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マザーに挨拶し、青峰は孤児院を後にした。たった一年と少し離れていただけなのに、どことなく院はかつてより小さくなったように青峰には見えた。見送りに出てくれたマザーもまた、ひと回り小さくなったような、そんな気がする。
手を上げ、踵を返し、門を潜る。院の中からは子供たちの声。ここは青峰が育った場所であり、それなりの愛着をもった場所ではあるが、しかしまた戻って来よう、とは思えない。孤児院のなかにも、子供たちのなかにも、やはり社会というものはある。そしてそれは特殊な環境故に、とてもアンバランスな均衡のもと成り立っている。孤児院の者たちを、軽々しく家族だとか、仲間だとか、そういった感覚で一括りにすることは出来ない。
孤児院の隣には、隣接するように教会が建っている。院と、教会の柵の、そのほんの僅かな間。
幼い頃はよくあの狭い空間に肩を寄せ合って、潜り込んではヒソヒソ話をした――今ではもう、半身がぎりぎり入り込むくらいか、のものであろう。青峰はそれはもう立派すぎるくらい立派に体躯ばかり成長し、それは今も止まっていない。
幼い頃、青峰はなぜだか、この教会が苦手だった。なぜだか無性に、恐かったのだ。そして恨めしかった。自身の事とはいえあんなに幼い頃抱いていた感情のことなど、青峰にだってよく分からない。でも今になって思えばそれは驚く位強烈な感情で、切実なものであったと・・・、思う。
その特徴的な三角屋根。頂きの十字架。
――例えば教会に通う信者の気持ちとは、こんなものなのであろうか、青峰は思わず足を止める。
孤児院でのマザーとの話を、青峰は未だ、全くもって消化しきれていない。ああして話を聞いたあとだと、よりこの教会が恐ろしいもののように見える気もする。もしかすれば幼い頃の青峰も、こうして今と同様にして複雑な心で、あの三角屋根を見上げていたのかもしれない。
ぼぅと立ち尽くしていた青峰の傍で、ふいに草薮がガサリと音を立てる。目線をやれば、いかにも神父らしい恰好をした初老の男性が、ゴミ袋を片手に草の間に立っていた。袋には間引かれたらしい枝葉や草が詰められている。どうやらここの神父殿は今、庭仕事の真っ最中らしかった。
「おや、こんにちは。驚かせてしまっていたらすみません・・・・・・、あれ?」
どことなく、見覚えがないようでもないような、男性だ。恐らくここに勤めてもう長いのだろう、青峰が院にいる時にでも見掛ける機会があったはずだ。
軽く会釈をした青峰に、神父殿はふと目を見張って、そしてしばし首を捻った。もしかして、神父殿の方も青峰を見た事でもあったか。隣の孤児院にいた者です、青峰はそう付け加えようとして、しかし口を開く前に、あっと神父殿の方が声を上げた。
「ああ、君はもしかして・・・そうか、少し感じが違うから分からなかったけど、確か彼も身長が高かったね、」
「はい?」
「息子さんだろう?お父上のこと、聞き及んでいます。私はここの神父でお父上とは――、」
「ちょっ!と、待って、ください 」
少々驚いたように言葉を止めた神父殿を、青峰はまじまじ見遣る。青峰に、こんな知り合いはいない。神父などこれまで――たった昨日、あの刑事たちがやって来る瞬間まで、自身にはまったく関係のない人種であると思っていた。それは青峰の夫婦も同じであろう。青峰をここの孤児院から引き取った経緯から、院の隣に教会があることくらいは知っているであろうが、とてもそれ以上の関わりがあるとは思えない。家の和室には普通に、夫婦の祖父母や親の写真の置かれた高そうな仏壇がある。
青峰は、恐々と神父殿に尋ねかける。すでに半ば、確信が、青峰の内には溢れてしまっていたが。
「父、とは、誰のことで・・?」
「ん?もしかして人違いをしてしまったかな。髪の色がとてもよく似ているからてっきり。
彼の名前は――――と言うのだが、心当たりはあるだろうか?」
神奈川の刑事が、燻された低い声で説明した名と、それは全く同じであった。ご丁寧に漢字まで説明された。DNAデータの紙で印字されたその名前も見た。
いっそ青峰は、泣き叫びたいと思う。
かつて院と教会の柵の間で縮こまって泣き喚いたときのように。なり振りなど構わずに、絶叫出来たなら。
なにかが――なにかが――――青峰の中で、繋がった。
繋がってしまった。
たった一度でも像を結んでしまえば、それはすでにもう無視出来る容量を越えていた。
会わなければならない。会わなければ、青峰はそう絶望の深い深い深淵を間近で見下ろしながら、呟くように思った。
会わなければ。それは幼子の癇癪にも似た、そして本能から零れ落ちたかのような、抗えぬ直感であった。
そう、青峰はかつて知っていた。あの深淵の底の方、暗い真四角の空間。
青峰は今、克明にその暗闇を思い出した。
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俺の母親は鉄の塊だ。スチールに、ステンレス、そして塩化ビニル、ポリエチレン。
正立方体に区切られたそこが俺の納まっていた胎内で、産声を上げた場所だ。金額は300円。俺のいのちにかけられた値段、300円。
今もあの暗闇を覚えている。
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遠目でも、嫌になる程の人混みの向こうでも、暮れきった夜の帳の下でも。
