぶん、姉さんは俺と比べられるのが、嫌だったんスね。
 俺のこの毛、父さん譲りなんスけど・・父さんの家系が、結構肌が白かったり色素が薄かったりする家系で。まあ俺ほど顕著なのははじめてみたいなんスけどね。
 父さんも、ちょっと髪が茶っぽいくらいだったから、俺のは遺伝もあるけど症状名つけちゃえば超軽度の色素欠乏症っていうか。とにかく、俺小さい頃から目立ってて。見た目も、あの頃はマジ女の子みたいで・・・あっ今度写真見したげるね」

 おどけるように肩を竦めて、青峰に一旦視線を送る。
 ばか、と青峰はそれにのるように黄瀬を小突くが、しかし瞳は真剣に話の続きを促していた。

「・・で、姉さんは母さん似で。当然黒髪で。俺とは顔もそこまで似てなくて。
 たくさん、比べられたんだと思う。それでだんだん俺と一緒に居る事を避け出した。
 俺がモデルを始めたのは、小学校の時なんスけど。学校の帰りに急にスカウトされて、母さんに話したら興味なさそうにしてたから、俺も最初はやるつもりなかったんスけど・・・でも、なんか家にいるのも、居心地悪くってさ。母さんは仕事が忙しいし、姉さんは俺を避けてるし、学校じゃ女の子は寄ってきてくれるけど男の子からはなんか微妙に距離取られちゃって。だから、自分もとりあえずなんかやりたくて。ほんと、暇つぶしみたいな感じで始めたんス。
 えへへ、生意気っしょ?――でも、あの頃の俺にはそれくらいしか思い付けなかった。母さんは仕事、姉さんは塾に女友達。俺だけ、なんもすることが無いような気がして。なんでも出来るはずなのに、なんにも、出来ないような気がしてさ。だからそんな焦りみたいなものを、モデルの仕事で埋めようとしたんだと思う。」

 ゆっくりとした足取りで、住宅街を行く。日の暮れ出した道。コンクリートが強い夕陽の光を照り返した。黄瀬の髪は、その光を浴びて素直にその色を吸収する。まるで夕陽色の髪を揺らして、話をしていた。
 滅多にないほどの、特出した容姿。
 青峰はそれが齎す悲喜交々をこれまで間近で見て来た。
 抜群のルックスには利点どころか難点もたくさんあるということを青峰は黄瀬を見て知ったのだ。
 つまりそれが、黄瀬を家族の中ですら孤立させたという事か。

「でも、モデルの仕事が軌道に乗り出すと、それまで無関心だった姉さんが急に怒り出しちゃって・・・俺の露出が増えて、それまで以上に回りに比べられ出したんだと思う。そんで、"キセリョの姉"って、言われるようになっちゃったんスよ。よく考えればすぐに分かったことなのに、俺、そうやって姉さんが悩んでることになんか気付きもしないで。
 でも、だからとそれに気付けた頃には俺も、もうモデルの仕事をやめることなんて出来なくなってた。色褪せた世界の中で、縋れるものがそれだけしかなかったから。きらびやかで、またドロドロもしてる業界は、一括りに"綺麗"だけとは言い表せなかったけど、でもそれでもまだ色があった。わずかだったけど、色が、まだ、褪せきってはいなかった。
 姉さんが苦しんでいるのに気付いても、俺にはどうすることも出来なかった。姉さんは、俺の姉であることを嫌悪するようになった。」

 ――それから黄瀬は中学生になり、青峰に、そしてバスケに出会った。
 世界は色に満ちて、ふたたび溢れんばかりに輝き出した。
 何度か、今ならモデルを辞められる、そうも思った。しかし黄瀬がモデルを辞めることはとうとうなかった。あの頃には分からなかったが、黄瀬はもう、その時点でモデルという仕事を自分の中に取り込んでしまっていたのだ。身の一部に、生活の欠かせないひとつの要素に、していた。
 それは高校生になって歳を重ねる毎にどんどん明らかになっていった。モデルとしてステップアップしていくことが、努力する事が黄瀬のなかで当たり前のように身に馴染んでいた。
 高校後の、進路を決める時。黄瀬はてっきり自分はバスケを続けるつもりなんだと、自分でさえも思っていた。しかし、選んだのはモデルだった。
 そのとき黄瀬は気付いた。モデルの仕事が、自らの強烈なアイデンティティであること。
 8歳でモデルをはじめたときから、黄瀬の半身は常にモデルの黄瀬涼太だったのだ。寝ていてもご飯を食べていてもなにをしていたって、当たり前のように肌を気使い、体重コントロールし、姿勢を正して。
 バスケをしているときは確かに、モデルとしての見目や怪我など気にしてはいられない。しかし試合が、練習が終ればすぐさま黄瀬は身体をチェックした。それは、バスケット選手としての面と、モデルとしての面があった。跡が残るような怪我はないか、ウォーキングに支障をきたす不具合はないか、肌が荒れないように汗はすぐに流して、疲労やストレスが表面に出ないようにケアも万全に。
 ああ、これはダメだな。黄瀬は思いのほかすんなりとそう思えた。
 自分はもうモデルとしてしか生活出来ない。それ以外の生き方を、もう出来ない、と。
 そう思って、進路をモデルに定めるまではさほど時間はかからなかった。
 しかしバスケを辞めることは、それとこれとは別問題である。泣いて、苦しんで、悲しんで、でも結論は引っくり返せるものじゃないと、自分が一番分かっていた。幾ら泣いてもモデルを辞めることは、もはや出来なかったから。
 選択の間際に、なにか劇的で分かりやすい、コレだ!という感じのものがあった訳じゃない。でも実際はそんなもんだ。青峰だってバスケを選んだ事は、自分のなかじゃ特別なことでもなんでもない。自然と、自然と当たり前ように、バスケット選手になる道を選んだ。
 それと黄瀬も、一緒だった。まったく、一緒なのだった。

