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 染み着いた習慣は、こんな日も青峰を正確な時間に目覚めさせた。
 重い瞼を半分開いて、そっとベッドサイドの時計を見遣る。朝練の時間。しかし今日はオフである。起き上がる必要などなく、本当は、このまま布団に潜って眠りの底に落ちていってしまいたい。
 しかし、それが出来ないことを青峰は分かっている。昨夜、自身が眠りに落ちた時間を覚えてはいない。しかし最後に時計を見たときの針の傾き具合を思い出せば、結局碌な時間眠りにつけなかったのだと分かる。今の青峰は、まともな睡眠を得れる状態にない。

 昨夜、ふたりの男がここ青峰家を尋ねてきた。二人は刑事だと言った。そして青峰に、大輝に、父親の死を知らせた。
 ちちおやが、死んだ。青峰が見た事も、会った事も、今の今まで存在すら知らなかったちちおやが、死んだという。しかもころされて。

 身体が感情に連なってしまったかのように重い。しかしそれでものろのろとでも起き上がり、布団を整える。
 青峰の部屋は、予想以上に整頓されている。と言うか、まず物からして少なかった。
 ――習慣、だ。
 幼い頃よりこなしてきた毎日の習慣。整頓、それは"決まり事"であった。青峰が育った場所の。そして物が少ないことは、青峰が自然と身に付けた、これも習慣。
 青峰は、両親を知らなかった。赤子の頃より施設で育ってきた。
 ではこの青峰の家の夫婦はなんなのかと言うと、今現在の青峰の里親である。高校一年にあがる春、青峰はこの家へとやってきた。
 たから正確には青峰は"青峰"ではない。養子縁組を組んだ訳ではないから、青峰の苗字を正式に名乗っている訳ではないのだ。青峰夫婦と青峰大輝は、正式に、赤の他人だった。
 青峰には他にちゃんと、戸籍に登録された正確な苗字がある。名前不明・両親不明の赤子の名前は、拾われた市区町村長に決定権がある。青峰も施設預かりになったとき、時の区長から名前を貰っていた。青峰が学校で青峰と名乗れているのは、学校などの公的機関がそういった事情を理解し、配慮を行ってくれるからだ。
 青峰は、正式には青峰ではない。しかし、しかし一年と数ヶ月前から、青峰は正真正銘、"青峰"大輝なのだ。
 夫婦は優しく、穏やかで、そして青峰自身の心が充分に成長しつつあることもあり、これまでいくつか経験してきた里親のなかでも、一番うまくやれていると思っていた。