青峰は、その姿を一目で見付けられるだろう、とそう思う。
月曜日だった。一学期最後の登校日、終業式の日。昼食を終えた午後から青峰は怒濤のバスケ漬けの日々に突入する。
青峰は遠目にあの色が太陽に反射するのを見留めて、腰掛けていた水場のタイルから立ち上がる。こちらの姿を視界におさめ、向こうも小走りになって駆け寄ってくる。風のままに揺らぐ目映い頭髪の色。そしてあの不思議な、不可思議な明度の鮮烈な瞳。
彼は今時珍しいことに、携帯電話を持っていなかった。思えばそれ以外にも、彼に関する確かな情報を青峰はなにも、まるでなにも、知り得ていなかった。
彼を呼び出して、そして会わなければと確信した土曜日、しかし青峰はいざ連絡しようと言う段になって、自身がそんな手段を彼に対してなんにも持っていないのだということに気付き、愕然とした。
そうして青峰は悶々とした日曜日を過ごし、月曜日、ホームルームのあとの全校集会にて、蠢く不快な程の生徒の人波の中から彼を見つけ出して、ここで会おうということを告げた。
急に強く腕を掴まれて彼はとてもとても驚いた顔をして振り向いたけれど、その表情は青峰をその視界におさめた途端、ぱっと一瞬で消え去ってとても華やいだ笑みへとなった。
その思わず目を細めてしまわんばかりの輝きに、青峰は覚悟を決めて向き合う。
「――黄瀬、お前に、聞きたい事がある。」
黄瀬涼太は、かわらず、青峰の様子に気付いているだろうにいつもと変わらぬ笑みで、笑い続けていた。そこにはきっと、ひと欠片の嘘も、ないのだ。彼が心の底から青峰に対し微笑み、内から滲むような歓びや慈しみを帯びている。
もし、もしも、彼が青峰の深い深い過去の砂地に埋もれている、一昨日ようようその姿の一端が掘り起こされた、過去の、まるで象徴のような、その者ならば。
彼は、今何を思い、そうして笑んでいるのだろう。
「きせ、お前は、俺を知っているのか?」
おまえは、
青峰は一度言葉を切った。そして心の奥の奥の方から漏らすような声で、りょう、と呟いた。低く籠った声音だった。
きっと本人に自覚はないだろう、緊張のせいでいつにも増した強面になっている青峰の顔を黄瀬はただ笑った。優しくひたすらに静かな瞳はブレることない。
そしてまるで、まるでいつか紐解かれる定めであった秘密の箱を丁寧に差し出すようにして。黄瀬は今一度笑みを深めた。微笑み。そこに染みるように悲しみが広がって。
「大輝」
黄瀬は青峰の名を、とても大切そうに、呼んだ。
風が吹く。示された事実に、青峰は、悲しむべきなのか、喜ぶべきなのか、怒るべきなのか、または何も思わぬべきなのか。何もかも。全くもって。分からなくなった。
だいき、だいき・・黄瀬は確かめるように、そう幾度か呟いた。そしてやっぱり、とひとつゆっくりと瞬きをすると、黄瀬はいつものようにコロコロと笑った。
「やっぱり、青峰っちよりも、大輝って呼ぶ方が、ずっとずっとイイっすね。」
「・・ちがいが、あんのか?」
こんなときでも、黄瀬はやはり眩しかった。初夏も過ぎ去り、季節はすっかり夏だ。照り返る太陽の光線が、黄瀬の頭髪や肌やそして瞳に、乱反射してまるで彼を発光しているかのようにする。
「俺たちにとって苗字って、そう意味のあるものじゃないじゃないっスか。そうでしょう?だいき。現に俺はあんたの"今の"苗字をここに来て知った。前の苗字はなんだった?何件か里子に出たって聞いたよ。その数だけ、大輝には苗字があるんスよね。
でも、"だいき"だけは。"大輝"だけはずっと変わらない。・・・・あんたにね、会いにきたんすよ、俺。」
後ろ手を組んで、まるでステップでも踏み出しそうに軽やかに、身を揺らしながら黄瀬は語る。
会いにきたんだ。
――青峰は一昨日、黄瀬に、会わなければと思った。これまで感じたことのないほどの焦燥だった。凄まじい衝動で、抗える術など全く見付けられそうもなかった。
黄瀬も、そうだったのだろうか?黄瀬も青峰に、会わなければと。焦がれて焦がれて、そうしてとうとう、会いにきてしまったのだろうか。
黄瀬は、どうして、
「どうして、」
俺に会いにきた?知りたい。そして知りたくなどないのだ、青峰は。でもそれにも黄瀬は笑うだけだから。
「どうしてだと思うっすか?ねえ、」
「・・・」
「ねえ、大輝は、」
「・・・」
「おにいちゃん、かな?それとも、おとうと、なのかなぁ。」
「――っ!」
――――青峰大輝の母親は、
「17年前、俺たちは一緒に生まれたんだ。あんたといっしょ、あのコインロッカーの中で。俺たちはね、産声をあげたんスよ。」
――――青峰大輝の母親は、鉄の塊だった。スチールにステンレス、塩化ビニルにプラスチック。正立方体の無機質な狭い空間、そこが青峰にとっての母親の胎内だった。そこで青峰は、産声を上げた。
青峰大輝の母親はコインロッカーだった。
「俺の名前はりょうた。"黄瀬"の名字に意味はない。あんたと同じ、コインロッカー生まれの、あんたの兄弟だよ。」
季節は、夏休みへと突入する。
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ほんとはたった、ひとめ・・・ひとめだけ、見てみたかっただけなんだ。君がいま、どんなふうにして笑っているのか。
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