スタンディング・オベーション


 覚悟していたことだった。

 門前になって急に不安げな顔をし出した黄瀬に、青峰は努めて明るく「だいじょうぶだ」と言ったが、ちゃんと安心させられる笑みを浮かべられていた自信はなかった。
 青峰が黄瀬の家族に会うのは、これがはじめてだった。
 中学の頃からよく黄瀬は青峰の家に遊びにきたが、青峰が黄瀬の実家に遊びにいく機会というのは、思いのほか少なかった。黄瀬は高校の途中からひとり暮らしをはじめていたし、駅からも最寄りのストバス場からも中学からも、青峰の実家の方が近かった。だから自ずと、屯するのはあの青峰家になる。
 青峰の家族も黄瀬を当初から心良く受け入れ、それを黄瀬の方も心地よく感じているようだったから、青峰の方にも黄瀬を我が家に連れて行くのに抵抗はなかった。隣にはさつきもいるし、なにかと都合も良かった。
 黄瀬の家に、行った事がない訳ではない。高校時代は一人暮らしをはじめた黄瀬のアパートによく行っては休みの日を共に過ごしたりしていたし、中学の時には何度か実家にもお邪魔した。ただ、そのどのタイミングにも、青峰が黄瀬の家族に会う事はなかった。
 どの時間帯に行っても、黄瀬の家は基本人がいなかった。黄瀬自身もあの頃からそれはもう学校に部活に仕事にと、忙しくしていたから、家にいる時間は至極短かっただろう。そしてそれは、家族も同じだったのだ。自分の家とは違う、あまり人の出入りしない空気を黄瀬の実家に青峰は感じていた。
 黄瀬が懐から鍵束を取り出し、そのジャラジャラとした内からひとつを選び出す。それはキーホルダーやなんかのない素っ気無いものだったが、束と言うに相応しい数がそこに纏められている。仕事の関係で、なんだかんだ"こう"なるのだといつだか言っていた。なんで"そう"なるのかを、青峰は未だよく理解していないが。
 玄関を、黄瀬は必要以上に静かに開けた。
 ゆっくりと鍵を差し込み、ゆっくりと鍵穴を回転させたのだ。最低限の音だけさせて、扉は解錠された。
 玄関の先には覚えのある静寂がある。事前に黄瀬が家族に今日訪ねる旨を報告している筈であるから、てっきり在宅だと思っていたのだが・・・しかしそんな青峰の心配を他所に、黄瀬はほっと安心したような息をひとつ漏らして、「よかった居るみたい・・」と呟いた。
 よかった、と言いながらも、一層に緊張を強めたような面構えだった。
「静かだな。」
 暗に、ほんとうに居るのか?こんな静かな家に?と言う意味で尋ねたのだが、黄瀬はそこに籠められた意味をきっと半分は理解出来ていないままの頭で、うんと頷いて玄関にひとつぽつんと置かれているハイヒールを指差した。

「姉さんはいないみたいスけど、母さんなら居るスよ。」

 青峰は、こんなに静かな家に、家族がいる、という感覚にいまいち納得ができなかった。自分の"実家"と違いすぎる。あの家は、いつも騒がしく、あたたかく(暑苦しく)、そして人が居ない時も不思議に静けさは感じなかった。人がここで生活をしているという、空気が常にあそこにはあるのだ。
 しかしそれが一切ここにはなかった。そしてそれを、黄瀬は当然の如く受け止めている。
 青峰には青峰の実家像があるように、黄瀬には黄瀬の実家像、そして家族像があった。黄瀬の感覚にとっては、コレが当たり前なのだ。
 そろそろと電気のついていない廊下を行って、リビングに出る。リビングにも電気はついていなかった。綺麗な部屋だ。散らかっているもの等、ひとつもない。それがまた青峰には素っ気無い印象を与えた。
「お茶かなんか淹れるから、ソファで待ってて。」
 言われた青峰は、臙脂色の深い色味のソファに、ジャケットの前ボタンを外して腰掛けた。
 一応、事が事という事で、青峰は黄瀬チョイスのグレーのサマースーツに身を包んでいた。と言っても、かたくなりすぎずインナーは普通の濃紺のTシャツである。黄瀬の方も、遊び心のあるあまり見ない生地感のスーツに、それとテイストを合わせた柄のネクタイ、落ち着いた色味ながら爽やかでかつモード感漂う、目を惹くスーツスタイルだった。その気取らない、普段着としてスーツを着こなす姿はさすがモデルと言ったところか。ここらあたりは都内とはいえ普通の住宅地であるから、そんな青峰と黄瀬の連れ立つ姿はどこか浮世離れていた。といっても、道中は人に会う事もなく騒がれるような事もなかったが。
 キッチンからお盆を持って戻ってきた黄瀬は、ぐい飲みのような陶器に茶を注いで三つ用意した。
 茶というよりも焼酎でもいれた方が映えそうな渋さだったが、それを出してきた黄瀬は、揃いの湯のみがみっつもなくて・・と言って苦笑した。
「確かこれ、知り合いの結婚式に出た時の引き出物っス。」
 どっかイイトコの窯のやつらしいっスよ〜と笑った黄瀬は、自分で淹れた茶を一口服んで落ち着くと、さあ、と行って再び立ち上がった。母を呼んでくる、と静かな表情で言う。青峰は頷いて、心の中でそっと、待ってる、とリビングを出て行く黄瀬の背中に囁いた。