 それが突然の、あんな告白。

 刑事たちは隣県の、神奈川県警の強行犯係だと名乗った。
 刑事たちが言うところの青峰大輝の本当の父親、は、海にほど近い街に教会を構える神父だった。その神父が、2ヶ月半前の5月初め、何者かによって殺害された。
 聞くだに、全く持って信じ難い話であった。まるで刑事ドラマのなかの出来事だ。それに自身が僅かでも関わっているだなんて、そんなこと青峰には考えもつかない。しかし刑事たちは確信をもって青峰に会いに来ていた。
 おもむろに懐から取り出された一枚の紙っぺら。そのたった一枚の紙が、青峰と、その青峰の父親らしい神父との、極めて近しい血縁関係を、証明していた。DNAの比較データだ。
 今回採取した神父のDNAはまず、過去の事件等に関わっている可能性がないかを調べる為に警察のデータベースにかけられた、がヒットはなかった。しかし事件発生しばらく経つも犯人検挙に至れず、警察は僅かの種も見逃さない為に、神父のDNAを今度はあらゆる機関のデータベースにかけはじめた。一部の職種や環境では、DNA検査を義務付けられているところなどもあり、それらは纏めると莫大な量となるのだ。そうして警察は、とうとうあるひとつの点を見付けた。――それが、青峰であった。
 青峰は両親不明の孤児である。過去、血縁者を探す為にDNA検査を行った事があった。青峰自身覚えていようはずもない、遠い昔の話である。そんな、データの海の隅の隅にあった情報が、今回、思わぬ形で釣り上げられてしまった。
 紙切れは、示していた。"それ"がほぼ確実であると。
 DNA情報とは、血縁同士であるといくつかの類似パターンを見せるのだという。そしてそれは血が近ければ近い程顕著になる。青峰と、神父は、極めて近い血縁関係にあることが科学的に証明され、このデータの現れ方や年齢等を鑑みても、このふたりは93.15%の確率で父子関係にある、というのが紙きれの内容であった。――――だから、なんなんだ。
 だから、なんだというんだ、だから、だから?だからなんだって言うんだ、何を聞きたいって言うんだ・・・・、たった一枚の、端がよれ折り目が不格好についたような紙を突き付けて今更、なにを。
 青峰はその紙を手にした瞬間、自身の底から沸き上がってくる言い様のない怒りのようなものを感じていた。
 ちちおや、だなんて、たった今その存在を知ったというのに。話す事などない。聞かせられる話など、なにひとつある訳がないのだ。ころされたとか、そういったことももはやあまり関係がなかった。とにかく、消化不良すぎる胸糞悪さが体中に広がっていた。
 刑事はそれから、しばし身のない話をして帰っていった。
 青峰はそのまま2階の自室へあがり、布団に籠った。いつまでもいつまでも訪れぬ眠りの前で、青峰はひたすらに呪詛を編むように眠りたい眠ってしまいたいと頭を抱え続けた。
 そして。
 ほんの僅かな眠りに落ちて、そして染み込んだ習慣のままに覚醒を果たしたとき。
 青峰は、そうすることに、した。
 ベッドを綺麗に直し、服を着替え、少ない荷物を抱えて。
 階段を降り、リビングにいる夫婦に「行ってくる」、そう声をかける。
 ・・・どこへ?、当然の問い掛けに、青峰ははっきりと答えた。

「マザーに会ってくる。」



//////



 久しい顔に、青峰はなんとも言えない、郷愁とも、哀愁とも言えない妙な心地を抱いていた。
 "マザー"、彼女はこの施設のオーナーである。大家とも、地主とも、いろいろと言い方はあるかもしれない。けれど彼女に正式な役職名はない。彼女はマザー、言うなれば、それこそ神父なんかと似たような立場かもしれない。この施設においての相談役。この孤児院の院長や事務長なんかは他にいる。
 彼女はすでに年を重ねきったような、老年の女性であった。しかし未だ腰の曲がりは最低限でキープしているらしい。さすがに青峰が未だ幼かった頃のきびきびした動きは些か失われてはいたが、しかしその歳にしては随分元気な方であろう。
 マザーは青峰を見た瞬間、あのほころぶような笑みを浮かべて、大輝、と優しく名前を呼んだ。
「まあ、また大きくなったのね。大輝はどれほど高くまでいってしまうのかしら。」
 ここはそこそこに大きな孤児院だ。それでもマザーは、院にいる全員の名前を言える。そしてこの院出身の者がたとえ何十年ぶりに顔をだしたとて、その人物の名前をするりと呼ぶ事が出来るのだ。
「久しぶり。腰はどうよ?」
「あら。開口一番に、随分失礼なのね。少しは女性の扱いを覚えたかと思っていたのに。」
「女性って歳でもねぇだろ。」
「いいえ、その人自身が願えば女性はいつまでも女性なのですよ。そうそう、さつきちゃんはどうしているかしら?」
「ん、元気にやってる。養父母とも問題はない。」
「そう。」
 桃井さつきは、青峰の幼少よりの幼馴染みだ。それこそ生まれたばかりの赤子の頃から、一緒であるらしい。
 中学の一時期は青峰が里子に出ていた故に離れていた時期もあるが、その他になると、常に最も近くにいた存在だった。高校も桃井は青峰を追い掛けるように帝光を受験して、そして現在はバスケ部のマネージャーを勤めている。
 青峰と同時期にこの院へやって来て、そしてさつきは結構早い段階で里子に出され、そして小学校へ上がる頃にはその"両親"と養子縁組を組んだ。あの桃色の少女は、正式に"桃井"、桃井さつきである。