「――パリに行くんだって、俺はとうとう姉さんにも母さんにも言えずじまいで、そのまま家を出た。アパートを引き払って、家具も小物も、トランクに入らなかったものは全部捨てた。実家に持ち帰って置いててもらうのも考えたけど、それはなんとなく出来なかった。
 そっからはいよいよ連絡を取り合う事もなくなってさ、何年だったか・・分かんないスけど、声も聞かない時期が続いて。で、ある日日本の事務所のマネージャーから聞いたんス!お姉さん、結婚したんだってね〜って。・・・俺、全く知らなくて。慌てて姉さんに電話したら、もう挙式まで終えちゃっててさ。もう、私は"黄瀬"じゃないから、あんたとは関係ない人間でしょ、てさ。」

 黄瀬はふいに後ろを振り返って、もう見える筈もない"我が家"を、遠目に見るようにした。
 黄瀬があの家にただいまと言っていた日常は、もう十年以上も前の事だった。けれども、それでもあの家は黄瀬にとっては我が家だった。たとえおかえりと返る言葉がなかろうと、常に寒々した沈黙を落としていようと。あの家は黄瀬のホームで、色々な思いの詰まった、大切な家族の空間だった。
 先程、黄瀬は母から「もうそろそろこの家も手放すから、家に残ってるあんたの物も全部捨てちゃうわよ」と言われていた。なにか取っておきたい物があるのなら持っていきなさいと。
 それを聞いて黄瀬は、いよいよこの家も、終わりなのだと、ほとほと実感した。
 黄瀬が、ただいまと言って帰って来れる場所はもう日本にはなくなる。
 ふるさとの筈の地で、普通なら第一声であろうはずの言葉を失うのだ。「た、」と口を開けて、しかしそれに続ける言葉がもうすでにないことを思い出し、虚しく閉口する瞬間が、いずれくる。
 なんともいえないものだった。
 こんな時がくることなど、とうの昔に、それこそ十何年と前から薄々気付いていたことだった。今更涙が出たり、大袈裟に嘆くほどのことじゃない。黄瀬の心はそこまで、大きな傷をこのことに対して受けなかった。――でも、虚しい。少しばかり、遣る瀬無い。心と呼吸器を繋ぐ空洞が、カラカラと音をさせるよう。たとえば青峰と抱き合った瞬間の、じんわりと身体に広がるせつなさ、それと正反対の、しかしどこか似たような感覚。切ない。
 夕陽が傾いて、どんどんその空の色味を夜は飲み込んでいった。
 きれいなグラデ―ジョンのどこかに、黄瀬はいつもイブ・クラインの色を見付けようとするのだ。孤高の青の色。青峰の色。それは黄瀬に、遠い空を隔てた先にいる彼の存在をせつないほどに思い起こさせる。その彼は今は隣に居るけれど、しかし黄瀬はそうしてふるさとの空に青峰の色を見付けようとした。

「――家、着いたぞ。」

 空を見上げてふらふらと歩く黄瀬の手を、ふっと優しくとって青峰は立ち止まった。
 目に入らず通り過ぎようとしていた門扉の前に黄瀬は引き戻されて慌てて二歩戻る。引き止められた手と反対の腕の中でこんもりとした手拭包みがカチャリと鳴った。
 黄瀬が母の言葉を受けて、持ち帰ってきたあのぐい飲みだった。4つセットのそれを、黄瀬は迷ってふたつだけ持ち帰った。

「わわ、ほんとだ。ごめんぼーっとしてたっス。」

 黒白根の表札の横を通って、玄関に手をかけて。在宅で鍵のかかっていないそれを捻って中へと入る。室内は明かりに満ち人が居る空気を当たり前のように発していた。
 ただいまー、と青峰が声をあげて言うのに、パタパタとスリッパの音が返る。奥から、青峰の母がエプロンを揺らしながら出迎えに来てくれた。

「おかえりぃ、大輝、涼太くん。」

 青峰と黄瀬、ふたりの目を見ながらはっきりとそう言って笑む。
 黄瀬は、なんとなく口を開けぬまま、ああそういえば青峰っちと手を繋いだままだと、急に思い出した。
 すると壁の向こうのリビングが俄に騒がしくなって、次の瞬間にはガチャリと大きな音を立てて磨りガラスの扉が開いた。顔を覗かせ、そして騒がしくわらわらと玄関に集まってきた面々は、相も変わらずの雁首を揃えては、口々に勝手な事を一斉に言った。

「ちょっ、帰ってくるなら事前に言いなさいよねー!」「まったく昔からその馬鹿は治らないのだよ」「おーやっと帰ってきたか。」「お邪魔してます青峰くん黄瀬くん。」「ふたりとも遅いしーお腹減ったしー」「久しぶりだな。大輝、涼太。」

 そして呆気にとられるふたりに矢継ぎ早にそれぞれが「おかえり」を言うと、青峰の母も含め、一様にその返答を待つようにしてふたりを見詰めた。
 それはなんの衒いもなく、ごく自然に。
 まず、呆れながら青峰がただいまを言うと、黄瀬は、はっとしたように息を吸って、小さな声で青峰にならった。
 聞き取り辛いそれに、青峰が繋いだ手をくいっと引いてもう一度言うよう促す。その一連の動作を、なんだかまるで帰宅の挨拶を習ったばかりの小さな子供のようだと思った黄瀬は、今度はちゃんと顔を上げて、元気よくそして言った。

「ただいま!」






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