 階段は昇らず、家の奥へ黄瀬が行く気配を意識の端に感じながら、青峰は茶を啜った。美味くも不味くもない茶だった。黄瀬は茶を淹れるのが下手ではなかった。フランスでは態々日本茶葉を取り寄せ、軟水を買ってまで淹れて飲んでいるとも言っていた。何事も器用にこなす黄瀬が淹れる茶が香り高く上品で落ち着く味であることを、青峰はここ数年になって知った。だから、きっとこの茶が香り薄いのは黄瀬の所為ではないのだろう。碌に使われず棚に忘れ置かれた茶葉が、香りを風化させてしまっていたのかもしれない。
 廊下の先から、扉が開閉する音が聞こえた。そして、こちらに向かう人の気配。リビングの扉が少し軋む、まるで女性をエスコートするように、開けた扉を支え横に避けて黄瀬は後ろに続いていた人物の入室を促した。青峰は、自分はあんな風に母を女性として扱った事があったかとふと思った。
 立ち上がりその長身を露にした青峰を目の前にしても、億さず目礼してきた年ながら美しい女性が、黄瀬の母親だった。あまり、似てはいない。しかし随所に面影はあった。黄瀬がもっと幼かった頃、少女かと見紛う事が少なくなかった頃であれば、もっと似ていると感じたのだろうか。黄瀬が時折見せる容姿のうえでの中性性に、確かにこの母親の存在が感じられる。

「はじめまして。青峰大輝です。」

 深く腰を折った青峰に、自己紹介で返した母親の低めで落ち着いた声音。黄瀬の促しでソファに収まった三人は、それぞれ目の前の陶器に手をつけると口を潤した。一瞬、気まず気な沈黙が流れる。青峰の横で、その空気に耐えきれずか、後押しされてか、黄瀬が覚悟を決めた顔で口を開きかけた。す、と、息を吸った音が僅かに聞こえた。
 ・・・しかし、それと同時に玄関の方から物音が響いた。思わず三人が振り向いた先、リビングの閉められた扉の向こうで、人の動く気配がする。ハイヒールがコツコツと玄関タイルに当たり高い音をさせている。そうして、誰かが屋内にあがってきた。
 扉が開いて、顔を出した相手を見て、青峰はその人物が黄瀬の"姉"であることを悟った。
 容姿が、特別似ている訳ではない。美人ではあるが、黄瀬のように目立つほどではなかった。髪も黒く、黄瀬にというよりも黄瀬の母親とどこか近しい雰囲気を持っている。黄瀬の薄い色素や日本人離れした体型は、父親似なのかもしれない。母親も姉も、こうして見れば際立ってスタイルが良い訳でもなかった。

「・・・涼太。」

 リビングに足を踏み入れた姉――たぶん――は、数歩ソファに近寄りはしたが、それでも幾分他人行儀な距離で立ち止まった。
「ひさしぶり、姉さん。」
 青峰の予想は当たっており、彼女が黄瀬の姉に違いないようだった。
「青峰っち、こっちが姉の――」
「しんっじらんない」

「・・え?」

 姉、と今まさに紹介されようとしていた女性の瞳は、これ以上ない程に、冷えきっていた。

 青峰の隣で、黄瀬の肩がギクリと揺れた。姉のその先に続く言葉を予見し、どうか言わないで言わないでと、悲願しているようだと、思う。請うような縋るような小さな声音で、黄瀬がもう一度「姉さん、」と呼び掛けかける。しかしそれを姉は、聞き入れなかった。