//////


 青峰の両親について。
 マザーはなにも、答えてはくれなかった。
 誤摩化しているとか、嘘をついているなんてことはないだろう、恐らくほんとうに、なにも知らないのだ。
 刑事たちに、事件の詳細は口外するなと言われているので細かい事情が説明出来なかったのも悪かったのかもしれないが、しかしそれでも、きっと詳しく事の仔細を話したとて得られた情報などなかったであろう。
 孤児の多くが、両親というもの知らない。特に極々幼少期の捨て子など、ほんとうに両親というものを、"存在"の次元で、知らないのだ。そうしたまま彼ら彼女らは大人になる。青峰だって、そんなうちの、ひとりだった。

 子供とは存外逞しいもので、たとえ親の存在を知らなくとも、意外と生きていけるものである。もちろんその場合親の変わりの庇護者が必要になるのだが、子供とて、ひとつの命だ。生命の営みを、神秘を、そのたったひとつの小さな身体内で体現している。そこに親の有無は究極には関係のないことだ。
 ――しかし、しかし。父と、母と、兄と、弟と、姉と、妹と、呼ぶ存在がいないということ。
 それはやはり、言い様のない、ぽっかりと、ポッカリとした、空洞なのだ。空虚な、すきま風の通ってしまう。
 これは恐らく、後天的に芽生える虚なのだと思う。人の社会で成長していくにつれて、子供は知ってしまうのだ。自身は"人生"と呼ばれるなかのとても大切な、重要だとされるピースを、はじめから持っていないのだということに。
「――――なんで、」
 丸みを帯びながらも瀬戸際を守っていた、いっぱいいっぱいのコップの水が、我慢をきかず、ぽろり、たった一粒だけ水滴を零すように。
「――――なんで、おれには、」
 それは青峰がはじめて口にする言葉だった。無様に擦れた声を、しかしマザーは無様だとは、決して言わないし、思いもしなかった。
「なんでおれには、おやじとかーちゃんがいないんだろ。」

 "マザー"、
 それは便利な言葉だった。マザー、それは母の意味。しかしこの言葉にはたたの'婦人'と、'修道女'と、'愛'との意味も内包されている。そしてこれはこの国の言葉ではなく、海外のものである。一枚のフィルターを挟んだ先の、これは言葉なのだ。
 母のない子供たちの母のかわりとして、マザーは存在している。
 そう、マザーは決して"母"にはなれない。ならない。
 マザーには、青峰のその問い・・・否、呟きにだけは、返す言葉をもっていなかった。

 俯いた青峰の瞳は、はたしてどこをとらえているのだろう。
 眼窩が影を作って、それは窺い知れない。
「青峰のおじさんとおばさんと、うまくやれてたと思う。でもこんなことんなって、」
 自嘲に近い響きが言葉にはあって、マザーは眉を下げる。青峰は、迷路を進めば進む程、自らにしか、頼らなくなるのだ。内に内に邁進していってしまう。それは、とても苦しい苦悩の仕方だ。そしてそれは、悲しくも青峰のこれまでの生き方故に育まれてしまったものとも言える。
 マザーは青峰に声をかけようと手を伸ばす。落ちた肩。かつてでは想像もできないくらいに大きく、逞しく、育った。心の成長だって、これまでの会話でよくよくマザーは感じ取っていた。しかし、しかしそれでも青峰は未だ少年なのだ。すべて、なにもかも成長途中の。未だ青年ではない、少年なのだ。
 ――しかしマザーは開きかけた口を止めることになる。
 この時、マザーははじめて、青峰と自身の間にあったとても大きな認識の違いに、ようやく気付いたのだった。
 それは14年越しの――道草を食い横道に逸れていた真実の、邂逅だった。

