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#14




「どした?」
「…待って、」


漸く声が出た。けれど、待って、という言葉の続きは出てこない。引き留めて、それで、私はどうしたいのだろう。何を伝えたいのだろう。自分の中でまとまっていないことを伝えようというのは無茶というもので、けれども侑さんに逃げられまいという心理が働いたのか、無意識のうちに掴んでいる手の力を強めていた。逃げへんよ、と苦笑されて初めて自分の行動に気付き、かあっと顔に熱が集まる。
こんなに必死になったことがいまだかつてあっただろうか。仕事のことでならもしかしたらあったかもしれないけれど、プライベートにおいて何かに固執したことは絶対にない。何かひとつに溺れてしまったら、それを失った時に自分がどうなってしまうか分からないから。今思えば、自己防衛というやつだったのだと思う。
けれどもその自己防衛は、今や働いていない。少しずつ、ゆっくりと、けれども着実に。侑さんは私の中に入り込んできていて、気付かないぐらいの速度でじわじわと侵食されていた。否、気付かないフリをしていただけで、私はそれを受け入れていた。もっと言うなら、望んでいたのだ。なんと愚かなことか。


「…そない泣きそうな顔するんは狡いわ」
「ごめんなさい…私、やっぱり、侑さんと付き合うべきじゃ、」
「それは、俺のことが好きやないから?」
「……違います」
「俺のこと引き留めたんは別れ話するためなん?」
「違う、そうじゃなくて、」
「名前ちゃん」


侑さんの手が私の手から離れていった。ああ、そういえば侑さんの方から離れていったのはこれが初めてかもしれない。いつも侑さんは、私を追いかけてくれて、きちんと捕まえてくれて、それが当たり前だと思っていて。


「俺は、名前ちゃんの何なんかなあ」


声音は優しいのに、こんな風に責められているみたいなことを呟かれる日が来るなんて思っていなかった。自分でも自分のことを心底面倒な女だと思う。簡単なことなのだ。侑さんのことが好きですって、侑さんは私の大切な彼氏ですって、ただそれだけ言えば全てが丸く収まる。
それが分かっているのに言えないのは、自分が求めることで侑さんがいつか離れていってしまうのが怖いからだろうか。今までそうだったように。求めたからといって、求めてもらえるわけじゃない。だから、自分からは求めない。自分自身が傷付かないように、私は常にある一線を越えられずにいた。


「俺な、自信あってん。名前ちゃんに好きになってもらえる、て。簡単やないやろうけど、少しずつ俺のモンになってくれるんちゃうかなーて。けど、いまだに分からへんねん。名前ちゃんの思うとること」
「侑さん…」
「俺のことほんまに好きになれへんのやったら、ここらが潮時かなあて、ちょっと考えとったんやけど…名前ちゃんはどう思う?」


これは一種の別れ話なのだろうか。どう思う?別れるか、別れないか、どうしたいかってこと?そんなの、別れたくないに決まってる。私、こんなに侑さんのこと好きだったっけ?失うと思ったら名残惜しいだけ?もう自分の思いが全く分からない。
またもや訪れた沈黙。ここで口を開かなければならないのは間違いなく私だ。けれどもやっぱり、肝心な時に私の声帯は機能しない。


「分かった」
「え?」
「答えはええよ。…帰ろ」
「でも、それじゃあ、」
「ほなね。名前ちゃん」


気を付けて帰りや〜、とヒラヒラ手を振る侑さんの笑顔はいつもと変わらなかったけれど、なんだかいつもより遠く感じた。私は、最後のチャンスを逃してしまったのかもしれない。侑さんの背中を見つめながら、ぼんやりとそんなことを思って。暫くその場所から動けなかった。