「冗談やめてよ。なにうちにまで連れてきてんの。なにしに来た訳?ていうかアンタもなに帰ってきてんのよ。しかもわざわざ私まで呼び出してさ。もう私とアンタ、関係なんてないでしょ。それがなに?まさかアイサツでもしにきた?ハッ、しんっじらんない。どんだけ無神経なわけ。」

「・・・・ねえさん、」

 黄瀬の瞳に、じわりと悲しみがひろがった。その色を、姉はとても煩わしそうに、苛立たし気にしか見遣らなかった。
 空気が凍る。予想していたひとつのかたちとはいえ、ここまで正面切って否定されるのは、それも"家族"に否定されるのは、堪える。
 青峰は、言葉を見付けられず押し黙るしかなかった。今たとえ青峰がなにか言ったとて、一層に姉が苛立つのは分かりきっていた。

「ねえさん、」

「わざわざ来たっていうのに・・、」

「こちらね、青峰大輝くん、」

「私もう帰るから。」

「今はアメリカでバスケの選手をしてるの、」

「ほんと無駄な時間だったわ。」

「それでね、俺とお付き合いしてる人で――、」

「聞きたくないわよ別にっ!」

 姉の激昂に、今度は黄瀬は、肩をびくつかせることもなかった。
 ただ瞳の色が、濃さを増して、哀しみを深くしていった。

「わざわざ報告なんていらないから!私とアンタ、もう関係なんかないって言ってるでしょう!だいたい、だいたい――――っ、」

 全身を震わして肩を怒らせて、顔を歪めて彼女が言うのに、さすがにその先を言わすのはダメだ、と唐突に青峰は悟って、立ち上がる。条件反射に近い。姉が一層に激高しようがどうなろうが、もはや関係なかった。その言葉だけは今、黄瀬に聞かせたくない・・・・よりによって"家族"からだなんて。

「男同士なんて、気持ちわる「お姉さん!」

 青峰の低く鋭い一声に、姉がはっとしてそちらを見遣る。青の、佇むだけで威圧感を醸す長身の男の見下ろしてくる瞳に、僅かたじろぐ。
 青峰と黄瀬の身長に今も大した差はない。だから青峰程度の長身に、姉ならば慣れていてもおかしくはないのに、姉は青峰の大きさに、確かに萎縮した。・・・そのことは、黄瀬とその姉の間にある、拭えない確執を露にしていた。どれほどの間、この姉弟は近付く事していないのだろう。こうして今のように、ずっと他人行儀な距離感のまま接してきたのだろうか。

「・・・青峰大輝と、言います。涼太くんとは中学の頃から仲良くさせて貰っていて、」
「だから、聞いてない!」
「ずっと、ほんとうにお世話になっています。バスケで必死な俺を、ずっと支えてくれて、」
「聞いてない!知りたくなんか、――ない!」

 今にも声の裏返りそうなその叫びに負けないように、腹を据え直しながら口を開く。姉の言葉がひとつひとつ青峰の心にも刺さったが、でもここで負けてはならない。
 黄瀬が、そっと青峰の手を握った。縋って来るようだった。そしてまた、引き止めているようでもあった。・・震えていた。青峰には、それを握り返してやるしか出来ない。
 奮い立たせよう、心を。

「俺達は男同士ですが、真剣に、交際関係にあります。今日はご挨拶にあがりました、」
「〜〜〜そんなの、おかしいでしょ!普通じゃ、ないでしょ!」
「否定されても、俺に、俺達に、この関係を解消するつもりはありません。」
「っ!」

 青峰が、強く言った。そして黄瀬と繋いだ手をふいに掲げて、姉に見せ付けるようにする。
 姉が息を吸う。見開いた目が、揺れ動いていた。黄瀬はその姉の様子をつぶさに見詰める――その揺れる瞳のなかには否定や嫌悪といった感情が蠢いている。目を離せないのか、目を離してはならないと決意したのか、黄瀬自身にも分からない。でも、ただ見詰め続ける事だけはやめなかった。

「黄瀬涼太は、俺が、大切にします。」

 まるで宣誓だった。
 その強く、真っ直ぐで、澄み切って美しい青峰の言葉に姉は一歩退いて、ハッととても冷たい冷笑だけを残して、音高く家を出て行った。
 リビングに沈黙が落ちる。茫然としたような、茫洋とした瞳をして黄瀬は姉が去っていった扉の方を一時見詰めていた。力なく微かな力で握り返されている掌を、青峰は確かめるようにぎゅっと握る。いつものように、力強く握り返されることはのぞめなかった。