「なんでだろうな、なんでおれには、かぞくがないんだろう。
 一緒にここにきたさつきには、俺の"もうひとり"には、すぐにかぞくが出来たのに、俺には・・、」
「大輝。」

 はっきりとした口調であった。はっとして、思わず顔を上げた青峰は、対面にピンと背筋を伸ばして座る老年の女性の姿を見る。
 マザーは首を振ると、違いますよ、と言った。マザーの瞳の奥にも僅かの困惑が見える。なんのことか分からずに、青峰は自然首を傾げたポーズになった。

「違います、大輝。あなたは勘違いをしています。さつきちゃんは、あなたと一緒にここへきたわけではありませんよ?」
「・・・あ?え、俺には、俺の"もうひとり"がいるって言ったのは、貴女だろ?」
「ええそうです。」
「それならやっぱり、さつきじゃないか。ここへ一緒にやってきたけど、片方は・・俺の"もうひとり"は、すぐにいなくなったって。里子に貰われたんだろう?だから、」
「いいえ違うのです、大輝。その子はさつきちゃんじゃない。さつきちゃんは"貴男たち"がここに来る2ヶ月以上前に、すでにこちらへ保護されていました。」
「は、?」
「まさか、こんな思い違いがあったなんて――-―この事にこれまで気付かなかったなんて。」

 青峰は、突然の話に一気に混乱の底へとたたき落とされる。マザーの言っている意味がいまいち掴めなかった。しかし大変なことを言われているのは分かる。
 なぜなら、ずっと"そう"だと思い込んでいた事実が、根底から今覆されているのだ。さつきが、俺の"もうひとり"では、ないと――聞き間違いでなければ、青峰の頭がおかしくなったのでなければ、そう、確かに聞こえる。

「"貴男たち"はたしかに、ここへ一緒にやってきました。そう大輝、あなたと、あなたの"もうひとり"です。その子はさつきちゃんではない――里子に貰われたのでも、ない。あの子は14年前、この孤児院から、"いなくなりました"。」
「――――・・・」
「ほんとうに、覚えていませんか?あの頃貴男たちは、ほんとうになにをするにも一緒だった。ほんとうに、兄弟のようで、」
 青峰は、すでに、声を出せなかった。
 何故だかは分からない。知らないはずのその存在を、はじめて聞くはずのその存在を、しかし自身は知っている、気が、するのだ。――まるで幼いころの夢想の中の友人を自分でない者が指差して、それは現実だと言われているような。かつては純粋に信じていたサンタの存在を、とうの昔に嘘と見破った今更になって否あれはほんとうは本物なのだ、と言われているような・・・・御し難い、気持ちであるとしか、青峰には言いようが、ない。
 これ以上マザーの言葉を聞いていられなくて、遮るように手を上げて俯く。マザーは静かに口を閉ざし、しかし低めた声で最後に、ぽつりぽつりと、幾ことか言葉を続けた。

「――あれは14年前の、11月の末の事であったと思います。あの日は孤児院の隣の教会へ他県から何人か神父さんがいらしていて・・・、そう、あれはちょうど教会の感謝祭の時期の事ですから。
 その日あなたはひとり、教会と孤児院の柵の間で、たったひとり、泣いていたのです。」


『――――うぁぁぁ、あぁぁん、うぇ、えぇぇんっ 』
『大輝!どうしたのです、こんなところで泣いて、なにかあった、』
『あ、あぁぁぁっん、うぇ、え、りょ、りょうがぁーーーッ!』

『りょう、りょ、りょうがぁ、あ・・・っ!』


「――――りょ、ぅ、」
「『りょうが、飛んでいっちゃった。』・・・あなたはそう言って、ひとり、泣いていたのです。」









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