◇ ◇ ◇



花の金曜日。今日も仕事は定時で終わった。随分とホワイトな企業だと喜びたいのは山々なのだけれど、私が定時で帰れるのには理由がある。侑さんが私の仕事までさっさと片付けてくれているからだ。それも、無駄口を叩かず静かに。
今週に入ってからというもの、雑談らしい雑談はしていない。夜ご飯にも誘われないし、帰りも一緒にならない。それはまるで、ただの同僚に戻ってしまったかのようだった。むしろ、初対面の時よりも確実によそよそしくなったと思う。そのくせ他の社員達には今まで通り普通に接しているのだから、これは間違いなく避けられているのだろう。


「お疲れ様でした」
「お疲れさん」
「あの、」
「なに?」
「まだ帰らないのかなと思って…」
「ああ。ちょっと用事あんねん」
「そう、なんですね、」


用事ってなんだろう。仕事のこと?それともプライベートなこと?尋ねたところでどうしようもない疑問が浮かび上がっては消えていく。今の私に、侑さんのことを知る権利なんてないのに。
結局それ以上は何も聞けぬまま、私はとぼとぼと帰路につく。私達って今、どういう関係なんだろう。明確に別れましょう、と話したわけではないけれど、距離感的に言えば別れたも同然。そもそも、ちゃんと付き合えていたのかも謎だけれど、それは全て私のせいだ。
何度目になるかもわからない自己嫌悪に陥りながらぼーっと歩いていたせいだろう。擦れ違う人に思い切りぶつかってしまい我に帰る。慌てて謝ってその人の顔を見れば、じわりと涙が滲んだ。だって、なんでこんな時にこんなところで、侑さんと瓜二つの顔を見つめなければならないんだ。
ぶつかった相手である治さんは、偶然の出会いと私の反応両方に驚いたようで目を丸くさせている。勝手な八つ当たりで本当に申し訳ないとは思うけれど、なんであなた達は双子なんですか。そんな顔でこっち見ないでください。侑さんに見られているみたいで苦しい。


「どっか痛いん…?」
「違います」
「あー…もしかして、なんかあった?…ツムと」
「……、」
「俺の顔見たらツムのこと思い出した、とか?」


ズケズケと私の中に踏み入ってくるところは侑さんとよく似ている。言い返せもしないことを平気で言ってくるところも。治さんとはあの食事の時以外、仕事の時にしか話したことがないけれど、侑さんの兄弟というだけでなんとなく心を許してしまいそうな自分が怖い。弱っている今は、特に。
沢山の人が行き交う道端で立ち止まっている私達はさぞかし邪魔で滑稽な存在だろう。けれどもなぜか動けない私に、治さんは深く息を吐いた。


「何があったんか知らんけど、名字さん、相当ツムのこと好きになったんやな」
「は?え、そんな、」
「せやなかったら俺のこと見てそんな顔せぇへんやろ」
「私は…自分の気持ちが分からなくて、だからこんなことになってて…どうしたら良いのか…」
「名字さんがしたいようにすればええやん。ツムはそれを待っとるんちゃうの?」


何を当たり前のことを、と言わんばかりにぶつけられた言葉は、私の頭にガツンと響いた。私がこうしたら、こんなことを言ったら、侑さんはどう思うだろう。そんなことばかりを考えていた。自分がどうしたいかなんて二の次、三の次ぐらいで、それを求められているかもしれないなんて考えもしなかった。
もしも治さんの言葉通りだったとしたら。もしもまだ可能性があるなら。もしも侑さんが待っていてくれるのだとしたら。私は。


「治さん、ありがとうございました」
「なんやよぉ分からんけど、どういたしまして?」
「ぶつかってごめんなさい。でも、ぶつかったのが治さんで良かったです」
「そらどーも」


私は治さんにペコリと頭を下げると、くるりと来た道を逆走し始めた。手にはスマホ。メッセージを送ろうとして、止める。電話にしよう。出てくれるか分からないけれど。出てくれたとして、上手く会話ができるかも分からないけれど。
私、侑さんに伝えたいことがあるんです。
鳴り響くコール音に心音がどんどん速くなっていくのを感じながら、私はただ走った。


今こそ、け出すのです