 ようやっとゆるゆる扉から視線を外した黄瀬は、落ち着く為にすっかりぬるくなったお茶に手を伸ばした。香りも何もない、味気ない茶だ。それはそうだろう、どれだけ使われていないのか茶葉を入れていた袋は埃を被っていた。食器棚にも、相変わらず碌なものが収められていなかった。この家でキッチンに立つ人間等いないのだ。それに今は、姉が結婚して家を出、ここに残っているのは母ひとり。広い屋内は閑散とし、生活感は嘗ての黄瀬の記憶よりももっと薄くなっている。
 一息を吐いて、黄瀬は母親を見詰めた。母は、なにを考えているのかよく分からない眼差しで、ぐい飲みを見詰めていた。――母は、このぐい飲みを覚えているだろうか。高校時代、黄瀬と母が最後に共に出掛けた時の物だった。親戚の結婚式に出席した。家族だからと同じ円卓に着いたが、会話はなかった。それでも、ふたりで出掛けた最後の記憶。
 四つセットのこの陶器を、黄瀬は引っ越しの際持っていくかどうか迷った。結局、ひっそりと食器棚に並べて扉を閉じた。今日の日まで、このぐい飲みが使われる事はなかったのだろう。下に敷いていた梱包材に、動かした形跡のないくっきりとした土台の跡がついていた。
 息子の目線に気付き、母が顔を上げる。かつては、冷たいながらももっと生気が漲り、美しかったように思う顔が、今は隠せない疲労や老いを見せているように思う。そういった親の変化に、黄瀬はなんとも言えぬ感情を抱くしかない。

「かあさん」

 幼い頃は、一見して親子だと周りに見抜かれていた。しかしそれは、年を追うごとになくなっていった。黄瀬の容姿の成長もあっただろう。しかしそれ以上に、広がっていく距離があった。いつからか、それは母と息子の距離感ではなくなってしまった。

「・・・りょうた」

 いつぶりだろうか、母が、こんなにも感情を込めて、息子の名前を呼んだ。


 青峰は静かに座り直して、見守った。今対話をはじめようとしている親子を。出来れば少しでもその距離感を狭められればいいのにと思う。それが難しいことなのは、まだ僅かの時間しか関わっていない青峰にも分かったが、それでも。


「この人ね、中学で、俺がバスケを始めるきっかけになった人。この人のお陰でね、俺は忘れられない学生時代を過ごす事が出来たし、その後もたくさん頑張る勇気を与えてもらった。
 すごくね、優しいんだよ。今日は、それを、言いたくって。素敵な人にね、俺出会ったんだよって。」

 ゆっくりとした時でその言葉を咀嚼して、母は何度か瞬きをした後にようやっとひとつ頷いた。そう、と小さな声で呟いて、一度また俯いたあと、もう一度顔を上げる。わずかに、わずかにその瞳の奥にやさしさを見たような気がした。

「・・・よかった、わね。」

 その言葉は、喜色万遍の、必ずしもいい響きばかりの声音ではなかった。それでも、受け入れてくれたことに黄瀬は嬉しそうに笑った。もっと欲張っていいんじゃないか、と青峰なんかは思うが、黄瀬はこれだけでも感激するほどに満足している。
 母親の声には、諦めや、疲れや、僅かの無関心なんかも紛れていた。祝福・・・にはほど遠かった。

「ありがとう、母さん。」

 真っ直ぐな黄瀬の言葉に、母親の方が苦しそうな顔をした。母親自身、自分の言葉があまりにも空しい響きを持っていたことを自覚しているのだろう。でも、そんな程度の言葉でも黄瀬は喜んでしまうのだ。それはこれまでどれだけ黄瀬にそういった言葉をかけてこなかったか、の裏返しでもあった。・・・もっと家族ってのは、欲張るべきだ、と青峰は再度思う。
 こういった黄瀬の家族の家族としての縁の希薄さを感じ取ったからこその、先程の青峰の言葉でもあった。"黄瀬は俺が大切にする"と。まるで家族が黄瀬を大切にしてこなかったかのような言い様だったが、それがそう間違った事でもないと青峰は見抜いている。そして母親のほうも、その青峰の言葉に反論する言葉を持たない。

 黄瀬は、いそいそと荷物を探り出して、母親に紙袋を差し出した。アメリカ土産とフランス土産である。菓子の説明をしている黄瀬はもういつもの調子に戻っていた。それを見詰める母の眼差しが少しばかり陰っている。心苦しそうな、複雑そうな。
 それを見ている青峰の視線にふいに母親は気付き、ぱちりとふたりは視線を交わした。青峰の瞳には非難の色こそなかったが、そこには多分に、恋人の母親に向けるべきリスペクトなどといった念は欠けていた。そして青峰はそれを隠そうなどという努力をする男ではない。

 しばし話をして・・と言っても、黄瀬がひとり話すばかりであったが、そうして小一時間を過ごした三人は、黄瀬が茶器を片付けにキッチンに下がった事により、お開きの雰囲気になる。
 母と青峰の間にこの一時間も確かな会話らしい会話はなかったが、この時もそれに変わりはなかった。ふたりソファで向き合う形になっているのだが、視線は先程から交わらない・・・リビングに、食器の擦れ合う音と水音だけが響く。
 しかしそこでふいに、母親がひとつ息を吐いた。なにかを感じ取り青峰が目線を上げると、母は細く血管の浮いた指先で、黄瀬と青峰からの菓子折りを撫でていた。
 数口戸惑うようにして、口を開閉させた後、母が低い声を出す。ハスキーで落ち着きのある声音。黄瀬から母親はいまも現役のキャリアウーマンだと聞かされていた。外資系の会社でそこそこのポストにあると。

「あの子が家を出て、」

 ――それは、数えてみればもう10年以上も前の事だ。高校の途中から、黄瀬はすでに一人暮らしをはじめていた。そうやって改めて振り返ってみれば、親と同居している期間のなんと短い事か。たった18回の、又は16回の春を共に迎えただけ。あと数年もすれば、親元を離れて暮らした期間の方が、長くなるのだ。不思議な感覚だった。

「そして姉の方も結婚して家を出て、この家に残るのが私ひとりになって、」

 黄瀬の4つ違いの姉。数年前に結婚したという。
 黄瀬から家族の話を青峰はあまり聞いた事がなかった。そういった話題を避けていた訳ではなかったのだが、自然とそうなった。黄瀬は、話題にすべき家族らしいエピソードを、あまりにも持っていなかったのだ。幼少の頃の、たった幾つかだけのエピソードを、青峰はその内容を覚えるほどに聞いている。だってそれしか、話すような内容が黄瀬にはなかったから。

「そうしてようやっと、分かったの。あの子は、ずっとこんな寒々しい家にひとりで居たのね、と。」

 ・・後悔、だろうか。どうだろう。母の瞳に揺れている翳りの正体を、そこまでを青峰には窺う事出来なかった。ただそういった反省紛いの言葉にも、どこか上滑りしている部分があることだけは分かる。たしかにこの家の寒さに今ようやっと母も気付き、それを悲しんでいるのだろうが、やはりそこに滲む家族愛は、どこか薄いままだ。もしかしたらもう、とうに取り戻せないところまで来ているのかもしれない。この家族は。

「そろそろこの家も、手放そうと思っているわ。・・・あの子は愚痴も言わずこの家に耐え続けていたというのに、私は早々にこの家を投げ出すのね、はは、情けないわ。」

 "家族"という像に、正解などない。ドラマや映画でよく描かれるように、和気藹々とした暖かいばかりの家族が必ずしも正しいという訳ではない。それをすべての家族に求めるのは、ただの押しつけに他ならないだろう。その家族毎に愛し方があり、関わり方がある。人の個性に正解がないように、家族という個体にもまた個性がある。密な関わりを持つコミュニティ、反対にまったくの疎遠なままのコミュニティとも言えぬ・・それでも血脈と言う繋がりをもった個体たち。
 青峰に、黄瀬の家族に口を出す権利はたぶんない。ただ、黄瀬にだけは違う。黄瀬は、青峰が、大切にするのだから。血縁はなくとも、確りとした繋がりを黄瀬と青峰は築いている。これからも築いていく。
 ・・黄瀬は、この家を失くせばつまり、"実家"を失う事になる。
 でも、それでも、青峰が手を引いていけば、黄瀬はこれからもこの日本と言う故郷の地で帰路に着く事が出来る。だって、青峰の家へ、青峰の実家へ行くまでの道のりは、すでに黄瀬にとっても帰路なのだから。
 そうですか、とだけ、青峰は答えた。その揺らぐ事ない強い声に、母親は青峰を見返した。
 黄瀬とは違う、ダークブラウンの瞳。そのうちの全ての感情は青峰には分からない。当たり前だ。しかし、そこに僅かの愛もないとは、情もないとは、思わない。たしかに母から息子へと向ける愛情は、その瞳の内に眠っているのだ。
 彼女は、自分がとてもそんなことを言える立場にはないと分かっているから、黄瀬を――息子をよろしく、とは言わなかった。それでも、青峰はその口にしない言葉に応えるつもりで、ひとつ頷いた。




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